ログキャビン・ボーイズの10年

 玖珠郡九重町は、九州最高峰九重連山の麓に広がる風光明媚な、大自然に囲まれた人口1万人あまりの小さな町である。この九重町の住民を中心にして結成されたログキャビン・ボーイズが結成10年を迎え、晴れて6月9日、町の文化ホールで4組のゲストバンドを招いて、10周年記念コンサートを行った。以下はその10年の歩みである。

やったぜ、10周年コンサート

 400席の九重町文化ホールをほぼ満席にして終わった約2時間の「ログキャビン・ボーイズ10周年コンサート」。幕が閉まった時、メンバー達の顔には、10年のバンド活動の成果としてのコンサートをやれたという、満足げな笑顔があった。自分達の実力も考えずに大それたことを企画したものだと、時には後悔しながらも、ここまでこぎつけ、終わってみれば聴衆の方々からの拍手、暖かい言葉、お祝いの品々。そして笑顔、握手。

 一生懸命取り組めば、何事もやり遂げられるいうことを、メンバー一同、実感したしだいである。そして、それは多くの人に支えられて、ここまでやってこられた結果でもあった。

それは、九重町のブルーグラス・コンサートで始まった。

 こんなバンドが10年も続くなどとは、誰一人思ってもいなかったというのが、メンバー達の本音である。元々は、バンジョー担当の麻生弘(44)が、玖珠、九重、両町内の有志達と、ブルーグラスのコンサートを企画した結果として、このログキャビン・ボーイズは生まれたのである。

 91年の5月にアメリカから、ニール・ローゼンバーグ率いる、レッドウッド・キャニオン・ランブラーズがやってきて、玖珠でコンサートが行われた。大分の老舗バンド、アーリタイムスも友情出演し、この時は、聴衆は約200人程で、まずは成功裡に終了した。

 コンサートが終わってしばらくした6月のとある夜、麻生宅に電話がかかった。麻生とは古い付き合いの亀田英介(49)からの電話であった。

「おう、麻生さん、今ね、ちょっとした人達と飲んでるんだけどね、この間のコンサート良かったねぇ。」

「そうですか、そりゃどうも。」

「いや、それでね、今ここにね、ギター弾く人と、マンドリンやりたいって人が来てるんだよ。いや、俺はねベースやるから、だからさあバンドやろうよ。ブルーグラスバンド。楽しそうじゃん、ブルーグラスって。」

驚きであった。『亀田氏は全く楽器とは縁のない人』というのが麻生の印象であったのだ。佐藤国寿(40)はギターを弾くとはいえ、バンド活動はやったことがない。マンドリンの長尾武彦(44)は亀田同様、全くの初心者である。麻生は大学のクラブでバンジョーを弾いてはいたが、本格的なバンド経験はなく、大学卒業後は押入の隅に楽器はしまいこまれていたのである。

 こうして、全くの初心者2人が、キャリアはあるが実力のない2人を引き込んで、バンドが結成された。

 まず、メンバーが集まり相談したのは、バンド名である。色々と変な名前や、訳の分からない名前もあがった。結局のところ亀田、長尾の二人が九重町飯田高原(九州の軽井沢とも言われている)でログハウスのペンションを経営していることから、バンド名もこのログハウスにちなんで付けることにした。ログキャビン・ボーイズの誕生である。

 次に練習もどうやったらよいのか、さっぱりとわからなかったが、お世話になったのが、アーリータイムスとサウスバウンドの大分のバンドの面々である。練習の方法や、楽器の弾き方など、随分と教えていただいたものである。

 福岡の多くのバンドにも声をかけ、楽器の講習会をしてもらったり、合宿を兼ねた演奏会を企画したりもした。当時、色々とアドバイスをいただいたりして、大いに刺激を与えてもらったのが、中島ファミリーバンドの生みの親で、父親の中島守利氏である。

 合宿時、緊張してステージに立つ我々を見るに見かねた中島氏から、

「ちょっと待った!演奏やめんしゃい。なんであんたたちゃ、マイクからそげん離るっとね。それじゃ全然聞こえんやろうが。もちっとマイクに近寄らんな。」

とお叱りを受けた。自信のなさがそのままステージの態度に出ていたのである。今でもあの時の中島氏の厳しくも優しい眼差しは忘れられない。

 最初に練習した曲は、「陽のあたる道」、「さよならが言えない」などのナターシャーセブンの曲であるが、今もその路線は変わらず、我々のバンドは日本語を主体にした、暖かい雰囲気の出せるバンドを目指している。

 初めて、一般の聴衆の前に立ったのは、記憶も定かではないが、おそらく92年のカナディアンビレッジ・オータムフェスであったと思う。カナディアン・ビレッジは、長尾の経営するペンションで、中庭で数バンドの演奏が行われたが、この時は緊張でガチガチになり、いったい何を演奏したのかさっぱりと覚えていない。

 腕の上達の前に楽器がグレードアップするのはバンドの定説であろうか?ご多分にもれず、麻生はギブソンRB-4を、佐藤がきっちりとマーチンD28を購入して、楽器だけは一流バンドの仲間入りをしたのもこの頃である。

飯田高原ブルーグラス・フェス

 こうして、なんとかバンドの形にはなったが、レパートリーはさっぱりと増えず、腕も上がらず、だらだらとした練習の日々にマンネリ化を感じ始めた頃であった。

 太宰府フェスが2年前に幕を閉じ、阿蘇フェスは中止になった95年。その年の冬に大分の3バンド「アーリータイムス」「サウスバウンド」そして我が「ログキャビン・ボーイズ」が集まって、それなら飯田高原でフェスをやろうと準備を始めたのである。何もかも手探りで始めた飯田高原フェスであった。しかし開催中の楽しさはもちろんのこと、終わってみれば、仲間内で集まって企画、実行することのその楽しさに取り付かれて、いつの間にか今年で7回目を迎える。

 飯田高原フェスも駐車場の問題などもあって、2回目からは会場を亀田の経営するペンション「風の丘」に移して現在に至っている。そして、97年からは3月に屋内での春フェスを大分市のライブハウスで開催し続けている。

 フェスのおかげで、新たなメンバーが加わったのは、収穫であった。佐藤の職場の後輩、平林尚美(20代です)は初めは観客として、フェスにやってきたのだが、フィドルの音に魅力を感じ、佐藤にフィドルを始めることを宣言。96年から正式メンバーとして加わることとなった。阿部征則(38)は、麻生と同じ地区で二人とも祇園祭の実行メンバーであり、佐藤とは児童サークルの仲間同士であった。ギターを弾いてフォークソングを歌ったりしていたのだが、麻生や佐藤のプッシュもあって、ドブロを始めることを決意して、メンバーとして加わった。阿部と平林の参加でバンドもフル編成となった。特に阿部の参加で歌とコーラスに厚みが増したのは収穫であった。とはいえ、リズム感と音感の悪いバンドなのは相変わらず、そのままである。

アーリータイムス25周年がきっかけ

 メンバーが6人になってからは、キャンプ場、結婚式、イベント会場など図々しくあちこちで演奏をさせていただいた。佐藤の職場の後輩の結婚式で、食事に温泉が付いて、これがギャラの代わりかと思ったら、多額の金一封をいただいて甚だ恐縮したこともあった。

 99年の年末に、「アーリータイムス」の25周年コンサートがあり、この時、我がバンドも演奏をさせてもらった。このコンサート後の練習の際に2001年の6月が10年目になるので、我々も記念コンサートでもやるかと冗談混じりで話が出たのが、今回の10周年コンサートの企画の始まりだった。初めは軽く冗談、そのうち少し本気、そうこうするうちに本当にやろうということになってしまった。しかし、佐藤、平林の二人は転勤族であり、この頃には既に大分市に住んでいて、全員揃っての練習も滞りがちになっていたし、本気でやるのなら会場、観客集め、企画はどうするか、などなど山ほどの課題が目の前にあった。

 1年以上の期間はあったが、何度も挫折しかけたし、一時はバンドに解散の危機が訪れたこともあった。何とかそれも乗り越えて、2001年の春になってから、本格的に10周年コンサートを開催することを決め、バンドの練習日も、月1〜2回ペースだったのを、週1回ペースの練習を大分市と九重町で交互にやるようにし、コンサートに本気で備えるようにしたのである。

 会場とゲスト出演バンドも決定。しかし動きは鈍かった。本格的に動き始めたのは5月の連休が明けてからで、それからは危機感もあって、メンバー一同必死でチケットを売りまくったのである。

 練習の度に、チケットの売れ行きを集計したり、相談事で練習にならない日もあったりで、練習不足なのが本当に心配になった。1週間前ともなると、チケットは結構売れたようだし、もうここまできたら楽しんでやろうと一同開き直って、それがかえって充実した練習に繋がったのは面白い現象であった。

ついに2001年6月9日

 ついに6月9日がやってきた。午後1時から会場の「九重文化ホール」にバンドメンバーが集まり準備開始。2時半からリハーサル。4時近くになって、次々とゲストバンドの面々が集まってくる。5時になって、おにぎりとたこ焼きにビールで軽く食事をして、いよいよ出番を待つ頃には、緊張もピークに達していた。開場の6時半、客席はまだ半分も埋まっていない。6時55分になっても、まだまだ人がやってきていたのだが、スケジュールは目一杯である、時間を下げるわけにもいかず、7時開演。

 蓋をあけてみれば、ぼちぼちと集まった人達で400席のホールはほぼ満員。大盛況であった。

 しかしめちゃくちゃに上がってしまい、歌はがたがたで、おまけにギターの佐藤が「わらぶきの屋根」の途中で感極まって泣き出してしまった。彼は大分市に最近、家を建てたのだが、故郷飯田高原の実家には今、母親が一人で住んでいて、その実家での昔を思い出したのか、バンドのこれまでことに感極まるものがあったのか、それは佐藤自身の心の中のこと、私にはとてもその涙の理由を聞くことは出来なかった。でもまあ、我々にしては、そこそこの演奏が出来たのではないかと思っている。ゲストバンドの助けもあって、良いコンサートが出来たのではないだろうか。観客のみなさんにも楽しんでもらえたと思う。

 打ち上げは「風の丘」で、演奏付きで大騒ぎ。筆者の麻生が寝たのは午前4時過ぎだったのだが、他の人達の多くはまだ起きていて、いったい何時に寝たのやら・・・。

 ということで、今回、とても良い経験をさせてもらったと思う。ここまでこられたのもブルーグラスという音楽によって、多くの人達と繋がりが出来たことの結果である。せっかく築かせていただいた人間関係、大事にしていきたいものである。

 そして、各バンドメンバー、本当に心から感謝しなければならないのは家族に対してではないだろうか。時には貴重な家族サービスの時間を犠牲にしたり、高価な楽器を購入することなど、家族の理解なくしては決して出来ることではない。

 次に目指すのは、20周年コンサートである。それまで、メンバー一同、仲良く、健康に生きていきたいものである。

 我々をここまで支えていただいた方々、どうぞこれからも暖かく見守ってください。どうか、よろしくお願いします。


ログキャビン・ボーイズ10周年コンサート、タイムスケジュール

19:00〜19:30 ログキャビン・ボーイズ(1部)

19:30〜19:50 モンローズ・ドーターズ大分

19:50〜20:10 サウスバウンド

20:10〜20:30 アーリータイムス

20:30〜20:50 ハッチャリーズ(久留米からのゲスト)

20:50〜21:10 ログキャビン・ボーイズ(2部)

21:10〜21:20 フィナーレ(ジャム)


10周年コンサート演奏曲

(1部)

Foggy Mt. Breakdown

陽のあたる道

Salty Dog Blues

Home Sweet Home

十字架に帰ろう

柳の木の下に

I'm Thinking Tonight Of Blue Eyes

Red River Valley

(2部)

高い山に登って

Grand Father's Clock

わらぶきの屋根

Your Love Is Like A Flower



ブルーグラスのトップページに戻る

ASOCHANのホームページの表紙に戻る