01.獣


「なんでもないから、早く行って!」
 少女が額に汗をにじませて声を荒げ、後方へと視線を一瞬だけ向ける。少女の目の前には明らかに理性を失っている獣。その種類は定かではなく、かろうじて四足歩行のイヌ科の生き物だろうとしか分からない。
 唸り上げられる咆哮に、肉体以上だろう毛羽立った体毛、滴り落ちる泡を含んだ唾液、光の無い目、その四本足それぞれに人間の頭ほどの爪を生やし、じゃりじゃりと地面に傷を作っている。耳は大小四つ、尻尾は蛇のように揺らめいて、両脇腹からは得体の知れない生き物が笑い声を立てている。

 なんでもないと言うのは状況ではなかった。

 はあせっていた。人通りの無い夜道に放り出されたと思えば、背後に迫るは獣のうねり声と殺気のようなもの。本やテレビでしかしらないそれに、素早く反応することが素人に出来るはずも無く、気がつけばお気に入りのパーカーの袖が引き裂かれていた。
 袖と共にえぐられた手首からは血が滴り落ちて、手首の内側をえぐられなくて良かったと安堵するほかなく、その獣が背後から目の前に飛び出した通り過ぎざまの犯行に、なにこの悪い夢、と心の中で舌打ちするしかない。
 体中ふわふわと膜に覆われているような感覚が渦巻いて、でも手首の痛みも頬に感じる夜特有の冷たい空気も理解してて、でも頭のど真ん中で「夢なのに痛いのは、痛覚を人間が持っているからで、特に珍しいことじゃない。早く目が覚めないかな」なんて思ってる。
「気が狂ってるな」
 目の前の獣が唸り声と笑い声の合唱をしているのを聞いても、見ても、どこかで見たり読んだりした化け物を具現化した程度にしか思えない。怖いし汗も吹き出すし、初めての事態に足さえ動かないけれど。
 夢だからこそあっさり死にそうで、確か夢で死ぬのは今の自分より成長したいという心の現われだっけ? と、のんきに考えてしまう。
「なっ、これは……!」
 不意に背後から男性の声がした。
 振り返れば見知った顔で、おいおい、今日の夢はラッキーだなと一人ごちる。死んでしまう夢でも、好きなキャラが現れれば、それだけで目覚めはすっきりしようというもの。
 化け物から逃げたいから、さっさと場面転換するか目を覚ましたいと多少なりとも思っていたのに、あっさりもうちょっと夢を見ていたいなと思ってしまう。
 ああ、どうせ私は二次元萌えなのさ!
 は自分の心の中で叫ぶと同時に、獣が唸り声を強くする。コレはやばいと本能的に悟って声を上げる。
「なんでもないから、早く行って!」
 けれど彼はそんな薄情者でも小心者でもないのを知っているから、ちょっとだけ顔を見に後ろを見てしまう。ああ、失敗だと一発でわかった。
「なんでもないわけねぇだろ!」
 男らしい怒声と共に、彼の持つ銃が火を噴く。そして獣はに踊りかかってきた。
 男らしいまでにピンチだと、の冷静などこかが笑う。獣がを盾にしたまま、の右腕にかぶりついてくる。ああ、痛いなぁと痛くも無いのには思う。
 でも血は吹き出すしびちゃびちゃ地面に滴ってるし、なんだかあれだ、白いものが見えてるのは私の骨ですか?
 が突然の事態に体外的には呆然と、けれど内心では混乱して爆笑していると、男性の低いうなり声が響く。
「このっ、くそが!」
 ジャン・ハボックはに駆け寄ってきて、もう本当に容赦なく分類不明の生物に銃弾を打ち込んでいく。
 でも尻尾の蛇は元気に私の喉を締めてくるし、わき腹から生えてる生き物は分離しだすし、えーっととりあえず現実味の無いアドベンチャーな夢だなぁとは思う。バイオハザードだっけ?
 が自分自身のことなのにぼんやりしている間、ハボックはたいそう焦っていた。目の前で一般市民が死ぬかもしれない、しかもこんなわけわからん生き物に無残にも食い殺されるかもしれないなんて! 夜ということを抜かしても真っ暗な気分になって、ありったけの弾丸を叩きつける。
 けれど少女はどんどん顔色を青から白に変えていって、もうすでに生気が無い。目だけはぼんやりと空中を見ているが、足元は比例して真っ赤だ。滴る血が生々しく鳴る。
「下がれ、ハボック!」
 その声に反射的に動く。背後に数メートル跳躍すると、それと同時に焔が獣を飲み込んでいく。無残な断末魔を上げてのた打ち回り、わき腹の生物はそれでもけたけたと笑いをやめない。分裂が完了していたのだろうそれは、焔の手をかいくぐって夜の中に溶けていく。
「大佐!」
「わかっている!」
 焔の只中に居る少女は、燃えているのかいないのかわからないが、それでもその場に崩れ落ちていく。獣に食い殺されるのと、無残にやけどの痕が残るのとどっちが救いがあるだろうかと、上司の手前言えない心配が首をもたげていた。
 ロイ・マスタングは少女の周りだけ焔を弾き飛ばすと、即座に少女を腕に抱いて舞い戻る。
「生きてますか」
「ああ、呼吸はしている。けれど、血を流しすぎた」
 ハボックはすぐに自分の着ていたものを破り、少女の手首に巻きつけて止血を施すが、その布もあっという間に血を吸って重い色に変わってしまう。触れてしまった肉の隙間から、白くて赤い何かが見えた。
「ハボック、応援を呼べ」
 焔と煙に包まれている獣は動かない。断末魔を上げたとはいえ、道路の真ん中に放置したままだ。けれどそれの正体が分からない以上、半死半生の市民が居る以上、危険だとは言え応援を呼ばねば、目の前の少女は死んでしまうだろう。
「走ったほうが早いっすね」
 ここから東方司令部まではものの数分でたどり着く。上司が頷いたのを確認すると、ハボックは力強く地面を蹴った。少女は目を開けてはいるが、夢でも見ているかのように焦点が定まっては居なかった。
「君、意識はあるか。君」
 マスタングはの頬を叩くが、彼女はヒューヒューと喉を鳴らすばかりで、ようやく向けられた視線からも何かの情報を得ることは出来なかった。

 ああ、本当に今日の夢はラッキーだ。大佐まで出演してくださっているよ。
 抱き上げられ顔を覗き込まれ、ハンサムな顔の普段はおちゃらけている色男が、真剣に憂いの色で顔を覗き込んでいる。
 その事態にの胸は場違いにも高鳴っていく。けれど体は動かない。久々に夢の中で死ぬんだなと確信したは、頬に触れているその白い手袋に包まれている手に触れた。触れた自分の手が真っ赤なことはこの際目をつぶろうと、手袋を汚してしまったことをほんの少しだけは悔いた。
「動けるのか」
 ああ、いい男の声だなぁと抱き上げられているは思うが、夢の中とはいえ礼儀は尽くさねばもったいない。もとい、こんなおいしいシーンはきちんと味わったほうがもったいなくない。
 煩悩にまみれたことを考えると、は痛みがない代わりに動かしにくい体を無理やり動かすと、どうにやこうにか笑みを浮かべてロイを見た。
『……だいじょうぶ、です』
「なに?」
『だいじょう、ぶ、です』
「……君は異国人なのか」
 ロイの言葉を聞いた瞬間、は違和感に気づいた。
 先ほどまで確かにジャン・ハボックの言葉を理解していたし、今現在もロイ・マスタングの言葉を自身は理解している。それに先ほどまで、の言葉もジャン・ハボックは理解していた。いまさら言葉が通じないなんて、そんなはずは無い。
「君、他の国からきたのかね」
 けれどロイ・マスタングは同じ言葉を繰り返し、は盛大に顔をしかめた。痛みなど本当に感じない領域に到達したらしい、夢と言うのは本当に便利だが言語を分けるだなんて途中から設定変更もいいところで、現在登場人物となっているにしてみれば大変迷惑だ。第一、言葉が通じなければ夢の中とはいえ言いたい事が言えないではないか。
 面倒くさいなぁと思いつつも、は平常心を取り戻す。ヒューヒューと鳴る喉を押さえ込み、無理やり深呼吸をする。その際、少々胸が圧迫された感覚の後に吐血をしてしまったが、やはり夢だと認識しているに痛みは無かった。ロイは盛大に慌て、その胸元に咲いた赤い血の量に目を見開いていたが。そのことに対して、はやはり悪いなぁと思ったので通じないとわかっていながら一生懸命謝った。抱きしめられたまま、思うように出せない声を駆使して同じ言葉を繰り返した。
「君、他にどこかやられているのか!?」
『ごめんなさい』
「ああっ、クソッ! こちらの言葉は分からないのかね!?」
『ごめんなさい。他に怪我はありません、ごめんなさい』
 が同じ言葉を繰り返していることはロイも理解していたが、その意味がわからない。これでは手のうちようがないと、聞こえてくる車の音にを抱いたまま立ち上がる。戸惑うの反応は内心の絶叫とは反比例で弱弱しく、色の悪い肌と手首から唇から腕からと垂れ流される血の色でいつ死んでもおかしくないように見えていた。
 異国人だろうが、助けた命をみすみす死なせてたまるか。
 ロイの中ではさまざまな思いが交錯したが、結論としてはの救出に尽力する方向で決まり、あわただしく駆けつけた車に自分ごとを押し込んだ。
「大佐っ!」
「まだ生きてる!」
 叫ばなくてもまだ生きてるよ、でも多分死ぬ。
 どんどん重くなっていく自分の体を自覚しながら、は淡々と心の中で相槌を打った。
 多分死ぬ、これはひどい。
 ハボックが巻きつけた布地は今や元の色を思い出せないほどで、止血のため二の腕を縛っている布地さえ血に染まり始めている。これはもうだめだ、血が足りなくて死ぬとは断定した。
「大丈夫か、あんた!」
 ハボックが必死の形相で顔を覗き込んでくる。即座にロイと共に乗用車に詰め込まれたは、ハボックの運転でそのままどこかへと走り出した浮遊感に笑った。まるでジェットコースターだ。
 自分達が今まで居た場所に、複数の青服の人間が集まっているのを目の端で確認した。きっと東部の仲間だろうと思い当たったは、顔を見ておけばよかったと若干後悔した。東部オールスター出演の夢なんて珍しい。
「おい、生きてるよな!」
「騒ぐなハボック! 前を向け!」
 ちらちらと運転しつつもの顔色を窺うハボックに、そのを抱きしめているロイが叫ぶ。車は今にも人をひき殺しそうな騒音を立てながら、道路を走り抜けていった。
「……いきてます」
 段々と瞼が重くなっているのを自覚したは、そろそろ目が覚めるなと確信しながら声を出した。ロイがの顔を凝視する映像と、小さく安堵したかのように口元を緩めるハボックの横顔が見える。
「きみはっ!」
「……もう、かんかくないんですけどね」
 ロイが目を見開いて何か言おうとしているのが分かっていながら、はうつらうつらと瞼の下がる衝動に身を任せた。
「そりゃやべぇ!」
 ハボックのハンドルを切る音を最後に、は静かに瞼を下ろした。



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