02.両足


 地面に滴る赤い液体、呼吸すら感じられない体を運び込み、日常生活を送っているだけではそうはならない腕の傷に目を向ける。
「治療は終わりましたが、ここ数日が山でしょう。なにやら見たこともない症状があらわれていますし、もしかしたら他に感染する危険もある」
「化け物のような生き物に襲われていたが、その所為か」
「断定は出来ませんが、おそらく。その生物が人体に悪影響を及ぼす毒でも保有していたと考えるのが、今のところは精々です。これからも検査と治療を続けますが」
「哀れな被害者だ。披検体扱いはなるべく押さえてくれ」
「当たり前です。ああ、彼女のご家族に連絡は?」
 ロイの返事は否。医者はひとつ頷いて看護士を呼ぼうとしたが、それはロイが首を振ることで止めた。
「身分を証明するものを持っていなかったんだ。彼女の目覚めを待つしかない」
 医者はその言葉に納得をすると、ロイの退室を見送った。
 規則正しい靴音を響かせ、ロイが向かった病室ではハボックがベッドの脇での目覚めを待っていた。

 一時は眠るように息が止まり、もう生還しないのではないかと誰もが思うほど、長い間呼吸をしなかった
 まるで子供が思い思いに付け足した怪獣のような、悪夢の生き物。それに引き裂かれた女性。しかも自分を逃がそうとまでしていた女性の、くだらないほど嘘で塗り固められた台詞。なんでもない訳ないだろうがと、もう一度口の中で反芻する。
「死んでくれるなよ」
 ベッドに横たわり、このまま死人になってもおかしくない顔色のに、ハボックはそっと囁く。タバコは病院だからと消してはいるが、それがまた苛立ちを増幅させているのか、ハボックは自分の髪を掻き乱す。一般人に襲い掛かったあの生き物は、あの一匹だけだろうか。
「ハボック」
「大佐」
「様子はどうだ」
 軽いノックの後、室内を覗き込んだロイはハボックの青白い顔を見て破顔する。
「なんだ、その顔は。それではお嬢さんたちにモテないぞ」
 場を和ませようと軽口を叩くが、ハボックは力なく笑うだけ。いぶかしがるようにロイが見つめれば、ハボックは視線をに戻してすぐに立ち上がる。
「ハボック?」
「あの一匹だけって保障はないんすよね」
「ああ」
 ハボックの意図することがわかり、ロイも表情を引き締めて頷く。その動作に、ハボックも背筋を伸ばしてロイの横を通過していった。
「なら、捜索をしなきゃぁならないっすよね」
「もちろんお前にも働いてもらう。ホークアイ中尉からすぐに連絡が来るだろう」
「ラジャー」
 ロイは手を振り退室するハボックを見守ると、先ほどのハボックと同じようにの顔を覗き込んだ。青白く生気のない顔、死人のような唇、零れ出た異国の言葉とアメストリス国の言葉。
「目が覚めたら、さっそく吐いてもらおう」
 目の前で被害者となっていた女性だが、その生き物を制御しきれずに飼い犬に手を噛まれた状況だったのかもしれない。
 第一、荷物からアメストリス国の文字で書かれたものはひとつも見つからず、出てきたのは見たことのないようなもの、他国の言葉だろう記述、いきなり音を発した金属のようなもの、身分証明書らしい写真のついたカードなど。どれもこれも同じものを見たことがないものばかりで、ロイは医者にああは言ったものの、に対しての警戒を強めていた。
 荷物はホークアイ中尉に預け、すぐさま国の割り出しに回した。疑われるのはまずいので、彼女が目覚めたらいくつかの嘘で安心させねばならない。荷物を調べていたことがばれたら、攻撃に移ってくる可能性もないわけではない。そのためには会話をし、相手の動向を探る材料を手に入れねばならない。
 国の中がいまだ落ち着きを取り戻していない昨今、このような問題は頭が痛い。けれどやるべきことをやってしまおうと、ロイはすぐにベッドに背を向けた。
「……」
 眠ったになにか声を掛けようかと足を止めるが、悩むのも馬鹿らしくすぐに病院の外へと消えていった。


「ぷはっ!」
 ロイが部屋を後にして数分。は浅くしていた呼吸を盛大に吹き返した。
 の状態は昏睡状態から浅い眠りへと移行していたのだが、ハボックの存在に気づいたと同時にマスタングの登場。そしてなにやら物騒な会話と囁きに、起きることが出来ずに出来るだけ呼吸を止めていた。
 ようやくまともに呼吸が出来ると、ぜいぜい言いながら荒い呼吸を繰り返して、は辺りを見回しだす。
 白い壁、白いカーテン、白いベッドシーツに窓から見えるのは白さの欠片もない夜の空。
 体には見知らぬ衣服が着せられ、包帯をぐるぐると巻かれた姿はまるでミイラ男のようだ。
 は一人で笑うと、試しに腕を動かしてみる。痛いかと思って動かすとやはり引きつり、激痛が走る。もう一度と、今度は「夢なのだから平気だ」と嘘でも考えながら腕を動かす。
 当たり前のように痛みを伝えてこない腕に、頭を抱えてはベッドに突っ伏した。
 まだ夢の中なのかという切なさと楽しさとがっかりとした虚無感が、まるでマーブルチョコのように頭の中を混ざりながら巡っていく。今日の夢は長いなぁとぼんやり考え、とりあえず欠伸をしながらベッドに体を起こしなおした。
「……」
 起き上がっては見たものの、何をするでもなく誰がいるでもない空間をぼんやりと眺める。そして思い出したように両手足の動きを確認し、体に痛い箇所がないかを点検した。
 右足右腕異常なし、左足左腕異常なし。内臓も特に痛い箇所などなく、包帯を巻かれているのが嘘のようだった。
 でもこれは夢なんだからと欠伸をすると、せっかくなのではベッドから抜け出してみた。床にそろえて置かれているスリッパに足を通し、病院のパジャマなのだろう服を整える。消毒薬のにおいが漂ってきていて、どこか胸が高揚してきた。
 先ほどの夢の続きか、また新しい夢に飛び込んだのか。
 確かめなければならない! と一人で盛り上がったは、スリッパながら足音を極力小さくして部屋の中を歩き回った。
 個室らしい部屋は広くもなく、小さな棚とベッドと医療機器と椅子がいくつかあるだけ。特に珍しいものは見当たらず、は扉へと身を寄せ、ゆっくりとノブを回した。
「……」
 扉が開くのを確認し、空けた隙間から外をうかがってみると、なぜか制服らしき服を着た男の人と目が合った。
「……」
「……」
 お互いになぜか微笑み合い、は静かに扉を閉めてプッシュ式の鍵を閉める。ガチャリと硬質な音がして、次の瞬間男の人だろう声が響いてきた。
「君、目が覚めたのかい? って鍵を開けてくれ」
 ガチャガチャとドアノブをまわしているんだろう音と、男の人の不思議そうな声にはベッドの布団へと戻っていく。
 耳をふさいで布団をかぶるが、男性の声とドアノブの半回りする音はやまない。
「君! 扉を開けなさい! 君!」
 頭は回らないが、なんだかしては良くない事をしたような気になってくる。はなんだか訳が分からなくなり泣けてきた。これは夢だこれは夢だと笑いながら泣き始め、の異様な様子に気付いた外の男は更に慌てだした。
 ばたばたと駆けて行く足音、けれど止まない外からの声、どうしましたと声を荒げる女性の声。
 全てを聞きながら、は倦怠感に身を任せ、そのまま瞼を静かに下ろした。


「大佐」
 現場の処理を一通り終え、現在周囲に同じような化け物が居ないことを確認したロイは、駆け寄ってきた部下の顔を見てかすかに目を細めた。
「どうした。何かあったのか」
 その部下には先ほど病院へと連れて行った女性の保護、という名の監視を命じていたはず。もう一人配置してはいるが。
 ロイが再度言葉を重ねる前に、部下は素早く報告をする。
「女性の目が覚めました。が、部屋に鍵をかけてしまっています。立て篭もりのようです」
「ほう。暴れたのか」
 ああ、やはりとロイが呟くより早く、部下は困惑した表情で言葉を続けた。
「ドアを開けて我々と目が合うと微笑み、静かにドアを閉めただけです。こちらの質問に答えるより早く、鍵を閉めてしまい」
「微笑んだ?」
 素直に鸚鵡返しをしたロイに、部下は困惑顔のまま苦笑を浮かべた。きっと戸惑ったのではないかと思うんです、丸くなった目でこちらを見ていましたので。
「……」
 なんだか予想と違うな、とロイは内心呟いては見るが、目が覚めたのなら事情聴取が出来るだろう。
「部屋の鍵は」
「すぐに病院関係者に持ってくるよう指示しました。今頃開いているかと思います」
「そうか。私が行こう」
 頭を下げる部下をその場に残し、ロイは声をあげていつもの名前を呼んだ。
「ホークアイ中尉」
「はい、大佐」
 他の人間との会話を中断し、駆けて来る女性部下へとロイは指示を飛ばした。そしてすぐに二人はその場から消え、自動車の排気音が鳴り響いた。


 困惑した病院関係者の声に、ベッドの上のを見つけたロイも困惑の表情を浮かべた。
「なんだ、これは」
「泣き疲れて眠ってしまったように見えます、大佐」
「言われなくても分かっている」
 ホークアイ中尉の言葉を乱暴に叩き落すと、頭を掻き毟りながらロイは周囲を見回す。暴れた形跡もなく、逃げ出そうとした形跡も見られない。枕はしっとりと湿り、頬には涙の白い跡が見えていた。
 手首の包帯は痛々しくも血の色に染まり、泣いた所為で酷くなったのだろう流血はどす黒くにじんでいた。
「あの、マスタング大佐」
 医者の声に顔を上げ、ロイはいつものように笑みを浮かべた。
「後は私たちが請け負う。何かあればすぐ呼ぶので、それまで下がっていて欲しい」
「鎮静剤は必要ですか?」
「あればすぐ呼ぶ」
 頭を下げ、部下と共に退室する医者をホークアイ中尉が見送る。ドアが閉まると同時に、寝ている女性の顔を凝視するという珍しい場面の上司に、彼女は声を書けた。
「尋問ですか、拷問ですか」
「物騒だな」
「顔に書いてありますので、読み上げたまでです」
 その言葉にロイは苦笑をして見せるが、こちらを見つめてくる淡々とした瞳は変わらない。まいったなと小さく呟いて、寝ている女性の頬に触れた。
「大佐」
 危険だ、と押し殺した声が背後で響く。
「平気さ」
 何の根拠もないが、実際に触れた指先には何の刺激も伝わってこない。涙の跡のせいか、幼く見えるその眠った顔は痛々しい。
「まずは質問、問題がなければ保護。強情を張るようなら尋問だ」
「了解しました」
 簡潔に返答をするホークアイ中尉の声に、ロイは低く笑い声を漏らす。
 どうしたのかとホークアイ中尉が尋ねる前に、ロイはその意味を告げる。
「後で濡れタオルをもらってこよう」
「手配いたします」
 布団からはみ出した先に見えたのは、健康的な白い両足。
 怪我ではないが煤けていて、多分襲われた際に汚れたんだろうとロイは推測する。
 子供の様に足の裏を真っ黒に煤けさせて、この部位だけ見れば一日中遊んで回った子供の足だと断定してしまいそうだ。
「大佐?」
「現場に戻ろう。今度は内側に女性の見張りも立ててくれ」
 男も1人、ペアでな。
 そう指示を出したロイは、書き留めるホークアイ中尉を引き連れてその部屋を後にした。
「ハボックに仕事が終わったら戻るよう伝えてくれ。今夜は帰らせないと付け加えてな」
「はい」



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