Sobotake

大 蛇 と姫 の 神 婚 伝 説

高田荘 江藤本家所蔵「大神姓系図」より

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 大神氏の歴史を語る場合、まず大蛇と姫との神婚伝説から始めなければなりません。

大神氏の始祖は「大神惟基/オオガコレモト」と云われていますが、彼の出生について、江藤本家所蔵の「大神姓系図」(以下江藤系図という)を始め、
ほとんどの大神氏諸系図には、父を祖母嶽大明神(大蛇)としています。祖母山を祖母嶽大明神と云う神様とし、その化身が大蛇というわけです。

この伝説は「平家物語」や「源平盛衰記」にも記載されています。それぞれの内容に異同がありますので、ここでは江藤系図に記載されている内容を
ご紹介します。

 人王50代桓武天皇の時に、堀川の太政大臣基経公が、罪により大野郡緒方荘 日小田名(ヒノダミョウ)宇田萩原意勝水という所に流罪となりました。

基経公には「華ノ本/ハナノモト」という名の一人の女(ムスメ/以下同じ)がありましたが、いつの頃から日、この華ノ本のもとに、毎晩若者が忍び来る
ようになりました。その有様は立烏帽子に水色の狩衣(カリギヌ)を着た美男子だったそうです。

やがてこのことは父母の知るところとなり、母が女に尋ねましたところ、「誰かは知りません。私はすでに妊娠し、早5ヶ月になります。夫の来るのは
毎夜ですが、どこに帰るかは知りません」

 そこで母は女に教えました。
苧環(オダマキ/紡いだ糸を、内をカラにして丸く巻いたもの)と針を与えて、「夫の帰る時、狩衣の襟に針を刺し糸の行く先を尋ねて行きなさい」

女は母の教えのとおりに苧環の端に針つけ、それを狩衣の襟に刺しました。そして糸を辿っていくと糸は祖母嶽の麓、直入郡入田郷神原の大窟の内に
入っていました。岩屋の中から痛吟する声(うめき声)が聞こえています。

岩屋の口から女が
「中にいるのは誰ですか、なぜうめいているのですか。」
と聞くと、穴の中から

「私こそ貴女のもとに通っていた者です。今日の暁に頤(オトガイ/下顎)の下に針を刺されて、大傷でうめいているのです。私の本当の姿は大蛇です。
貴女のもとに通っていたときの姿ならこの穴からでてお会いもできますが、今では変化することもできません。本当の姿は恐ろしいので、名残惜しいが
お会いできません。ここまで訪ねてきたことは忘れません。」

 といえば、女は、
「たとえどのような姿でも、今までのお情は忘れません。どうぞ穴から出て下さい。最後の有様を見ましょう。」と応えました。

 大蛇は穴の中から這い出てきました。

長さはどのくらいかわかりませんが、臥したる形(臥長)は五尺ばかりとみえ、目は銅の鈴のごとく、口は紅を含んだごとく、頭には角があり耳はたれ、
赤髭が生えてまるで獅子頭のようです。

 二人の侍女は恐怖のあまり急死してしまいました。

大蛇は形に似ず涙を浮かべて、頭ばかりを穴から差し出しました。

女は衣を脱いで大蛇の頭にかけ、自ら頤(オトガイ)の針を抜きましたところ、大蛇はたいそう喜びました。そして「貴女のおなかの子供は男子です。
恐ろしい者の種だからといって捨てないで下さい。姓は大神、名は太夫、諱(イミナ)は惟基とつけて下さい。
子孫の末までお守りしましょう」といって、穴の中から太刀一腰を差し出して女に授けました。

 女が「私はどうしたら安産することができるでしょう」と聞きますと、

大蛇は「私の神通力できっと安産するでしょう」と答えました。

 この大蛇が祖母嶽大明神であり、前述しましたように、大蛇の子といわれる「大神惟基」を始祖とする一族は、歴史上「豊後大神氏」と呼ばれています。
 



江藤家に伝わる系図の内神婚伝説に関する記述


祖母嶽大明神の化身であった大蛇を祀る穴森神社の参道


大蛇(祖母嶽大明神)の棲んでいた厳窟を御神体とする穴森神社の拝殿
(竹田市大字神原1432)


大蛇(祖母嶽大明神)が棲んでいた 岩窟


大蛇(祖母嶽大明神)が棲んでいた 岩窟の内部


大神惟基の母「華ノ本」を祀る宇田姫神社
(豊後大野市清川町大字三玉字宇田1493)


宇田姫神社の御神体は大蛇が出入りしたといわれる厳窟
この厳窟は祖母山麓に鎮座する穴森神社の厳窟に通じているという


宇田姫神社の由緒記


華ノ本が大蛇の子「大神惟基」を生んだ所といわれる「 萩塚 」
(豊後大野市清川町大字三玉字宇田1376)


2本の大杉の下に小堂があり「惟元産所 萩塚」と陰刻した石体を祀る


萩塚の由緒書:地元の人々は「萩塚様」と呼び、安産の神様として敬っている


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