■抗議と監視

 様々な問題を起こしながら、米軍演習は強行されてきたわけだが、これに対して、私たち住民の側はこれまで、米兵の到着時、撤収時、米軍物資、155ミリ砲の輸送、弾薬輸送などそのすべてに対して抗議のアピール行動を継続してきた。演習場正門ゲート前でも、先の元海兵隊員のアレン・ネルソンとともに、現役海兵隊隊員らと、防衛施設局職員らに、私たちの思いを訴えた。
 また、日出生台演習場を見降ろす高台に「日出生台監視・情報センター」を設置。演習内容の監視と発射段数のカウントを行った。しかし実際にどのような演習をおこなっているかということは外から目で見てわかるわけではない。実際、後であきらかになって問題となったNBC訓練にしても防毒マスクを付けた米兵を見つけることなどはムリだった。しかし、少なくとも住民が米軍の演習が拡大しないように外からチェックをしているのだということを米軍に意識させることで、露骨な演習拡大をくい止め、でたらめな演習をさせない抑止力にはなると考えている。

■米兵への直接アプローチ

 米兵の外出については、これをさせないに再三の申し入れをこれまでおこなってきたが、結局、日出生台では、初年度の1999年は5日間、昨年2000年は4日間、米兵の大量外出が行われた。
 この外出は勤務外の自由外出ではなく「すべて公務」とされ、これらも含めてすべてが訓練とされている。外出して遊んでいようが酒を飲んでいようが彼らには給料は出るし、その世話はすべて私たちの税金をはたいて国や自治体職員がお世話をする。
 本土への米軍演習移転は、そもそも沖縄の少女暴行事件とその後の沖縄での反基地運動の高まりに、日米両政府が出してきたという経緯があったことを考えても、住民は米兵の外出問題を一番不安に思っている。
 しかし、こちらが「出すな」といくら言っても、出してくるのであれば、それならこちらにも考えがあると、これを米兵ら個人個人と接触できる絶好の機会と捉えなおして、米兵ひとり一人に直接アプローチすることにした。軍隊としての彼らが行う軍事演習は、周辺住民の生活を脅かし、ひとたび有事となれば彼らが加害の側になることは確かだが、同時にまた彼らは「国のために」という名目の下で使い捨てにされる存在でもある。また、アメリカの社会状況の中で軍隊に入る以外に選択肢がない貧困層の中から海兵隊員になる人も多いと聞く。その意味で彼らは被害と加害の二重性の中にあるし、彼らの演習を結果的にせよ許してしまうことは、私たちもまた加害の側に荷担者になるということになる。なんとか、共通の課題として、これを整理して、ともに取り組む形ができないものか。
 そこで私たちは、軍隊としての米軍には徹底して抗議の声をあげ、個々の米兵たちには、直接、メッセージを渡したり、話しかけたりし、「自分たちはアメリカ人やアメリカの文化は大好きだけれど、それでもあなた達がここにきて、軍事演習をすることはどうしても受け入れられないのだ」ということを伝えた。何人かは理解を示し、また「自分たちは命令できているだけで、そんなことは上の者に言ってほしい」と答える兵士もいた。
 私たちが用意したチラシは2種類。一つは元海兵隊員で現在平和運動家のアレンネルソンさんのベトナム戦争の最前線での彼の体験をまとめた講演録と、もう一つは「CCCO」というアメリカの市民団体を紹介したチラシ。「CCCO」はアメリカで兵士の人権を守り転職支援をしている団体。海兵隊員自身が、自分たちの人権に対する意識も持てないままで、演習場周辺に暮らす住民の人権に思い至ることはないだろうと考えたからだ。受け取りは非常によく、受け取った人も興味深げに読んでいた。
 実際、接触できた海兵隊員らの多くは、驚くほどにあどけない青年たちだった。彼らにいわゆる「悪意」はないのだが、自分たちの演習が地域住民にどういう影響を与えているのかについての自覚もまったくないことがわかった。
 また話をした海兵隊員らの多くは「早くアメリカに帰りたい」と言う。しかし私たちに「海兵隊よ、故郷に帰れ」と言われるのはどうも嫌だという。彼らにとっても沖縄や日出生台がいたくない場所であるなら、私たちと彼らの願いは本来一致しているはずなのだ。
 演習終了後、日出生台から引き上げていく海兵隊のバスに向かって私たちは呼びかけた。「Marines, Go home! Not to Okinawa but to America」(訳:海兵隊よ、故郷に帰れ、オキナワではなくアメリカに)。

■軍事基地と地域経済

 米軍は確かに表面上、私たちの暮らしを脅かす当事者ではあるが、第一義的に責任があるのは、それを許し続けている日本政府だ。さらにその政府のあり方を許しているコクミンということになる。
 この国は膨大な財政赤字に瀕死の状況にありながら、「日米安保のため」であれば、湯水のごとく血税が注ぎこみ、コクミンは文句もいわない。日出生台でも「米軍演習」を名目に、地元民間企業にお金が落ちる道筋が作られ、その金の流れるパイプは年を追うごとに太くなり、薬物中毒のように地域の人々を依存状態に陥れようとしている。
 しかし、地域経済が軍事関係の交付金に依存していくことは、一時的には「オイシイ話」に聞こえるが、長期的に見れば、頼れば頼るほど、地域経済は不安定になる。国が決める軍事戦略は地域に暮らす人の思惑や生計に関係なく、ある日突然変更されることはよくあるからだ。アメリカの国内情勢や、周辺諸国の情勢変化によって変更になることもあるだろう。ある日、政府が急にその地域の基地や演習を中止する方針を出したときに、そこに経済的依存をしていた人たちはどうするつもりなのだろう。住民を無視して、非情に軍事化が進められるのと同じように、非情に撤退方針が出ることもありうるのだ。
 私たちは自分たちの生活の基盤、町の未来をそのような不安定なものの上に本当に築いていくのかどうか、問われているのは私たち自身だろう。

■日出生台・緑の夢公園

 日出生台は過疎、高齢化が進み、国の移転補償措置に初年度から六件もの移転希望者が出たという。国はこの地域を根絶やしにしたいのか。
 そうした中、日出生台では、昨年2000年4月、地元住民たちが協力してつくりあげた「緑の夢公園」が完成した。公園造りに携わった幸田文則さんは「日出生台にたくさんの人が来てもらえるように。そして日出生台の美しさ、素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい」と胸を張る。地元住民自身の手で、住みよい地域を作り、支え合っていこうという取り組みの第一歩だ。
 軍事というのは、とかく秘密が多い分野なので、国はなるべく人を遠ざけ、人目から隠したいらしいが、逆に、多くの人が日出生台に注目をし、そこに足を運ぶなら、演習場の拡大、機能強化を押しとどめる有効な手段となる。日出生台がより住み易い場所になり、地域に人が残り、また新たに日出生台に住みたいと言う人たちが少しずつ増えていくことが最も強力で地道な反対運動となるだろう。「緑の夢公園」の次は、清冽な清水の湧いている場所を少し整備して、「大地の水」という水の名所を作って、多くの人に来てもらえるようにしたいと幸田さんは言うが、「じゃけど、先立つものがのう・・・」と資金不足を訴える。現在、この日出生台の地元の住民による地域の自立と再建を目指す取り組みを支援していく態勢を整備すべく準備をしている。
 実際、日出生台は2月の米軍演習の時期ばかりマスコミなどが取り上げるが、本当に素晴らしいのは、緑の草原が揺れる春・夏・秋だ。この日出生台という自然の宝庫を、大分県の財産として、みんなで活用し、地元住民とともに、共同でこの「日出生台」という地域をもり立てていくことが、日本の平和に大きな意味を持つと考えている。

■切り捨てられた地域を結ぶ

 今後の私たちの運動の目指すものは、日出生台という地域の自立と安定を実現することと、そのような基地や演習場を抱える地域どうしを顔と顔でネットワークしていくことだと思う。
 昨年9月1日から4日間、湯布院の仲間たち6人で韓国を訪問した。日出生台からは3回目の韓国視察訪問となる。今回はソウルのアメリカ大使館前での米軍反対集会に参加、その後、アメリカ最大の空軍射爆場のある梅香里(メヒャンニ)を視察した。ソウルでは米軍犯罪根絶運動本部の人たちと、梅香里では地元で運動に関わっている人たち数人とともに交流を持てた。また米軍基地の周辺にできた歓楽街で働く女性たちの自立を支援するトレパンという施設を訪問。その基地村のドキュメンタリーを製作しているスタッフの話を聞くこともできた。基地問題をきっかけにして、ここでもまたあらたな出会いと喜びがあった。
 アメリカの軍事活動はもはや国境と言う枠を完全に越えて地球規模で行われている。沖縄を飛び立った米軍機が韓国で爆撃演習をおこなって帰ってくるなどということが日常茶飯事になりつつある。「沖縄の米軍基地」「韓国の米軍基地」といった視点を越えて「アジアの米軍基地」として見ていく必要もあろう。そのような中、この世界規模に展開する米軍の問題を扱う私たちの側が、バラバラに分かれているのではこの問題の本質は見えてこないし、これに対応することもできまい。
 国と国の代表による国際交流ではなく、それぞれの国で中央政府から切り捨てられてきた地域の住民同士が手をつないで、情報交換を行い、民草の交流をすすめていきたい。

■米軍が来ようと来まいと・・・

 日出生台で米軍演習が行われるようになったことをきっかけに始まったわたしたちの運動だが、初めはとにかく、米軍演習を撤回させることを目標に掲げて運動を展開してきた。しかし、やっていく中で見えてきたのは、この問題において、日出生台だけの単独の解決などあり得ないだろうと言うこと。
 すでに私たちの地域には、町の北部に日出生台という西日本最大の演習場、町の中心には陸上自衛隊の駐屯地を抱えている。この国が平和憲法の理念を否定して、戦争ができる国家へとつき進むのであれば、否応なくその影響を目の当たりにしなければならない地域に住んでいながら、それに気づかずにいたのだ。その意味では、この地域に米軍演習問題があろうがなかろうが、目を向け、考えなければならない問題だったのであり、むしろこの米軍演習問題の「おかげ」で、気づかせてもらったと言える。

■基地を必要としない体質づくり

 私たちはいったいどのような安全保障を目指すのか。軍事の威嚇による安全保障を目指すのか、それとも対話と交流を基本に相互の信頼関係を醸成することでの安全保障をめざすのか。これも在日米軍問題があろうがなかろうが、本来日本にいる全ての人たちが自分自身の問題として考えなければならない。
 その意味で、私たちの運動は「日出生台の米軍演習をなくす」だけの運動ではないし、そこを目標にしていてはそれさえ達成できまい。この運動の中で、私たちはまだまだ多くの事に気づき、自らの生活を含めて問い直さなければならないと痛感している。
 人がガンになったときに、ガン細胞だけを切り取れば、一時的に回復をするかもしれない。しかし、ガンになった原因の生活や習慣、環境を見直し、体質を変えない限りまた再発してしまうだろう。基地や軍隊を招いてしまう私たちの暮らしの「体質」の転換と、基地を必要としない「体質」づくりが今必要とされている。
 実は今、私たち自身の「体質」改善のために、地域住民自ら少しずつリハビリをしていくために新たな取り組みを始めている。

■地域内交易システム「yufu」

 国の交付金などへの依存から脱して、自立、安定した地域経済を確立する一つの手段として、近年、全国各地で「地域通貨」という試みが行われている。最近、湯布院の仲間たちで実験的にこれを始めた。(日本国内では現在約30ヶ所を越える場所でそれぞれ独自の方法で試験的に行われている)
 地域通貨とは、特定の地域や仲間内だけで流通する自主通貨のこと。地域内で生産されたモノやサービスの交換に使い、利子が付かない。大別すると、貨幣発行方式と記帳方式があるが、私たちは後者を採用。現在の国が発行する通貨が、国内の景気や世界の相場の変動に影響されて、価値が増えたり失われる不安定なものであるのに対して、仲間内の信頼関係によって価値が維持される通貨を使うことで、地域や仲間内での流通と助け合いを促進、習慣化させ、生活の基盤を自分たちで安定させようというもの。私たちの地域通貨の単位は「yufu」で、1yufuは約10分間のサービス、または100円相当のものとの交換ができる。ただし現金との交換はできない。現在、約60名がこれに参加している。
 地域通貨は、基地や軍事演習の問題だけではなく、原発や産廃、ダム建設問題などにおいても、地域住民が国や大資本に依存しない自立した暮らしを確立する大きな手段と成りうるのではないかと感じている。

■「ともにいきる・風のがっこう」

 これまでは軍事や基地に関わる学習会がほとんどだったが、軍事の問題がそれだけを切り離してなりたっているのではなく、経済やその他の分野にも不可分に結びついて成り立っている以上、それを解き明かし、解決していくためにも関連する他の分野も含めた総合的な学習と実践が必要であろうと思うからだ。
 自分と自分の暮らす地域を、歴史や文化、経済、軍事など様々な切り口から見ていくことで、私たちの現在の位置と、この先にめざすべき未来の姿が少しずつ明らかになってくるに違いない。
 地域の住民を主体にして、このような取り組みをおこなうために、「ともに生きる・風のがっこう」という名のグループを地元で立ち上げた。「〜地域社会の自立、多様な共生、循環をめざす住民の実践〜」という能書きがついている。
 平和運動の求めるものとして「殺すな、殺されるな、殺させるな」だという表現がある。これをなにか肯定表現で同じ意味を表せないかと考えていたら、結局「ともに生きよう」ということではないかと思って、こんな名前をつけた。軍隊や「軍事による安全保障」は、アジアや、世界中の民衆とともに生きるためには、逆効果でしかないことを訴えていきたい。 また、この取り組みの中では、「健康」についても大きなテーマとして取り上げたい。最近は、運動をやっている仲間内で、健康状態が思わしくない人がやたら多いので、自分たちで自身の健康をどう維持していくのかということも含めて、学習する運動をつくっていきたいと考えている。そして、これらは世界に誇るべき憲法9条を実践、具現化する取り組みでもある。憲法9条を擁護するだけではダメで、やはりこの9条の理念、憲法前文の理念を具体化する取り組みを行っていきたいと考えている。
 今後、この基地問題、軍事の問題を解決するために、知るべきこと、学ぶべきこと、克服しなければならない課題はまだまだ山のように目の前にあることになる。しかし、その過程における出会いや気づきの喜びというのも、また山のようにあるであろうことを、私は予感している。

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