<日出生台演習場について>

■日出生台は、九州横断自動車道大分長崎線沿いに広がる日本でも有数の自然に恵まれた高原地帯。この中央部を東西15キロ、南北5
キロ、総面積は約4900ヘクタールの西日本最大の演習場。現在、日出生台演習場では、一年間に330日(うち実弾演習は230日)とほぼ年中無休で演習が行われている。


■かつて日出生台は、江戸時代から交通の要衝だった。現在の演習場の真ん中あたりを日田から別府、大分への道路が走り、今宿、車谷、中須などの宿場を参勤交代の大名たちが利用した。
 旧日本軍に接収された明治32年当時、演習場内に約百戸の農家と150ヘクタールの田畑があったが、すべて演習場の外に立ち退かされ、以降演習場が拡大する度に、二度三度と立ち退き、移転を繰り返し、やむなく生まれ故郷を去った人も多い。

■その後日出生台では、敗戦による旧日本軍の解体とともに、400戸もの開拓農民が入植を始めるなど、人々は「演習場はなくなるのでは」と喜んだ。しかし、昭和21年、米軍が日出生台を接収、開拓農民は半強制的に立ち退きとなった。
 米軍駐留時代は「悪夢の時代」だったという。「演習または発砲による、土地、家屋、穀物並びに家畜に損害が発生した場合に、占領軍はその責任を負わないことを明瞭に承知すべし」との米軍通達が、当時の状況を一言で示している。

■米軍駐留時代、日出生台演習場内には16000人の米兵と4000人の韓国兵、700人の売春婦が常駐したという。当時、米兵による女性に対する暴行事件が相次ぎ、人々は女性を疎開避難させ、一時は地域から女性が一人もいなくなるという事態にまでなった。当時の状況を克明に覚えている高齢者も多い。

■日米両政府は、1996年、米軍が沖縄のキャンプハンセンで行っていた県道104号線越え実弾砲撃演習を1997年度より本土5ヶ所(北海道矢臼別、宮城県王城寺原、静岡県東富士、山梨県北富士、大分県日出生台)に移転することを決定した。
 「沖縄の痛みの分散」を名目に実施された米軍演習の本土移転であったが、沖縄キャンプハンセンでは、県道を封鎖しての演習はなくなったものの、その他の演習が激化し、演習による山火事は以前より増えた。移転された本土各地での米軍演習も年々拡大強化されている。

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