「心と戦争」

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〜今、私たちはどんな時代に生きているのか〜

■講演日:2004年2月23日
■場所:大分県湯布院町コミュニティセンター
■主催:「高橋哲哉講演会」実行委員会
■後援:ローカルNET大分日出生台
    自由共育を楽しむ会
■お問い合わせ:yufukiri@fat.coara.or.jp

 この講演録は、2004年2月23日に湯布院町コミュニティセンターで行われた高橋哲哉さんの講演を録音したものを、ローカルNET事務局がテープ起こしをし、見出しをつけて、要旨として編集したものです。

 よって、この講演録の内容における文責はすべてローカルNET事務局にあります。

講師 高橋哲哉さん プロフィール
1956年、福島県生まれ。
現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。
著書に「記憶のエチカ」「デリダ」「戦後責任論」など。
武力によらない平和構築の最前線に立つ一人。


 ただいまご紹介いただきました高橋哲哉です。こんばんは。


 今回は、湯布院ということで。私、湯布院というと「まちおこしに成功した瀟洒(しょうしゃ)な温泉町」という観光ガイドブック風のイメージしかなかったんですが、さきほど着いてからすぐに日出生台演習場の方に連れて行っていただきました。おどろきました。


 なにしろ1900年に日本の陸軍の演習場ができて、日本の敗戦によって、それが連合国、米軍とさらには韓国軍の進駐の場所となり、そして50年代から今度は自衛隊が駐屯地として湯布院にやってきた。考えてみれば、もう100年以上、この湯布院の街は軍隊と一緒に発展してきた。その間いろんなことがあったようですが、とにかく軍隊と共存せざるをえなかった。その中で恐らく皆さんが、軍とはなにか、また戦争と平和とはなにかということをいろいろと考えて来られたと思います。


 実は先ほどご紹介いただきました、昨年の4月に私が出した「心と戦争」という本。今日の演題そのものなんですが、その本の中で、実は間接的に日出生台演習場に関わることを、書いていたんです。「心と戦争」の中で論じたのは、いわゆる「心のノート」、教育基本法「改正」問題。有事法制の問題、靖国問題。この4つの問題を組み合わせて、今、私たちがどんな時代に生きているのかということについての私の見通しをそこで出したんです。


 その中の有事法制について論じたところで、この前、日出生台演習場で日米共同訓練があったときに、自衛隊の西部方面総監、松川総監の反対集会に対する弾圧と言いますか、問題発言があった。あの事件について、東京でたまたま知りまして、非常に不気味な感じがしました。少なくとも私の知る限りでは、そういう自衛隊の幹部が反対集会に対して、「お前ら何をやっているんだ」「そんなことをやっているとせっかく北朝鮮を仮想敵国にした訓練なのに情報が漏れてしまうじゃないか」と言って圧力をかける。そんなことは聞いたことがなかったんです。いかにもこれが90年代の日本の状況を象徴する事件だと。

 もちろん地元のメディアでは報道されたようですが、中央のメディアは私の知る限り全く取り上げていないと思うんです。そのことも含めて、まさに現在を象徴する出来事だろうと思いまして、そこにはどんな問題が含まれているのか。有事法制関連3法案ができて確立されていこうとしているその流れの中で、その事件がなにを予兆しているのかということを論議してみたんです。


 ただ、そのときも、日出生台演習場と湯布院町というのがまったく私の頭の中で結びついておりませんでした。

■戦争をするために必要なもの

 私は近代国家というものが戦争をするときに、いくつかの要素が不可欠だと思うんです。第一に、もちろん軍隊が必要。軍隊、武力組織がなければ戦争はできません。日本はすでに世界有数の事実上の軍隊である自衛隊を持っている。そしてそれがまた世界最強の軍隊である米軍と非常に密接な関係にある。

 軍事力の点ではもう非常に強力なものを日本は持っている。しかし、その自衛隊を自由に動かすためには法律がいる。日本の国土の中で、あるいは海外において自衛隊が行動するためには、それを可能にする法律が必要。もちろん自衛隊法というものがずっと前からあったわけですが、それだけではダメだということで、先ほども触れました有事法制、その端緒をなす関連3法案が去年の通常国会で成立した。しかし、あれが全てではありません。これから時間をかけて、いわゆる有事法のシステム全体がつくられていく。その他、イラク特措法の先には自衛隊の海外派兵の恒久法というものも、今、議論されています。


 しかし、軍隊があり、そしてそれを動かすための法律ができただけでも、まだ国策として戦争をすることはできない。それが可能となるためには「戦争を支持する国民の心、国民の精神」というものがつくられていなければならない。


 もちろん、アメリカのブッシュ政権がアフガンを攻撃する。イラクを攻撃する。これは多数のアメリカ国民の支持に基づいておこなわれているわけです。アフガンのときは9割前後という信じがたい支持があったし、イラクのときはさすがに少し下がったようですが、それでも多数の支持があればこそそれができる。国内で反戦運動が燃えさかっている中ではそれはできない。


 かつての日本軍の戦争もそうです。きわめて典型的な例。つまり、日本は明治維新で統一国家をつくって、まず憲法を作る前に「徴兵令」をしいた。そしてほぼそれと同時に「学制」をしいて、国家としての教育制度を整えた。


 そしてその教育の中で何をやったのかというと、教育勅語を頂点にして、国家のためにいざというときには死ねる。そういう国民の心をつくりだす。教育勅語というのは、明治天皇が直々に出した教育に関する勅語ということで、忠君愛国の道徳をもっていたわけですが、有名な言葉があります。


「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし 」


 国家の危機の際には義勇心を発揮して天皇の国のために尽くしなさい。命を捨てても天皇の国のために尽くしなさいという、そう、いうメッセージが教育勅語の核心にあるものとして教えられた。それを学校で教えるための特別の科目として、「修身」といういわゆる道徳の科目が教えられていた。

 まさにその教育のシステムによって度重なる侵略戦争、そして植民地支配は正しい。そのために命を捨てるのも惜しくないと考える、そういう国民の心、精神というものが作り出されていたわけです。だからこそ、ああいう度重なる戦争、植民地支配が可能だったということが言えると思うんです。 

■戦争を支える国民精神

 そんなふうに、軍隊と法律だけでは戦争はできない。国策としての戦争を支持し、容認し、少なくとも反対しないような、そういう国民の心が戦争を遂行する国家にとっては必要。あきらかに現在の日本は、もう一度戦争ができる国になる方向をたどっている。これはもう、ここまで来ると、それに賛成の人も反対の人もこの事実だけは誰も否定することはできないと思うんです。憲法の改悪。9条の「改正」論というものが非常に高まってきていて、すでに国会議員の3分の2以上が改憲派だということもあきらかになっています。


 世界でも有数の軍隊、事実上の軍隊である自衛隊とそれを動かすための法律が着々と整えられつつある。あと問題は、自衛隊が軍隊として米軍と一緒にグローバルに展開できる、それを支える国民の精神を作り出すこと。そのことが今、日本の国内でまさに始まりつつある。


 様々なかたちでそれが行われています。たとえばマスメディア、報道を通して。あるいは小泉首相の度重なる靖国参拝を通して。あきらかにあれは戦争につながる国民の精神というものを意識してやっている。


 しかし、それだけではない。もう一つ。日本の為政者は、戦前戦中にあの戦争を支える国民精神づくりのために、教育というものがどんなに絶大な力を発揮したかということをよく知っていますから、あきらかに今、「愛国心」教育というものを本格的にやろうとしている。


 その具体的な現れが「心のノート」であり、そして教育基本法「改正」だということで、私は本の中でその2つを取り上げたわけです。そんな見通しを持って昨年の4月に書いた本なんですけれども、その後の日本の状況は、残念ながら私の予測した通りに展開していると言わざるをえません。今、進められている自衛隊のイラク派兵。これに関連して、ひとつ重要な指摘をしていきたいと思います。


 まず最初の資料ですが、これは昨年の12月9日に、イラク派遣の基本計画の閣議決定が行われましたが、その直後に小泉首相が行った記者会見の要旨です。朝日新聞の記事です。「自衛隊は戦争に行くわけではない」ということをはじめとして、いろんなことを小泉首相は言いましたけれども、私が特に注目したのは次の発言。「日本国の理念、国家としての意志が問われている。日本国民の精神が試されている」と。ここで彼は国民の精神について触れたわけです。「日本国民の精神が試されている」と。これはいったいどういう意味でしょうか。イラクに自衛隊を派遣する。そのことで日本国民の精神が試されていると小泉首相は言っている。


 まあ、小泉言語というのは非常に軽い言語だということも言えますので、本当にどこまで深く考えて彼がこの言葉を発したのかわかりませんが、でも一国の政治指導者がこういう重要な場面で発する言葉は、ある意味で本人の意思を越えて重要な意味を持ちうると考えられます。私はまさにこの言葉の中に「心と戦争」という先ほど申し上げた見通しを読み込んだわけです。

■戦争への支持、容認、美化

 イラクに自衛隊が派兵される。あきらかにイラクはまだ「戦闘地域」です。「戦闘地域か非戦闘地域か、私にはわからない」と非常に無責任なことを言った小泉首相ですけれども、あきらかに戦闘は続いていて、もう収拾がつかなくなっている印象さえあります。自衛隊が交戦状態に入り、そして相手側に死者を出す可能性がある。と同時に自衛隊員にも死者が出る可能性がある。相手側に死者が出たときのことをどれだけ考えているか怪しいものですが、少なくとも自衛隊員に死者が出たときにどうするかということは、小泉首相をはじめとして石破防衛庁長官、その他政権担当者たちは今、その問題で頭の中を一杯にしていると思うんですね。


 自衛隊員に犠牲者が出たときに、日本国民の精神がそれに耐えて、自衛隊を撤退させずに、それでもイラク派兵を続けることができるか。その犠牲に耐えて自衛隊という実力組織を展開させる。そのような状況に日本国民の精神がなっているかどうか。そのことを小泉首相はここで言っているのではないかと思うんです。自衛隊員も国民の一部ですから、そこに犠牲者が出たら、もうダメだ。やっぱり危険だ。撤兵すべきだというような議論が盛り上がってくるようでは小泉首相や石破防衛庁長官は困るわけですね。


 私は、戦争を支持し、それを容認し、反対しない国民精神というのは、具体的に言えば、国民に犠牲が出ても、それに耐えて、国策を支持していく国民の心というふうに言えると思うんです。


 すでに外交官2人がなくなっています。あの外交官2人はまだ大規模戦闘が終結する以前に、日本政府によって米英の占領当局に派遣された外交官でした。何者かによって殺害されたわけですが、彼らの遺体が戻ってきたときに小泉首相は「彼らは日本の誇りだ」というふうに讃えて、「彼らの精神を見習ってイラクを支援すべきだ」というふうに論じたわけです。


 私はすでにそこに一種の「靖国の論理」が作動し始めているというふうに感じました。国民の犠牲が出ても、それに耐えて、武力組織としての自衛隊を派兵し続けるという、そういう精神というものの中核には、私は日本で言う「靖国の論理」というものが位ハ置していると思います。

■「尊い犠牲」

 今年の元日に、小泉首相が初詣と称して靖国参拝をしたのはご存じの通りです。彼は靖国参拝の後の記者会見で次のように述べているんですね。朝日新聞の記者会見の写真入りの記事を入れておきました。

 「戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っているんだという思い。そういう思いを持って自分は参拝したんだ」と彼は述べました。

 この「尊い犠牲」という表現。私はこの表現が気になってしかたがない。実は彼は2001年の8月13日。首相になって最初の靖国参拝をしたときの声明文の中でも同じ表現を使っているんです。


 「かつての大戦で戦塵に散った人々の『尊い犠牲』の上に今日の日本の平和と繁栄があるのだという、そう言う思いを持って参拝をいたしました」


 こういうふうに彼は答えているんですね。この「尊い犠牲」という表現は、そう思って見ますと、いろんなところで使われている。


 最近私が発見しましたのは一昨年に広島、昨年に長崎にできました国立の原爆死没者追悼平和記念館。国が初めてそういう施設のためにお金を出してできたものなんですけれども、この国立の追悼平和記念館。広島でも長崎でもそこに行きますと、入口のところにその追悼平和記念館の目的が書いてあります。

「国として原爆死没者の尊い犠牲を追悼し永遠の平和を祈念するためにこの施設を造る」と書いてあります。

 そこでは国が広島長崎の原爆死没者の犠牲を「尊い犠牲」と言っているんですね。何のための尊い犠牲なのか。戦後の平和と繁栄のためなのか。これいくら考えても広島長崎の原爆死没者が「戦後の平和と繁栄のために」必要だったとは考えられないわけです。彼らが犠牲になったから戦後の平和と繁栄があったというふうには考えられない。


 広島・長崎だけではありません、沖縄戦もそうです。東京大空襲もそうです。ソ連が侵攻してきて旧満州の非戦闘員が大変な被害を受けたというのもそうですし、シベリア抑留もそうです。もう日本の敗戦が明らかであったにもかかわらず、いわゆる「国体護持」というものが保障されないということで敗戦、降伏を引き延ばしてきた。ポツダム宣言の受諾も引き延ばしてきた。その結果として広島、長崎に原爆が落とされてしまったわけですね。


 ですから、もし国が原爆死没者を「尊い犠牲」と呼ぶのであれば、それは「国体護持」のための「尊い犠牲」だっチたという解釈以外にちょっと考えようがないんですね。「国体護持」とは、「天皇制を守る」ということです。靖国神社についても小泉首相は、こういう表現をつかっていますが、では靖国の死者は何のための「尊い犠牲」だったのか。これも考えれば考えるほどわからなくなる。


 私はこう考えます。先ほど言ったように、たとえば、イラクに自衛隊を派遣する、そこで犠牲者が出たときに、「それは国のためにやむをえない犠牲なんだ」と。「国体護持」ということを現代において日本の為政者が言えるかどうかわかりませんが、たとえば「国益を守るため」というかもしれませんね。

 「イラク派兵は国益と日米同盟のためだ」というふうにあっけらかんとして言っているわけですから。国益のために「やむ終えない犠牲」、国益のために「必要な犠牲」だった。そして最後はそれが「尊い犠牲」だったんだ。だから感謝と敬意を捧げましょうと。そういうふうになるにちがいない。


 つまり「尊い犠牲」という言葉は、要するに国家のために犠牲になった自衛隊員をはじめとする国民、外交官。そのような国民に対して、その犠牲が国を守るための、「やむをえない」あるいは「必要な」、そしてさらには「尊い犠牲」だったんだというかたちでその犠牲を国民に容認させる。そういうレトリックだと思うんですね。それはまさに明治以来、靖国信仰というかたちで続いてきた。敗戦によっても実はそれが終わらずに今日まであいまいなかたちで残っている。それが首相による靖国参拝だと思いますが、そういう靖国の論理。靖国信仰というかたちでいわば「犠牲の論理」というものが今日にいたるまで続いてきている。


 その「犠牲の論理」が今、あからさまに作動し始めている。戦争を支持し、戦争を容認する国民精神というものの中心にあるのは、犠牲に耐え、国策としての戦争を支持する。国民の犠牲を国のために、国益のために、「やむをえない」、さらには「必要な」、そして最後は「尊い」犠牲だったんだというかたちで、それを容認し、最終的には美化していく。そういう国民精神なのではないか。

■1割はやむなし!?

 今、そのような犠牲の論理があからさまに作動し始めている例を次の資料で見ていただけると思うんです。これは有事関連3法案が成立した直後に、「今度は国民保護法制だ」という議論になったときに朝日新聞に出た「対論」です。


 この中で久間章生自民党政調会長代理・元防衛庁長官。確かこの人は長崎の出身。この人が憲法学者の山内敏弘さんを相手に次のように述べていたわけです。


 「国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わないが、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむをえないとの判断はありうる」。「国家の安全のために個人の命を差し出せ」などということを言えば、教育勅語と同じですよね。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」というのと同じになってしまう。戦前戦中は個人の命はきわめて軽いもので、天皇の国家のためにいつでも差し出さなければならないものだった。だからそういうふうには言えないが、しかし「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむをえないとの判断はあり得る」。

 私はこれを読んだときに本当に驚きました。1割の犠牲はやむをえないと言っている。1割ということは、日本の人口1億2000万人〜3000万人ですから、1200万人から1300万人の犠牲はやむをえないと言っているようなものですね。かつての戦争だってそんな犠牲は出ていないはずです。政府が出している統計としては、1937年の日中戦争全面戦争の開始から1945年の敗戦まで、日本の軍民あわせた死者の数は310万人です。当時の人口は、「1億玉砕」とか「1億火の玉」とかいわれていましたが、「1億」というのは植民地の人が入ってますから、いわゆる日本人の人口はたぶん7000万とか8000万とかいう数だったと思います。1億としたって、310万人ですから1割いってませんし、7000万人としたってまったく1割までいかないわけです。


 ですからあの戦争。日本始まって以来、有史以来の大戦争であったあのアジア太平洋戦争。それ以上の犠牲を「やむをえないとの判断がありうる」というふうに有事法制の論議の中で、元防衛庁長官が堂々と述べている。さすがに山内さんは反論しています。「その判断は正しいというのはどういう根拠があるのか」と。そして、「その判断の犠牲になった国民、1割の方はたまったものじゃない」と。


 それに対して久間さんは、「しかし、それで救われた方は助かる」。もちろんですよね。「救われた方は助かる」というのは当たり前のことなんで。同語反復しているんですけれども。9割の方は助かるからいいんだと言っている。これは「国を守る」ために、「国益を守る」ために。1割の犠牲が「やむをえない犠牲」。「必要な犠牲」というかたちで位置づけられ、そしておそらくこの犠牲になった人たちが、「尊い犠牲」として感謝と敬意の対象になるんでしょう。そういうかたちで犠牲を容認し、肯定する。最終的には美化する。そういう国民精神がつくられていくんだろうと私は思うんですね。


 こういう論理があからさまに出てきてます。これは昨年の5月3日、憲法記念日に出た毎日新聞の記事ですが、自民党の憲法調査会の中で議論されている改憲素案の中に、「天皇の元首化」というのが入っているそうですけれども、同時に国民の権利、義務の中に、「国民は国家防衛の義務を有する」というのを入れようとしているんだそうです。「国民が」国家防衛の義務を有すると。まさに、国を守るために国民が犠牲になってもやむをえないという論理です。もしもこのような条項が憲法に入れば、これはいつでも徴兵制をしくことができるでしょう。国民が国家防衛の義務を有するということになれば。そこまでもう自民党の中では考えられているということです。

■自衛隊の守るものは国民の生命、財産ではない。

 次の資料を見て下さい。こういうふうに見ていきますと、どうも「国を守るため」、あるいは「国益を守るため」として、国民の犠牲が容認され、最終的には美化されようとしているのではないか。右下の「国を守るということ」という文章。これは栗栖弘臣という人の文章です。2000年に栗栖氏が出した「日本国防軍を創設せよ」(小学館文庫)の一節です。


 栗栖弘臣という人をご存じでしょうか。この人は1978年に当時、統合幕僚会議議長。自衛隊の制服組のトップと言っていいでしょう。この人がいわゆる「超法規発言」というものをしまして、当時の防衛庁長官、たしか金丸信氏でしたが、防衛庁長官から解任されているんです。当時の仮想敵国ソ連に、日本が侵略されたら、自衛隊は超法規的に行動せざるをえない。有事法制がないから。こういう趣旨のことを栗栖氏が言って解任されたんですね。その栗栖氏が2000年ですから、もう数年前ですが、最近です。最近、小学館文庫でこういう本を出して、「国を守る」ということについて、次のように述べているわけです。

「今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い」と。

 笑ってらっしゃる方が何人かいらっしゃいますが・・・。誤解している人が多い。ひょっとして皆さんも誤解してこられたんじゃないですか。

 「政治家やマスコミも往々(しばしば)この言葉を使う。しかし、国民の生命、財産を守るのは警察の使命であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は国の独立と平和を守るのである。警察法と自衛隊法に書いてある。この場合の国とは、我が国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国が、天皇制を中心とする一体感を共有する民族家族意識である。決して個々の国民を意味しない。もし個々の国民を指すとすると、自衛官も守られるべき国民であるから、生命を犠牲にすることは大きな矛盾である」。

以下省略しますが、こんなふうに述べているんですね。


 これは要するに、「国体護持」っていうことですよね。天皇制を中心とする「国柄」ですから。「国柄」というのは戦前、戦中の文献を見ると、あきらかに「国体」と同じ意味で使われています。日本の国柄、国体というのは、もちろん国民体育大会ではありませんよ。天皇制国家という意味です。戦前戦中、かつての旧帝国軍隊は、皇軍、天皇の軍隊であり、天皇制国家という国体を守るための軍隊だった。だからいざとなったときには、国民を犠牲にした。旧満州でそうだった。そして沖縄戦でそうだった。ということがずっと言われてきたわけですけれども、その旧帝国軍隊。「国体護持」の軍隊という考え方が、はたして戦後の自衛隊においてどこまで清算されたのかということが実ははっきりしない。少なくとも1978年の段階で、自衛隊の制服組のトップだった人は、まだ「国体護持」という使命感を持っていたわけです。そのことがここであきらかになります。


 そして2000年の段階でも彼はそう考えているということがわかります。今の自衛隊の幹部がどこまで「国体護持」ということを考えているのか。あるいは小泉首相が言うように、国益を守るというふうに考えているのかわかりませんが、少なくとも最近の有事法制論議の中でも例えば次のようなことが伝えられている。左側の資料。朝日新聞。「有事を問う」という記事ですけれども、

「陸幕のある幹部は言った。我々の任務は国家を守ることだ。それが国民の生命や財産の安全につながる」と。

 2次的につながる。まず第一に国家を守るんだと。

「自衛隊は国民を守るためにあると考えるのは間違っている」と。

こういうふうに述べているんですね。いったい自衛隊は、国民の生命、財産を守るのか、国家を守るのか。


上の記事は関連の記事ですが、石破茂防衛庁長官が、いわゆる有事の際には、自衛隊は敵の侵害を排除することで精一杯なので、「国民の生命、財産を守る」まではとても余裕がないという趣旨のことを述べている文章です。


 こんなふうに考えてきますと、やはり現在の有事法制の整備、そして日本の軍事化の流れの中で、国民を犠牲にして国家を守るという発想が脈々と生き続けているのではないかというふうに疑わざるをえないのですね。

 そしてそのときに、国民のそういう犠牲というものを、国民に受け入れさせるために、先ほどのそれは国を守るための「尊い犠牲」だったんだというかたちのレトリックが使われる。そのレトリックにだまされて、犠牲を容認し、犠牲を肯定し、ひいては犠牲を美化していく。「国のために死んだ人は立派な名誉の戦死だったんだ」と。「日本の誇りだ」というふうに、遺族が語り、また国民もまた語るようになっていく。とするならば、あきらかにそれは犠牲のレトリック、犠牲の論理というものにだまされるということになるわけです。

■福沢諭吉「戦死者の大祭典を挙行すべし」

 次の資料は、ぜひご紹介しておきたいと思って入れたんですが、福沢諭吉の文章です。まあ栗栖弘臣という人を知らない人がいても、福沢諭吉を知らない人はいないでしょう。一万円札の肖像画になっている。明治の偉人として今でも尊敬されている。「学問ノススメ」は誰でも知っていると思います。

 しかし、その福沢が同時に、いわゆる『脱亜論』という文章を書いてから、アジアに対して侵略的な言動をとるようになった。そして日清戦争の時は、「もうこれは文明と野蛮の戦争だ」「文明開化した日本が野蛮国の中国に負けるわけにはいかない」ということで非常に好戦的な言動を行ったということもよく知られていることです。ここに持って参りましたのは、その日清戦争が終わった直後の彼の文章です。「戦死者の大祭典を挙行すべし」という文章。


 彼がここで何を言っているかと言いますと、一番最初のところに、「日清役ならびに台湾戦争において、我が軍人の戦死せし者851人。焼死・・・」云々というふうに書いてありますね。つまり、日清戦争が終わった後、台湾戦争というのはどういうことかと言いますと、日清戦争に日本が勝利して、下関条約を結んで台湾を清から割譲させます。そしてその台湾を植民地にするわけですが、決してそのときに平和裡に台湾が日本の植民地になったわけではない。台湾の人たちはとんでもないということで独立宣言をしたグループもありますし、軍事的に抵抗したわけです。その抵抗をつぶすために日本軍が派遣されて、台湾側に多数の死者を出しただけではなく、日本軍の方にも戦死者が出たわけです。そういう戦争を経て、台湾を植民地化する方向に進んでいったわけです。そのことを福沢はここで「台湾戦争」と言っているんですが、その日清戦争と、その直後に続けて起こった台湾戦争でたくさんの戦死者が出た。日本の歴史始まって以来の戦死者が出た。


 ところが、福沢によれば、「この戦死者とその遺族に対して、日本の国、社会は非常に冷たい」というんです。「凱旋した将兵は大変な栄誉に包まれている。大国清を破った。そして凱旋してきたのだから、立派に戦ったと褒め称えられ、そして政府からあつい待遇を受けている。しかし、戦死者と遺族はなぜか放っておかれている。しかし、これでは非常にまずい」というわけです。


 なぜまずいのか。これがこの線で囲った部分ですが、福沢によれば、「東アジアの情勢はまだ不安定である。いつ再び戦争が起こるかわからない」。まあ、日本軍が戦争をしかけるわけですけれども、次に再び戦争になったときに、何に依拠して国を守るべきか。それはとにかく、死を恐れず、命を捨てても戦う。そういう兵士の精神に頼らなければ国を守ることはできないんだと。だから、ますますそのような精神を養うことこそが国を守るための必須のこと。重要なポイントなんだと。


 ではそれを養うにはどうしたらいいか。

 そのような精神を養うためには、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて、戦場に死ぬのが幸福であると感じさせなければならないと言っているんです。聞くところによると、戦死者に対しては遺族に不浄料その他わずかばかりの金品を与えているだけで、何らの恩典を与えていないということ。これはいかにも気の毒であって、国民の元気に関わることであり、なんと言ってもこの状態では次の戦争ができない。なぜならば戦死者とその遺族はあまりにも惨めである。そしたら、次の戦争の時に命を捨てても国のために戦おうと言う人が出てこなくなってしまう。命を捨てて国のために戦った戦死者。そして戦死者を出した遺族に可能な限り栄光を与えなければ、彼らに続く人はいなくなってしまう。だから困ると言っているわけです。


 そこで彼が提案しているのは、戦死者の大祭典を挙行すべしということなんです。全国各地で日清戦争、台湾戦争の死者の慰霊祭をやっているようだがそれでは不十分である。さらに一歩進めて、全国の戦死者の遺族を東京の真ん中の靖国神社に招待して、そこに明治天皇が軍官、武官、大勢を引き連れてやってきて、戦死者の功績を称える。そしてその優れた魂を慰霊する。そういう勅語。天皇じきじきの言葉を下すことを大いに希望するんだと。そうすれば人びと、国民は戦場に死ぬことが幸福だと感じるようになるにちがいないというんですね。

■ヤスクニの論理と戦争動員

 その次のところ、興味深い例があがっています。千葉県の佐倉で慰霊祭、招魂祭をやったときに、そこに一人のおじいさんが遺族として招かれていた。そのおじいさんは親ひとり子ひとりで、その一人息子をこの戦争で亡くしてしまった。そこで、「その一子を不幸にも戦死したりとて、初めはただ泣くばかりなりしが、この祭典に列するの栄に感じ、一子を失うも惜しげに足らずとて、後には大いに満足して帰れり」と。


 つまり、最初は一人息子をなくして悲しい。ただ泣いてばかりいたおじいさんが、 この祭典に招かれて、いや息子さんは栄誉の戦死だったんだというふうに言われて、帰るときにはもう大喜びで帰っていったと。一人息子を失うのも惜しむに足らない。満足して帰っていった。感情的にも180度ひっくりかえったと。私はこれが「靖国の論理」のからくり。「犠牲の論理」のからくりだと思うんです。


 その先で福沢はこう言っています。

「もし大元帥陛下、明治天皇が自ら靖国神社に来て大祭典をあげてくれれば、戦死者は地下で、ヨミの国で天皇の恩がいかにありがたいか、感謝するであろう。また遺族はその名誉に感涙にむせんで父兄の戦死を喜ぶであろう。また一般国民は、万一ことあらば、天皇の国のために死ぬことを希望するようになるであろう。そのためには多少の費用は惜しむにたらず。全国の遺族を靖国神社に集めなさい」


 こう言っているんです。福沢のこの文章が効いたのかどうかわかりませんが、実際に日清戦争の時に、この後に靖国神社に明治天皇が行って戦死者の大祭典が挙行されているわけです。その後にまた福沢は文書を書いている。一応、やったのは認めるけれども、まだまだ足りない。もっとやれという文章を書いている。


 福沢諭吉がこの段階でこういう文章を書いているというのは非常に興味深いですね。靖国のシステムというのは、まだこの段階では完全には確立されていない。日露戦争、さらに第一次大戦、満州事変。その過程で確立されていくわけですが、この靖国のシステムが確立される途上において、近代日本の最大の思想家と言っていいこの福沢諭吉が靖国神社のからくりを明らかにしている。


 つまり、家族から戦死者を出すというのは、これはただ普通の人間として考える限り、もうただ泣くばかりなりというおじいさんの感情がふつうです。とにかく、悲しい。むなしい。それが普通の人間の感覚だと思いますが、そこに国家の論理が、その悲しみ、虚しさを埋めるためにそこに入ってくることによって、180度違う感情になっちゃうわけです。これ、名誉の戦死だ。日本の誇りだった。国のために死んだ立派な戦死者なんだ。尊い犠牲なんだということで幸福感を遺族は持ってしまう。そしてその役割はここで福沢諭吉に指摘されているわけですね。


 なぜそうすることが必要なのか、それは次の戦争に国民を動員するためだと。そうしなければ国民は戦争の悲しみに耐えられないから、そうすることが次の戦争の準備になるんだと言っているわけなんです。私はこれが靖国の論理のからくりだと思いますし、犠牲の論理のからくりだと思いますし、小泉首相が言っているイラク派兵に耐える国民精神というもののからくりだと思います。これを見破ることが重要です。


 そして、なにも難しいことはない。戦争で死ぬことは虚しいことだ、悲しいことだという普通の人間の感情に私たちは徹する必要があるんじゃないかと思います。残念ながら、世界からまだ戦争や軍事紛争はなくなっていません。しかし、これをなくすための一つのやり方は、とにかく、戦死者が出たときに、これが「国のために必要な、やむをえない犠牲だった」とか、ましてや「尊い犠牲」だったというかたちでそれを容認しなネいことだと思います。

■ただの人間の感情に徹する

 たとえば、一昨年のアメリカで起こったいわゆる同時多発テロ事件。あの事件で、多数の遺族が出ました。とりわけアメリカ国民の中に。でアメリカの遺族の中で多数の人びとはその後のブッシュ政権のアフガン攻撃を支持しました。自分たちの家族がまったくいわれなくテロリストたちにやられたと。そのテロリストたちをかくまっているのはアフガンのタリバンらしい。だからブッシュ政権の戦争を支持すると言って、遺族たちの多数は支持したんですが、遺族の中にこの戦争を支持せずにブッシュ政権に反対する人びとがいたんですね。「ピースフルトゥモローズ(リンク)」というグループ。昨年の末に代表者のデービッドさんという方がきました。彼が言っていたのは、彼のお兄さんが世界貿易センタービルで亡くなった。そのときに、彼も非常に怒りに震えたと。

 しかし、彼のお母さんが

「とにかく悲しい。しかし、同じ悲しみをアフガニスタンの人びとに味あわせるのか、私たちは。それだけはやめてほしい」

と言って戦争に反対した。そこでデービッドさんも反戦の立場で活動をするようになったとおっしゃってました。


 彼らのグループは、実は、攻撃後アフガンに行って、そこで被害を受けた人たちと抱き合って涙を流しあったそうです。おそらくそういうただの人間の感情に徹するということが重要なのではないか。

 そういうふうに考えていきますと、例えば日本人拉致事件の被害者、あるいは被害者家族の方々についても同じことが言えるのではないかと思うのですが、いまのところ、日本の拉致事件の被害者家族の人びとは、かなり政治的な動きの中に巻き込まれていまして、なかなか多様な声というものが表に出てきません。私が知っている限りでは、たとえば拉致議連なんかの非常に強硬な対北朝鮮政策に対して疑問を持っている家族の人もいるらしいのですが、なかなかそれが表に出てこない状況ですね。


 私がよく言うのですが、夢見るのは、その「ピースフルトゥモローズ」の人びとがアフガンに行って、アフガンの被害者の人びとと抱き合って泣いたと。同じようなことが日本人拉致事件の被害者の人と、例えば北朝鮮にいる元慰安婦の被害者の人とか、強制連行の被害者の人とか、そういう人々との間になりたたないんだろうかと、夢かもしれないが考えることがあるんですね。


 現在のイラク派兵の中で小泉首相が語った日本国民の精神が試されているという言葉から、少し靖国の論理、犠牲の論理、そして遺族の感情の問題まで入ってみました。いずれにしてもこういう形で戦争を支持し、それを容認する国民精神というものが今つくられつつある。その一つの有力な媒体はマスメディアであり、マスメディアがそのような報道をどうも強めている。同時に首相は靖国参拝のようなパフォーマンスを繰り返している。

■恒常的な戦争動員の装置

 しかし、最初に申しましたように、ここで非常に重要な装置が浮かび上がってくるわけです。もし為政者がそのような意味での国民精神を作り上げようとしたときに、もっとも長期的にかつ確実にそのような国民精神を調達できる装置というものが実は存在する。それがいわゆる公教育です。いわゆる義務教育。公教育というものは、一応、すべての国民が権利であると同時に義務としてそれを受けるということになっています。ですから、この教育を通してそのような国民精神づくりということを行うならば、きわめて確実に、かつ長期的にそれが調達することがでナきるようになる。


 さっきも言いましたけども、戦前戦中の日本の教育がいかにそういう意味で有効であったかということを日本の為政者たちはよく知っていますから、現在そのような動きが始まっているとしても決して不思議はないんですね。戦前の日本の教育の中でも国家主義教育として皆さんよくご存じなのは日の丸・君が代ですね。これはかなり早くから、教育現場に文部科学省、文部省の指導の下に導入されまして、その押しつけに反対する人びととの間でずっと問題になってきたということはご存じの通りです。


 九州では北九州市でいわゆる「心裁判」というのが今、行われています。日の丸・君が代に反対した先生方、十数人が原告になって裁判が行われていますけれども、1999年の通常国会で国旗・国歌法が成立して以降、それまでは実施率が必ずしも高くなかった、例えば広島とか北海道、東京都、三重とか、沖縄でもそうですが、もう100%実施というのがもう義務のように強制されつつあるというのが今の実態ですね。


 ここに持ってきましたのは、東京都の実態ですが、かつて実施率が非常に低いとされていた東京都が今、全く逆にトップを走るという事態になっているんですね。昨年の10月に東京都教育委員会が都立高校に対して、日の丸・君が代の非常に詳細な実施指針を通達しました。日の丸は式典会場の舞台壇上の正面に掲揚しなければならないとか、あるいは君が代斉唱の時には司会者が「国歌斉唱」と発声して起立をうながす。教職員はそのときに指定された席に座って国旗に向かって起立して斉唱しなければならない。斉唱はかならずピアノ伴奏とともにやらなければならない。テープレコーダーなどでやってはいけない。

 とにかく、こと細かくどういうふうにやるべきかを指示する。とりわけ一人ひとりの教職員がその式の間中にどうしていなければならないかについて、あらかじめ職務命令が出される。そしてその職務命令通りに教職員が行動していたかどうかについて報告され、その職務命令に従わなかった教職員は処分される。こういう通達なんですね。


 これから卒業式、入学式シーズンが来るわけですけれども、すでに都立高校ではそれを待たずに周年行事、いわゆる創立何十周年記念とかそういう行事の中でこれが実施されてきています。そしてもっとも驚くべきことは、この詳細な実施指針通りに周年行事において日の丸・君が代が行われているかどうかを監視するために、教育委員会の職員が各学校に派遣されるということが常識になってきたんですね。

 次の資料はそれに関するものです。これは昨年の秋から最近に至るまで都立高校で行われた周年行事に、どれぐらいの教育委員会の職員がそのために派遣されたかに関する記事です。こまかいところは省略しますが、7校にのべ43人。この段階で。315時間もの職員が派遣されている。そして式の間中、教職員の周りを動いたり、あるいはその前に立ったりして、本当に教職員の一挙手一投足を監視しているわけなんですね。これはかつての戦争中ですらこんなことがあったのだろうかと思われるくらいに、恐るべき監視システムです。

 このような状況にもかかわらず、何人かの先生方は協力を拒否して処分されようとしています。それに対して、今、都立高校の200人ぐらいの先生方がとりわけ卒業式シーズン、入学式シーズンでの処分というものを行うべきでないということで、この10月の通達の違法性というものを訴える人権侵害の申し立てを今、準備しています。「東京こころ裁判」と名付けられているようですが、そういう裁判が今、始まろうとしています。

■思想信条の自由は心の中だけ!?

 ただ非常に暗澹たる思いにさせられるのは、裁判に訴えてはたして勝てるだろうかということなんですね。昨年の12月に東京都で君が代伴奏を拒否した音楽専科の先生の訴えに対して、原告敗訴の判決がすでに出ています。7ページの資料です。

 これは東京の日野市の例ですけれども、同じように国立市で佐藤みわこさんという、この方クリスチャンの音楽専科の先生で、自分はクリスチャンとして育てられてきて、キリスト教の信仰を持っているために、君が代という歌のピアノ伴奏をどうしてもすることができない。それを拒否し続けてきて処分されて裁判になっているんですね。しかし、この日野市の方がすでに12月3日の判決で敗訴してしまっているということなんです。そのときの裁判所の論理。東京地裁の論理はどういうことかと言いますと、心の中でどう思っていても、それはもちろん思想・良心の自由です。思想良心の自由は憲法に定められていますし、これは基本的人権の中でも可能な限り厳格に解釈されるべき、擁護されるべき自由ですから、これを否定することはできない。思想良心の自由は認めますよと。だから心の中でどう思っていてもかまいません。クリスチャンならキリスト教の信仰を持っていてもかまいません。


 しかし、公務員であるかぎり、公務員の義務には従わなければなりません。だから小学校教員として、音楽専科の教員として職務命令として君が代伴奏が出たら、それをやらなければなりません。これはその判決を報じたクリスチャン新聞の記事ですが、「教育現場に踏み絵」と書いてあります。要するに内面の思想信条、信仰と外形的行為は別だと。内面で何を思っていてもいいから、とにかく外面的行為の上では義務に従いなさいと。これは実は戦前戦中の大日本帝国憲法下の状況とまったく同じなんです。帝国憲法でも信教の自由は一応認められていましたが、それは「帝国臣民の義務に反しない限り」ということだったんです。

 1932年だったと思いますけれども、上智大学の学生が靖国参拝を拒否して、これが大問題になって新聞などで非国民として非難された。そのときに上智大学が文部省に靖国信仰とキリスト教の関係について質問したということがありました。そのときに日本の文部省がどういうふうに答えたかというと、「神社参拝というのは日本国民の義務。国家に対する愛国心と忠誠心の表現であるから信仰と矛盾しない」と答えているんです。実はこのことがキリスト教、仏教その他、日本の宗教の戦争協力にもまたつながったということが言われているわけです。


 つまりカトリック、プロテスタントいずれにせよ、当時の日本のキリスト教徒たちは、心の中でキリスト教の信仰を持っていても、そのことは侵されない。ただ、日本の国民、帝国臣民の義務として愛国心と国家への忠誠心を持ってほしい。その表現として神社参拝をすると。そこを区別したわけですね。仏教もそうです。例えば浄土真宗なんかでは真俗二諦論(?)というのがありまして、神事の世界と俗なる世界は区別していいんだと。それはそういうふうに解釈したときに、仏教の信仰は神事なんです。しかし、俗世間では帝国臣民として靖国に神社参拝をする。そういう仕組みになっていた。それを区別することによって、戦争協力に入っていったわけです。そういう戦前の論理が今ここで復活してきているわけです。


 しかし、本当は、思想信条の自由というものが、内面と外面を区別できないということが、ここにありますよう、に長崎の隠れキリシタンの踏み絵の例を考えても明らかです。隠れキリシタンの人たちがイエスやマリアの像を、絵を踏むことができなかったのはなぜか。それはキリスト教の信仰によって、イエスやマリアの像を踏むということが認められなかったからです。信仰からしてそれができなかったわけです。まさに現在の教育現場でそういう踏み絵が行われているということがあると思います。


 私は教育現場でこういうことがまず行われているということが信じられないわけです。この点については、私たちは絶対に妥協すべきではないと思います。裁判所までこのような判決を出すという状況にあるということは本当に暗澹たる思いにさせられますが、幸いにしてまだこれに抵抗する先生たちがいますし、私たちもそれに見習って、私としてもそれに連なって、この状況を変えていきたいというふうに考えている次第です。

■東京で起きていること

 今、東京都でここまで来ているというお話をしましたが、実は石原慎太郎知事の下に、いわゆる「心の東京革命」と称する教育改革が進められているんですね。東京都の教育改革というのは、もちろん石原都知事が就任する前から始まっていたことですが、石原知事が就任して以降、急速に、徹底して、ある方向の改革、私に言わせれば「改悪」が、次々に行われていった。それは一言で言えば、教育現場にあらゆる意味での競争原理を導入する。子供たちに小学校低学年から競争させて、早いうちからエリートに重点的な教育投資をして、その他の人びとについては、まあ落ちこぼれはやむをえないというようなことが堂々と言われている。


 同じことが教員やあるいは学校単位でも行われている。教員どうし競争させてそれを評価の対象にする。あるいは学校どうし競争させて生徒の集まらない都立高校はもうつぶれていいんだということで、徹底した競争原理というものが導入されてきています。同時にその教員の心の面に対する管理。これは同時に子供の心に対する管理でもあるわけですが、教える側と教えられる側、双方に対する管理が徹底して行われるようになってきて、それを石原都知事は、「心の東京革命」と称しているわけです。


 1999年の4月に石原都知事が就任し、2000年の8月に「心の東京革命・行動プラン」というものが出されて、注目すべきことに2001年の1月には、東京都教育委員会の基本方針から、憲法と教育基本法が削除されている。今、憲法改悪、そして教育基本法改悪の動きが進められているんですけれども、東京都ではすでに先取りされている。それまでは、当然、教育基本法の下にある教育委員会ですから、教育基本法、憲法の精神に沿ってということが入っていたのに、それが削除されてしまった。


 ですから、教育基本法が今の流れのままで改正、実質改悪されたらどうなるのかというテーマで地方によく講演に呼ばれることがあるのですが、そういうときは東京都のようになるんだというふうにお話をする。で、東京の実態をお話しすると非常によくわかっていただけます。そしてそれはあからさまに教育基本法を基本方針から削除した教育委員会。それが現在の教育改革・教育改悪を行っていることに象徴的に示されていると思われるわけです。国旗・国歌の信じられないまでの強制というのもそこにつながっているということです。


 で、教育基本法の前文を入れておきました。

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 教育基本法という法律は、憲法に比べるとあまりよく知られていない。みなさんの中にもあんまりよく知らないという方がいらっしゃるだろうと思います。小・中・高等学校の先生方は、教員採用試験のときに、必ずこの教育基本法が課せられるらしいので、まあ少なくとも一夜漬けでは勉強されるということを伺いましたけれども、実は教員の人たちの中でもあまり教育基本法というものが参照されることが少ないので、今「改正論」が出てきて、あらためて勉強し直しているというようなこともよく聞きますが、一般の人びとはあまりその内容を知らない。

 しかし、この法律は憲法と並ぶほど重要な法律というふうに言われています。特に私が最初から申し上げている「心と戦争」というような考え方を取った場合に教育基本法が決定的に重要な意味を持ってくるということは明らかなんですね。なぜならば、教育基本法こそ、戦前戦中の教育勅語に支配された教育内容というものを真っ向から否定する形で定められたものだからです。

■教育基本法の核心部分

 具体的には教育基本法は日本国憲法が制定されたのを受けて、その憲法の理想を実現するのは教育の力に待つものであるから、ここに憲法の精神にのっとって、戦後日本の教育の理念を定めるのだというかたちで定められた法律なんです。ですから平和憲法と不可分のものと言ってもいい。そのことは前文にもはっきりと書いてありますし、第一条、教育の目的にも憲法につながる理念が述べられています。

(教育の目的)
第1条
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 私はこの教育基本法の理念の核心は、前文の4行目にある「個人の尊厳を重んじ」、それから第一条の2行目にある「個人の価値を尊び」、この「個人の尊厳」と「個人の価値の尊重」、これがすべての立脚点だと。そしてその個人の尊厳に立脚しつつ、平和的な国家および、社会の形成者が育つように手助けをする。それが戦後日本の教育なんだと。これが教育基本法の核心的な理念なんだと思うんです。


 そういうふうにとらえた時に、「教育勅語」の精神と180度対立することになります。「教育勅語」は先ほど触れましたように「一旦緩急あれば」、いったん有事の際には、天皇の国家のために国民は命を捧げなさいということですから、戦前戦中、「教育勅語」の下では、個人々々は国家のための存在でしかなかった。「国体護持」のための捨て石にされる存在でしかなかった。ところが、今のように読めば、戦後の教育基本法はまず個人の尊厳、個人の価値の尊重がある。そして、その個人が平和的な方向への社会の形成者となっていくという考え方ですから、あきらかにひっくり返っている。この教育基本法の基本理念というものは今後もずっと堅持していくべきだと思っています。


 ところが今、そこに攻撃がかけられてきているわけです。つまり教育基本法の中にたとえば「愛国心」を入れようとしている。あるいは「日本人としての自覚を高める」という教育目標を入れる。そういう教育基本法「改正論」が現実に力を持ってきていまして、昨年の3月20日にはそう言う内容を持った答申が中央教育審議会にすでに出されているわけです。


 中央教育審議会というのは、まあ委員の選び方にはいろいろ疑問がありますが、法的根拠のある審議会なので、そこが改正の答申を出した以上は、政府も改正の方向で議論しなければならない。もともと政府よりの答申が出されるだろうというふうに想像されていて、そういうものが出たわけです。中教審の答申の中に「国を愛する心と日本人としての自覚を高める」、これを新しい教育基本法の柱にしようということが入っております。


 今のところは与党の中で公明党が「愛国心」を入れると言うことに慎重になっているためになかなか与党案がまとまらずに改正法案が出てきていないのですが、たとえば次の参議院選挙の結果によっては直ちに出てくる可能性がある。現在の文部科学大臣は今国会にもぜひとも出したいと言っているようですが、どうも公明党の方がそれに乗って来ないようですが、しかしいつでも改正案が出てくる状況になっていると言っていいでしょう。

 教育基本法の中にもし「愛国心」とか「日本人としての自覚」というものがうたわれることになりますと、これは「個人の尊厳」が立脚点であるという戦後の教育基本法の理念が根本的に変わることになると私は思います。


 最初にお話ししたように、「国策としての戦争を支持し、それを容認する国民精神」というものをつくっていくためにそのような教育基本法が今、為政者によって必要とされているのではないか。これが私の教育基本法改正論についての見通しなんです。

■「愛国心」教育は法律違反!

 教育基本法が100%理想的な法律だとかカンペキな法律だとは実は私は思っていません。細かいところを見るといろんなところで議論になっていますし、私もそういう議論を理解する立場にあります。

 憲法についても私は実は、象徴天皇制についてはこれをなくしたいと思っている人間ですので、100%護憲という立場をとるわけではありませんが、たとえば9条については、私は最後まで9条支持という立場になると思いますが、教育基本法についても、その最良の部分。教育基本法の理念の最良の部分である「個人の尊厳」に立脚した平和的な国家、及び社会の形成者の育成という、そう言う理念を守ろうと考えています。


 そして、その理念を守るためには、当然、第3条に述べられている「教育の機会均等」とか、あるいはとりわけ第10条の教育行政に対する縛り。つまり、戦前戦中は、国家が教育内容を徹底的に支配して、ああいうことになったので、戦後はもはや文部省を頂点とする教育行政は

「教育に対する不当な支配を行ってはならない」と。

「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきものである」。

 第2項で「教育行政はこの自覚の下に教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標としておこなわれなければならない」。「教育行政は教育の内容に介入して不当な支配を行ってはいけないのであって、あくまでもここに定められている教育目的を遂行するのに必要な条件整備に留まらなければならない」と。


 たとえば、「個人の尊厳」を重んじるというわけですから、50人学級、60人学級ではひとり一人の子どもの価値を尊重することはできない。そしたら、30人学級、29人学級を実現しなければならない。そういう条件整備に教育行政は力を注ぐべきであって、「教育内容に介入し、それを不当に支配してはならない」ということが第10条で定められている。これは極めて重要ですね。こういう観点から見ますと、たとえば「日の丸・君が代」の強制、「国旗・国家」の強制というものが、第10条違反に当たるのではないかと言うことは当然考えられることですし、これからお話しします最近、新しく始まった「愛国心教育」。これもまた教育基本法違反であるという疑いが強いわけですね。

■大学で起きていること

 さて、次の資料は、これは東京都の教育改悪の例に触れましたので、この東京都の教育改悪が実は大学のレベルにまで及んでいるということの参考資料として入れたものです。最近の2月15日の読売新聞に掲載された意見広告です。

 石原都知事は、都立4大学と東京都の大学管理本部の間で時間をかけて議論されてきた都立大学の改革案を一蹴して、突然、一方的に、トップダウンで都立4大学を解体して、新しい首都大学東京というものをつくる。そのために現在の都立4大学の教員を大幅にリストラするという、そういう改革案を出してきたんですね。大学側の学長を含めて、教員や教員組合の主張は一切聞かない。完全に、一方的なトップダウンでこれを強行しようとしているんです。


 私がメッセージの中で、「ヒトラーのやり方を連想させる」と書いてしまったものですから、これを読んだ編集者が、「こんなことを言ったら、石原都知事のことだから名誉毀損で先生を訴えるのじゃないか」と言われたのですが、そうなったらそうなったで私は徹底的に闘うつもりですが、とんでもないやり方です。

 彼は先ほどの「心の東京革命」と称して、都立高校を初めとする東京都の普通教育のシステムを「改悪」しつつあるわけですが、同じく教育基本法の下にある大学にまでもこのような一方的な破壊工作をかけてきているということなんです。石原都知事は「東京から国を変える」と言って、そういう施策を展開しているわけです。それに対して、「いや彼は東京から教育文化を破壊しているんだ」というのが、この意見広告の主旨なんですね。

■愛国心を3段階評価

 さて、次に最近新しく始まった「愛国心」教育の例について簡単に見ておきましょう。次の資料は、お隣の福岡県で問題になったことですから、恐らく皆さんはご存じだろうと思いますので、あまり詳しく立ち入ることをしないでおこうと思います。

 一昨年の春から、福岡市立小学校の6年生の社会科で、「子どもたちの国を愛する心情」と「日本人としての自覚」を3段階評価するということが始まった。そしてその後の朝日新聞などの調べでは、全国の10を越える府県で、200近くの学校が、この「愛国心」を3段階評価する通信票が使用され初めていたということなんです。福岡市立小学校が最初に問題になったわけです。

 ここではそのコピーを入れておいたんですが。学習の記録の社会科のところの一番上の段ですね。「我が国の歴史や文化を大切にし、国を愛する心情を持つとともに平和を願う世界の中の日本人としての自覚を持とうとする。そのような自覚を持とうとするかどうかについて、子どもたちを3段階評価する」ということなんです。福岡では在日コリアンの保護者の方が、たしかおいごさんだったかと思うんですが、ここにBをつけられて帰ってきたと。「日本国籍じゃないのに、なんで日本人としての自覚でBをつけられなくてはならないのか」ということで抗議されたのをきっかけとして、この問題が表面化したということらしいんですね。


 この通信票は、校長会が作って、福岡市立小学校の過半数にあたる69校でこれが使用され始めていたということなんですが、校長会ではその抗議を受けたときに、「在日の人のことは頭にありませんでした」と答えたらしいんです。

 世界に開かれた、アジアに開かれた国際都市を標榜している福岡市の校長会が、在日の人のことを念頭に置かないというのはまったく信じられないことですが、在日コリアンの人ばかりの問題ではありません。これは日本人の子どもにとっても明らかに思想信条に関わる問題です。

 弁護士会がこれは人権侵害にあたる疑いが強いという勧告を出し、抗議が強まって、福岡では昨年度からこの通信票は撤廃されたそうですが、全国でこういう通信票が使われ始めている実態になんら変わりはない。大分県ではどうなんでしょうか。


 これも日の丸・君が代と同じで、教えられる子どもたちが「内心の自由」の侵害を受けるだけではない。教える側の先生にとってもこれを教えなければならない。こういうかたちで評価しなければいけない。子どもたちに「愛国心」を持たせる授業をしなければならないということですから、いや私は、教育基本法の理念にあるように、まず人間としての「個人の尊厳」を重視した授業をしたい。ナショナリストを育てたくないから「愛国心」教育どはしたくないと語る先生も、このような通信票ができてくれば、これはやはりそういう教育をせざるをえなくなる。ですから教える側の教員にとっても、「内心の自由」の侵害になるだろう。評価というところに入ってきますと、これは本当に子どもたちは逃れることができなくなります。これはむしろ学校現場、そして保護者が一体となって撤廃すべきことではないかと思います。

■事実上の国定教科書

 それからもう一つは、いわゆる「心のノート」ですね。これは小中学校の先生、あるいは小中学生をお持ちの保護者の皆さんはご存じかもしれませんが、少なくとも当初は、ほとんど一般に知られないかたちで報道もされずに、全国の小中学校で「心のノート」の使用が始まった。一昨年の4月から文部科学省が発行した、道徳の副教材。心のノートと称するものが全国の小中学生1200万人に配られたということなんです。


 これは、道徳教育を心の教育としてする。そのための教科書ではなく、教材なんだと。だから、これで道徳を文部科学省が押しつけるということではありません。教材ですから、現場で使用の強制はいたしません。しかし、できるだけこれを使って、参考にして道徳の授業を行ったらどうでしょうかと。そういうかたちで現場に入ってきたわけですね。


 しかし、実際は使用状況の調査などが文科省などによって行われたスりと既成事実化していまして、なかなかこれを使わずにいるということが難しくなっている。私はいずれはやっぱり日の丸・君が代みたいにして使用せざるをえなくなるんじゃないかと予想しますし、事実上の道徳国定教科書だと思います。


 教科書にしないで、教材にした。副教材にしたというのも、もし教科書にするとなるとこれは文部科学省発行というのはできませんので、すべての小中学生にこれを配ることができなくなる。教科書は私も高校の倫理の教科書の執筆をやったことがありますが、大学の教員とか高校の先生とかが著者になって様々な教科書会社から出して、検定に合格したら採択される。ですから同じ学年で同じ教科であっても全国で何種類かの教科書が使われている。それが当たり前の状況なんです。


 これは戦前戦中に国定教科書として先ほどの修身のようなものが大きな威力をふるった。それに対する反省もあって、そう、いう国定教科書が作れないシステムになっているわけですが、まさにそのために教科書としてではなくて、教材というかたちで文部科学省が発行したものを全国の小中学生に一律に配った。そういう戦略的に教科書ではなくて教材にしたとしか考えられない。ですから逆にこれが事実上の国定教科書だということなんです。


 私がこの「心のノート」の中学校版ですが、これを見たときにとにかく最初に「あれっ?」と思ったのは、誰が書いたか書いてない。「発行・文部科学省」としか書いてないところだったんです。それでここにさっきから繰り返し言及している戦前の「修身」の教科書を持ってきているんですが、これも著者名が書いていない。いや「著作者・文部省」と書いてある。「発行・文部科学省」と全く同じなんですね。そういう意味でこれは事実上の国定教科書だと思いますし、文部科学省はそれだけの意欲と覚悟をもって配ったということが言えると思います。

■国が道徳を説くということ

 実際には現場でもこれがもちろん拒否され使用されなかったり、いろんなかたちでこれに対する反応があるんですけれども、親御さんの中には「ようやく学校でこういうきちっとした道徳教育を始めてくれた。よかったよかった」って言う人がいたり、あるいは学校の先生の中にも「道徳っていうのはなかなか教えにくくて困ってたんだ。これでようやく教えられるようになった」と言う人が出てきたり、これを歓迎する空気が結構あると聞いています。子どもたちもこれをもらうと喜ぶ子が多いと聞いています。非常にきれいな本なんですね。こんなふうにパステルカラーでイラストや写真がふんだんに使ってあって、空欄がいっぱいあって、まさに「心のノート」で子どもたちがこれを読みながら書き込めるようになっているんです。


 たとえば一番最初のところに、これは小学校版も中学校版も似たようなものですが、「私の自画像」という欄がありまして、「最近一番楽しいこと」「一番ほっとするとき」「印象深いできごと」「うらやましいと思うこと」「最近一番感動したこと」「目標にしたい人」「モットー」「夢中になっていること」を子どもたちが書き込めるようになっているんです。実は一昨年の6月ぐらいに、私も中学校2年生の子どもがいますので、心のノートが配られたと聞いて、聞いてみたんです。持っているかどうかを聞いてみたら、持ってまして、家に持って帰って来てまして、もう書き込みをしていた。「私の自画像」のところに書き込んでたわけです。実は「目標にしたい人」というところになんて書いてあるかなあと思ってそこを見たんです。「まさかお父さんとは書いてないだろうな」と。書いてありませんでした。「お母さん」とも書いてありませんでした。「浜崎あゆみ」って書いてありました(笑)。


 それでうまいなあと思いました。つまり、子どもがそう言うふうに書き込みたくなる。最近の言葉で言うとキャッチーになっているんですね。子どもの心を捉えるような作り方になっている。そういうふうにして子どもがこれに入っていける。私の娘は「お父さん、これとってもいいこと書いてあるよ」って言ったんです。で見てみますと、たしかにいわゆる「悪いこと」は書いてない。そりゃそうですよね。道徳の教材なんですから。文部科学省が発行する道徳の教材で「悪いこと」の教えが書いてあったら困るわけですから。いわゆる「良いこと」が書いてあって、大人が子どもに期待すること。いわゆる「よい子」に期待することが並んでいるわけです。ですから内容的に見ると、別に悪くないじゃない。ちゃんとこういう事をおしえてくれるんだったらいいんじゃないと思いたくなるわけです。

 たとえば目次のところを適当に読みますと、「自分を見つめ直そう」とか「自分の人生は自分の手で切り開こう」とか、あるいは「他人を思いやる心を持とう」とか、「人間として生きる素晴らしさをかみしめよう」とか、立派な素晴らしいことが書いてあるわけです。ですから、これが悪いとはもちろん言えない。


 しかし、私はやっぱりこれを喜んで受け入れるというのはちょっと違うと思うんです。というのは、やはり「発行・文部科学省」ですから、同じことでも内容がどうあれ、国家が作った道徳のメッセージを子どもたちの心に直接届けるというのは、私は危険だと思います。問題があると思います。先ほどの教育基本法第10条にも違反する疑いが強いと思うんです。


 「自分の心を見つめよう」とか「他人に思いやりのこころを持とう」とかいうのは最低限のモラルです。こういうものは家庭や地域や社会で、子どもたちが育っていく中で、人と人との関わりの中で当然身につけていくべきことであって、それは大切だと思いますけれども、それを国家推奨の道徳として学校で教える。私はそのことに違和感をもたないとすれば、むしろ私たちの方がちょっと感覚が鈍っているかなあと思うんですね。


 それから実は内容も、もちろん、いわゆる良いことが並んでいるんですが、実はよく検討していきますといろいろ問題が出てくることがわかります。次の資料は、吉岡数子さんという方が、「心のノート」と国定修身教科書の内容を詳細に比較検討されて、非常によく似ているということを論じた文章です。この吉岡さんという方は、小学校の先生を長くされていた方で、戦前戦中の教科書を研究しておられる。「修身の教科書によく似ている。修身にあって、『心のノート』にないのは、『兵隊さん』と『天皇陛下』。この2つぐらいではないのか」と書かれています。


 そんなこともありますし、なんと言っても、「心のノート」の最後のあたりは「愛、国心」のメッセージが出てきます。次のページ。「我が国を愛し、その発展を願う」。上の方にあるのは、中学校版の「心のノート」です。そして下の方は「見つめよう。私の故郷。そしてこの国」。これは小学校高学年版です。あたかも心の教育を小学校に入学したときから、「心のノート」で始める。その心の教育の総仕上げのところに、この「愛国心」が出てくる。そういう構造になっている。そうすると「心のノート」による心の教育の総仕上げは、「国を愛する心」をつくるということになっている。ですから私はこの心のノートには極めて批判的なんです。

■「つくる会」との関連

 関連する教材として、「心の物語」というものも出ています。これは文部科学省発行ではなくて、「心のノート」関連の教材として、学研が発行したもので、その表紙と帯をコピーしておきました。なんと石原慎太郎東京都知事が「『心の東京革命(http://www.kokoro-tokyo.jp/index.htm)』の原点がここにある」と推薦文を寄せています。そしてその下には昨年の秋に都内で行われた拉致事件に関連する超タカ派の人たちの集会のチラシですけれども、右側のところには「新しい歴史教科書を創る会(http://www.tsukurukai.com/)」の小林よしのり氏の漫画がありますが、左下にはみんなの道徳、心の物語の推薦文が出ている。「心の東京革命」という文字が見えます。どうもこうやってみると、「心のノート」、「心の物語」、「心の東京革命」、そして「新しい歴史教科書をつくる会」、拉致事件をめぐって活動している超タカ派の人々の間に明らかなつながりが見えてくると、そんなふうに私は考えざるをえないわけです。


 次の資料は、いわゆる「新しい歴史教科書をつくる会」の作った歴史公民教科書をめぐって、2001年に外交問題にまで発展した。中国や韓国から批判が出て大問題になったことは皆さんご記憶だと思います。あの「つくる会」の人たちは、自分たちの教科書を来年またやってくる教科書一斉採択の時期に採択させようとしてずっと活動を続けてきています。

 が、この間、教育基本法改正論にもシフトしてきていまして、2000年に彼らが中心になって「新しい教育基本法を求める会」というのを作って、当時の森首相に6項目の要望書を出している。新しい教育基本法はこういう方向で作るべきだと。「伝統の尊重と愛国心の育成」。当然これがまず入ってきます。最初のところでは、「日本は皇室を統合の中心とする国」だということで、天皇制が強調されています。


 2番目の家庭教育の重視のところでは、「家庭」、「家族」と並んで「家」という言葉が使われてまして、「家」というのは日本人にとって非常に重要な観念だと強調されています。特に注目したいのが3番目。「宗教的情操の涵養と道徳教育の強化」というところで、彼らはここで「人知を越えた大いなるものに対する畏敬の念というものを失ったのフで現代は混乱している」と。それを「個人の生命を越えた大切なものがある。その個人の生命を越えた大いなるものに対し、それを畏れ敬う気持ちを育てる宗教的情操の教育と道徳教育の強化をするべきだ」と、こういうふうに述べているんですが、この「大いなるものへの畏敬の念」というのはすでに「心のノート」の中に取り入れられているんです。それが次の資料です。

 「個人の生命を越えた大いなるもの」というのは、これは日本の保守派の人がいうときには、あきらかに戦前で言えば「天壌無窮の幸運」といいますか、天皇制を中心とする国家、民族の歴史とニいうことが想定されている。あたかも個人の生命を越える大いなるものに、個人の生命を捧げなさいとでもいうかのようなメッセージがこれによって伝えられる。そんなふうに私は見ています。

■仏教界の動き

 次の資料は、今度は「つくる会」の人々が言っている「宗教的情操の涵養」というのを、日本の仏教界が文字通りの形で主張し始めているという資料です。「全日本仏教界」という仏教諸宗派を結集した団体があるんですが、この「全日本仏教界」が教育基本法「改正」、とりわけ第9条宗教教育の条項の「改正」に動いてまして、教育基本法第9条1項には、「宗教に関する寛容な態度及び宗教の社会生活における地位は教育上、これを尊重しなければならない」と書いてあるんです。

 ところが、それを「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び意義は教育上これを重視しなければならない」と「改正」するように運動をしているんです。日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教だけは特別に重視してくれと言っているわけで、これは事実上、神道と仏教ということだろうと思います。仏教界が神道とともに、なにか国、あるいは日本というものと特別な結びつきを求めようとし始めている。私はこれは戦前に日本の仏教界が行った戦争協力というものを想起すると見過ごせない、危うい動きであると思っています。


 最後に、このように日の丸・君が代のような戦後教育の中ですでに早くから行われてきた国家主義教育のみならず、一昨年から現場で「愛国心」通信票や「心のノート」というかたちで、明らかに国民の「愛国心」というものを形成しようとする教育が始められている。「愛国心」教育や国家主義教育というのは、先ほど申しました教育基本法の理念に照らせば、教育基本法違反だと私は考えるのですが、そう言う意味では教育基本法を無視して、それを棚上げにして、現場でこういう実態が進められている。まさに東京都のような実態が全国にも広まりつつある。この「愛国心」教育の本格化というのは、先ほど申し上げたような「心と戦争」という図式の中でしか理解できないだろうと私は考えています。

 日本の為政者たちは今、21世紀に自衛隊が米軍とともにグローバルに展開をしていく。それを支える国民精神を作り出すために、学校教育を通して、国民の「愛国心」というものを調達しようとし始めている。そして、既に教育基本法改正を待たずに始められているこの「愛国心」教育というものが、教育基本法の「改正」によって「愛国心」というものをもし中に入れるとすれば、すべてが正当化され、さらに本格的な国家主義的教育が行われることになるだろう。そんなふうに危惧して教育基本法「改正」をぜひとも止めなければならないと思っているんですね。

■戦争絶滅請合(うけあい)法案

 最後の資料は、今日述べてきましたそういう国家の論理。戦争の論理というものとはまた別の観点から見破るために貴重な資料です。「戦争絶滅請合法案」というのがあります。皆さん、これご覧になったことがあるでしょうか。これはこのような法律を各国議会が制定すれば、この世から、戦争がなくなることが請け合いですよという法律案なんです。20世紀の初めにデンマークの陸軍大将のフリッツホルムという人が作って、ヨーロッパ各国に配布したと。日本でも1929年、長谷川如是閑さんがこれを紹介しているんです。


 どういう法律か。簡単にいいますと、「戦争が始まったら、10時間以内に次の人たちを最下級の兵卒、一兵卒として招集してできるだけ早く最前線に送って、実戦に従事させなさい」と。そういう法律です。

 じゃあどういう人々をまず最前線に送るのか。第一に国家元首。第2に国家元首の男性親族。第3に総理大臣。各国務大臣。そして次官。4番目に国会議員。ただし戦争に反対の投票をしたものはこれを除く。最後にキリスト教またはその他の宗教の指導者で公然と戦争に反対しなかった者は最前線に送られるというわけです。もし、この法律が制定されたら、戦争は起こらないだろう。


 戦争は、先ほどの久間長官が言っていたように、絶対に犠牲にならない為政者たちが、一部の国民を犠牲にすることによって、「国を守る」、「国益を守る」という行為である。戦争に自衛隊や軍隊を派遣する為政者たちは自らは決して最前線に行かない。それを前提にしているために戦争が起こる。だから、国家元首かゥら始まって、このような人たちが真っ先に最前線に送られるとするならば戦争は起こらない。そういうふうに、デンマークの陸軍大将がもう一世紀も前に考えてくれていた。これは確かに、こういう法律が成立するのは難しいと思いますが、戦争のからくりを非常によく表していると思います。要するに、国民の犠牲によって利益を確保する者と、犠牲にされる者との間の差別というものが、戦争の大前提になっているのだということをこの法案はあきらかにしてくれている。


 しかし、よく考えてみますと、私たちは、こうした法案を無理に国会で成立させる必要はないわけです。日本国憲法第9条がありますから。この法案はある意味で、戦争を前提にした上で、戦争を否定しているわけです。戦争が始まったら10時間以内にこうしなさいと言って、戦争を否定しているわけですが、憲法9条は、戦争そのものを一切否定しているわけです。「1割の犠牲ならやむをえない」などという判断は、現在の憲法下でありうるはずがないんです。現在の憲法9条は一切の犠牲を否定しているわけです。国のための犠牲を否定している。相手の側の犠牲であろうと、自国民の犠牲であろうと一切の犠牲を否定している。ですから、完全に憲法が無視されて、今、軍事化が進んでいる状況であるといわざるをえないわけです。

■私たちにできること

 こういう状況の中で私たちはどうしたらいいかということですが、私は、この流れを変えるための特別の秘策というのはないだろうというふうにいつも述べています。日本の社会においては、その流れに疑問を感じ、不安を感じ、危うさを感じた人が、その疑問や不安や危うさがどこに由来するのか、なぜ今の事態がおかしいのか、不安なのか、危ういのかということをしっかりと考えて、その自分の意見を公にし、そして仲間とともに行動して、流れを止め、そして変えていく。そう言うことをしない限りこの流れは止まらないと思います。


 私たちの現状は、1990年代を通して、国旗・国歌法もそうですが、様々な法律が成立してきて、戦後民主主義の下でかつてならばあり得ないと思われたことが次々に、現実となってきています。実はもう戦後民主主義の約束事の中で憲法と教育基本法ぐらいしか残っていない。しかもその実態はもう完全に空洞化されている。もう最後は、この実態に合わせて、憲法と教育基本法を「改正」、改悪するだけだと。実態を追認するんだから当然でしょと、そういう論理で来ると思います。にもかかわらず、私は、今日お話ししたような理由から、教育基本法のその最良の部分を支持したいと思いますし、憲法の根本理念を支持したいと思っています。その思いから私はいろんなところに行ってお話をしているんですが、今日は最後に「茶色の朝」という本の宣伝でしめさせていただきたいと思います。

■「茶色の朝」

 最後の資料は、最近私が出しました「茶色の朝」という本に関する東京新聞の記事です。この「茶色の朝」というのはどういうことかと言いますと、2002年にフランスで大統領選挙があったときに、極右政党の党首が決選投票に残りました。ジャンマリー・ルペンという人です。この人がもう公然と人種差別的な主張をしてきた人で、移民を排斥するという具体的な主張を繰り返し述べて、一定の支持を集めてきた人なんです。ですから、この人がもしフランスの大統領になれば、自由・平等・友愛を前提としてきたフランス共和国が人種差別国になってしまうということで、決戦投票の前に、もう中学生も含めて一大反対運動、「ルペンを落とせ」という運動が起きた。そのときに争って読まれたのが、この「茶色の朝」という本なんです。

 茶色というのは極右、ファシズムの象徴なんです。非常に平和な普通の国の中で生きる主人公が2人いまして、社会が茶色になっていく。つまりファシズムになっていく。その流れの中で、そのひとつ一つの段階を、確かにおかしい、これは危ういと思ってはいても、そのひとつ一つの結果、直ちに自分の生活が脅かされるわけではない。現状がとつぜん変わるわけではないというので、その都度なんらかの理由をつけてそれを容認していく。その結果として最後は「茶色の朝」ということで、ある朝、その主人公たちのところにファシストたちがやってくる。そういう、ある意味では非常に単純な物語なんです。

 ある社会がファシズムの社会になっていく。つまり「茶色」になっていくプロセスをそのファシストの側からではなくて、むしろ平和な社会を享受して、その中で「茶色」の社会に巻き込まれていく人々の側から、なぜその人々が巻き込まれていくのかということを描いた非常に短い物語です。


 私はこの10年ぐらいの間、結局、日本社会の人々が少しずつこれはおかしい、おかしいと思いながら、自分たちの利益や存在が直ちに脅かされるわけではないとしてそれを容認してきた結果が、今現在に至っていると思うんですね。そういう意味では、ある意味で遅すぎるといいますか、私は今の日本社会はもう非常に茶色が濃くなっている状況だと思います。

 しかし、それでもまだ多くの人々は「いやあ、これで日本がファシズムになるなんてことはないんじゃない」と思っていると思うんですね。そういう現状の中で、ひとつ一つのこと、おかしいと思ったこと、疑問に思ったこと、危ういと思ったことについて、きちっとひとり一人が考えて、そして声をあげ、ひいては仲間とともに行動していく。そういうことをしないと、いずれは「茶色の朝」が来てしまいますよというメッセージが込められていると私は考えまして、多くの人に読んでいただければと思っている次第です。

 最後は「茶色の朝」のメッセージを私のメッセージとさせていただいて、私の話を終わります。ご静聴ありがとうございました。


【質疑応答】


◆「マスメディアの役割」についての質問を受けて

 先ほどの自民党の「国民は国家防衛の義務を有する」という「改正」案がそのまま通るかどうか、仮に通ったとしてもそれがストレートに徴兵制にいくかどうかはわからないが、むしろ国民の協力義務が強調されていくのではないかというご意見だと思います。その中で、特にマスメディアが協力させられていく。マスメディアの問題は非常に大きいです。


 今日のお話しは、戦争を支持し、それを容認していく国民の精神が問題だと申し上げたのですが、ある意味では、日本人拉致事件にしてもマスメディアの報道によって、もう戦争もやむをえないと。となりにああいう酷い国がある以上、戦争もやむをえないし、軍事的圧力をかけるのは必要だしみたいな世論ができあがってしまったと言えるかもしれない。


 ですから、マスメディアというのは決定的に重要で、これからますますマスメディアが特定の政府よりの報道しかできなくなっていく可能性は強くなっていくと思います。今のマスメディアは1990年代の後半を通して変わったと思ってまして、私自身が多少とも知っている新聞、テレビでいうと、たとえばNHKの報道を考えても、90年代の前半にはまだ戦後補償問題とか、あるいは8月15日前後には戦争の関連のNHKスペシャルでかなり突っ込んだ部分までやってました。


 たとえば「東京裁判への道」なんてのは、なんで東京裁判で責任追求されるはずだった天皇の免責が行われたのかをかなり追究したものでした。でもそれが90年代の末ぐらいからほとんどできなくなって、今ではもうNHKでその類のものは全くできない状況になってます。


 実は私もちょっと関わった慰安婦問題に関連し、「女性国際戦犯法廷」。あの番組が右翼の攻撃もあってつぶれて、その後、まったくその問題が取り上げられなくなってしまった。朝日新聞なんかでも、「つくる会」の人たちが出てトきたときに、慰安婦問題で朝日が突出したということで徹底的に叩かれました。私はあのときに朝日が闘えばよかったと思うんですが、闘わないで逃げました、結果的に。それからもう朝日はがらっと変わりました。


 そういう状況に対してどうしたらいいかということなんですが、一つはとにかく個人的にでもいいから報道関係者とのつながりを大事にして、なにかその人がいろんな制約を突破していい記事を書いてくれたときには、いい記事が出たということで、新聞社に電話やFAXを殺到させる。テレビもそうです。そういうことをすることがとても大切だと思います。

◆「教育基本法改悪を進めようとしている人たちは、その先にどういう社会をつくりたいと考えているのか」という質問に答えて・・・

 それは、たとえば小泉首相や石原慎太郎都知事に聞くのが一番いいかもしれませんが、小泉首相だったら、「雰囲気で決めてる」とか、「いきあたりばったりだ」とか(笑)言うかもしれませんね。恐らく、誰かが非常に詳細なグランドデザインを書いて、その指示のもとにあるグループが進めているという感じではないだろうと思うんですね。


 非常に大きく言えば、やっぱりアメリカ。アメリカの現在の流れというものが、世界をそして日本の流れを規定している部分があると思いますが、アメリカの今の体制や日本の体制に属する人たちが考えているイメージとは何だろうかと考えた時に、非常におおざっぱになりますが、やっぱり一つはさっきもちょっと触れましたが、もう平等ということはいらないと。教育基本法第3条は教育の機会均等とうたっているわけですね。これは要するに、たとえば経済的に貧しいとかいろんな条件によって学ぶ権利が損なわれてはならないというので、一応、義務教育。すべてに基本的なところを保証しようということですよね。でももうそういう時代は終わったと。100人のうち1人のエリートを選び出してそこに重点的に投資して、後の99人はただまあマジメに働いてくれればいいんだと。愛国心を持ってエリートのやることを支持してくれればいいんだと。そういう考え方が非常に強くなっている。


 たとえば石原慎太郎都知事が都議会で繰り返しているのは、要するに競争する心こそ人間を強くし、国を強くするんだと。攻撃的で強い心をつくらないといけないと。「平等」なんてのは負け組の人が勝ち組に嫉妬してみんな同じにしようと言うんだと。攻撃的で強い心を育てるのが「心の東京革命」だと言っているわけですよね。だから北朝鮮に対してもいざとなったら戦争をしようと。だから戦争と差キ別というのは、さっきも言いましたように私は結びついていると思うんです。まあ社会主義がつぶれたということも相当影響していると思いますが、「平等」なんて理念はもうタテマエとしてもいらないんだと。多様性とか個性というのを差別の方に読み替えていくんですね。


 もう一つは、平和主義というような理想。それが冷笑される社会というのが思い浮かびます。もうすでに日本がそうなっているかもしれません。20世紀を通して繰り返し、とんでもない悲惨な戦争や虐殺があったので、国際社会は国連憲章をはじめとして、それ以後にも様々な「国際人権宣言」とか「世界人権宣言」とかいろんなものを人権保障として定めてきましたけれども、それをほとんど反故にして無視するようなアメリカのやり方というものが今世界を事実上、支配している。

 もしそれが通っていけば、本当に悲惨な歴史の中からかろうじて出てきた国際的な約束というものがもう一回チャラになってしまう。そういう危険があるのではないかと思っています。

 まあ、アメリカが自滅するのを待つというのもあるかもしれませんが、やっぱり弱い方はとにかくまとまっていかないと勝てないということなので、差別される方はネットワーク、大きくまとまるということを強調しているわけです。


 そんなふうに、一言で言えば、強者の論理がまかり通る社会。それを小泉氏も石原氏もブッシュ大統領もイメージしているのではないでしょうか。それが悪いことだと思っていないのではないでしょうか。それがイヤだとか悪いとかいう感覚がないのではないでしょうか。それくらい感覚的に違う感じがしますね。


 もうひとつ言っておくと、その場合に、ただ、かつての戦争みたいに一億玉砕とかそういったことは国民に要求されないだろうと。むしろ、テレビを見ながら、7時のNHKのニュースで、政府よりの報道だけれども、自衛隊がイラクでこんな立派なことをしていますと。さらに戦争になってもニュースでその日の自衛隊の戦果が報道される。みんな食事をしながらテレビニュースを見ながら、日本国民なんだからやっぱり自衛隊に頑張ってもらおうと、そういうふうに考える。そういう社会ですね、とりあえずは。


 湾岸戦争とか、イラク戦争とかみんな我々テレビで見てきたわけですから、おそらくその延長上に考えられていて、ですから徴兵制が直ちに来るわけではないだろうと言ったのはそういうことなんです。おそらくかつての戦争のような総力戦はもう今の社会ではできないし、それを為政者たちは必要としてはいないだろうと思います。

■最後にもう一言だけ…

 あの、ちょっと最後に一言よろしいですか。私の話って、どんな時代を生きているのかっていうので、現状認識を申し上げることが多いので、なんか皆さん暗澹たる気持ちにだけなって帰って行かれるかもしれないんです。


 最後に「茶色の朝」に関わって少しポジティブなメッセージを出したつもりなんですけれど、私はまだまだあきらめるのは早いと思うんですね。もっと言えば、これしきのことでつぶれたのではやっぱり恥ずかしいと思うんですよ。


 というのは、私たちの社会というのは、人々が力を合わせて、なにかこの非民主的な体制をひっくり返したとか、そういう経験がないんですよ。明治維新もそうではなかった。支配階級の武士がやったわけです。あそこでとんでもない軍国主義体制ができて1945年の敗戦までいくわけです。じゃあ、1945年の敗戦で「民主主義国になった」というわけですが、それはどこから来たのかと言えば、残念ながら日本国民がそれをやったわけではないわけですね。私たち憲法や教育基本法に共感を持つ人間は、それがすでに与えられていた中で戦後ずっときているわけです。


 だからもし今、ここでそれを改悪されていったん失ってしまったとしても、まずそれを守る闘いが市民の力で民主主義を勝ち取っていく闘いになるだろうし、それをいったん失ったとしても、そこから始まるぐらいのつもりでいかないとダメだと思うんです。


 たとえば韓国なんてのは、確かに日本が戦争に負けたから日本の植民地支配から解放されたんだけど、軍事政権がずっと続いていた。それを市民運動で民主化したわけでしょ。フィリピンだってマルコス政権とかいろんな軍事政権を倒しているんです。台湾も民主化した。中国だって、やっぱり大変な思いをしながら自分たちで国をつくった。


 というふうなことを考えると、私たちはまだそれをやったことがない。だから、今、基本法や憲法が改悪されようとしても、それを守る戦いの中で、それを獲得していく。いったん仮に失ったとしても、そこから始める。獲得する戦いが始まる。ぐらいに考えないとダメなんじゃないかなというふうに思っております。


 最後にそれをつけ加えて、私の話を終わりとします。

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