父方の祖父、母方の祖父も事業家で、私の父も新規事業を立ち上げては失敗する『起業家魂』を持った人でした。私は父の失敗を見るにつけ、毎月決まった給料を貰う地道なサラリーマン生活に強い憧れを抱いていました。 『新規事業は失敗するもの』だという刷り込みが子供の頃から身についており、『失敗は成功のもと』という諺は私にとって『成功は失敗のもと』という教訓に置き換わっていました。 私の夢はエンジニアとしての会社勤めで、父親の失敗に対し、リベンジしてやろうと言う気持など全くなかったです。 パソコンも登場していない時代に、将来はコンピュータの時代が来ると確信し、高校を卒業後、当時としては珍しいコンピュータの専門学校に進みました。 就職は、自分にとって敷居の高いエリート集団IBMに“ダメでもと”で受けたところ、意外にも合格しました。 入社当時の1970年初頭は“モーレツ社員”と言う流行語もあった時代。入社してからは猛烈に働きました。休日もほとんど休まず、朝から深夜まで働きました。若いから体力もあり、何よりも仕事を愛し、楽しんでいました。給料も良く、やりがいも感じ、意欲に燃えていました。 しかし、入社5年目に父が病いに倒れ、経営していた会社の倒産。その頃から頻繁に、母からの電話で『泣き言』を聞くようになり、このまま放っておくこともできず、私は泣く泣く会社を退職し、郷里へと帰りました。 何も就職先も決まっていない状態ではありましたが、もともとキーパンチャーをしていた妻と二人でソフト開発の仕事でもしようかなと、漠然と考えておりましたが、その頃の仙台には市場がありませんでした。 いろいろ考えた結果、喫茶店でもはじめよう、それも仙台にはないコーヒー専門店を、私も妻も休まないで働くことには慣れていたので、朝7時から深夜3時まで営業しました。 憩い、語らいの場であり、待ち合わせの場所であったりで、当時は喫茶店を利用する人も多く、友達感覚の接客も受けて、店は盛況でした。 開業翌年の77年には女性をターゲットにしたカフェをオープンし、これも大成功させ、さらに翌年、勢いがついたというか、調子に乗ったというか、“好事、魔多し”と言うか、3号店目を出店、これには初期投資7000万円をかけ、従業員も雇いました。従って固定費もかなりかかります。開店当初から1カ月150万円の赤字が出るようになり、他店の利益をそそぎ込んでも足りずに、目先を変え業態変換も試みてみましたが、借金は減るどころか、増える一方。ついに借金が1億3000万円に達し、店を閉店しました。回すお金がなくて、一気に資金繰りが悪化。このときの心境は『にっちもさっちも行かない』とはこのことを言うのでしょうね。精神的にもかなり追い込まれ、ひとつだけの選択肢しか考えなくなりました。それは、『自分が死ねば、2億円の生命保険が入る。そのお金で、命と引き替えに精算しよう』でした。 仙台新港に車ごと突っ込むことを企て、自動車で死のダイブに向かったところ、何気なくポケットに手を突っ込むと500円が残っており、これから死ぬ 人間にお金は不要。死のダイブ直前に500円を使い切ってしまおう。そう思い、目に入ったパチンコ店に、そこでいきなりの大当たり、あれよあれよという間に箱が積み上がり、結局5万円も儲かったのです。 金がなく、死を覚悟した人間にとってこの5万円は、目先の金儲けばかり考えていた自分に神様の戒めか、いたずらか、そう思ったら、ずいぶんと気が楽になり、死ぬ ことは思いとどまりました。 それから1週間後、閉店した店の新しい借り手が見つかり3000万円の保証金が戻ってきて、当座の苦境から逃れられるようになりました。『 私はまだ生かされている。まだやるべき事がある』。その頃からは人生を俯瞰して見るというか、運命に逆らわず、結果 を求めず、今を頑張るというスタンスをとるようになりました。 それからというものは、じっくりと腰を据え、綿密な市場調査もし、86年に仙台にアイスクリームの『ストロベリーコーンズ』1号店をオープンさせました。喫茶店を経営していた時から着目していた。米国式のフードチェーンビジネスです。すべての既存店を整理し、社名も変え、滑り出しは順調、ブームにもなりました。しかしブームと言うのはいずれ去るということも知っています。 そのあとに続く事業として、既に東京では外資のチェーンが入ってはいましたが、成長のためのアイデアを持って“宅配ピザ”をやりました。これは滑り出し順調と言うわけには行きませんでいたが、勝算はありました。仙台で“宅配ピザ”を認知させるのにいろんなアイデアを絞り、かなり時間がかかりました。 成長のためのアイデアとは顧客管理や経営管理、従業員管理にコンピュータの導入です。それも、他の業界でも使っている汎用システムではなく、素人でも使いこなせるストロベリーコーンズ専用のシステムの自ら開発です。この情報システムを武器に、FC展開を押し進め、92年には激戦地、東京の白金に乗り込み。 白金店は、並みいる強豪と互角に戦い、成功を納めました。これで全国展開への自信を持つことができ、思えば、FC第 1号の宮城県の塩釜店が87年11月開業。そして 200店舗目が01年12月のオープンですから、まる14年かかりましたが、急激な成長が資金ショートの原因になることも身を以て知っています。そして、目先の儲けばかりを気にする方には加盟をお断りしてきたこともあり、時間はかかりましたが、『商売は牛の涎』が身に染みて、足場を固めつつ、前進した結果 です。 『成功は失敗のもと』という刷り込まれた教訓からか、それとも不遇な時代にコツコツ努力、学習する習慣が身に付いているためなのか、私は、事業が順調な時ほど不安で落ち着かなくなり、逆に業績の悪いときほど、乗り越えるためのいろんな学習の機会を与えてもらえるので、生き生きとしてきます。 この15年間に、私の会社はレストラン事業にも進出しました。2003年4月に はいちごホールディングスと商号変更し、最近ではサザンネットという情報システム構築を請け負うシステム開発会社も立ち上げました。 これからも、足場をしっかり固めながらの確実な一歩一歩の前進です。
自分自身の身の処し方を模索しながら生きている人の多い時代だとは思いますが、私は不況のあおりをもろに食らう建設業界の一社員でした。 事業をはじめたきっかけは、建設会社の一社員として、百貨店の地下食品売り場の企画に加わり、売り場に訪れる売り手と、それを迎える百貨店側の買い手の商談に間近に接する機会が多くなりました。そこに旧態依然とした外部の人間でしか気づかない古い商習慣の効率の悪さを感じました。業界の中で先輩から受け継いできた方法は時代と共に改善されることもなく、非効率の中に埋没して、気づかないでいる商習慣は多いと思われます。 そこで、「私ならこうする。」と言うアイデアが沸いてきました。 このビジネスの出発点は、知り合いになった大手百貨店の幹部の人から、全国各地で物産展を開催するために、バイヤーがいかに商談に苦労しているかを聞かされ、そこにビジネスチャンスがあることを確信しました。 バイヤーの元に訪れるすごい数の生産者や食品メーカー、その対応に時間がとられ忙しい中でも、百貨店のバイヤーたちは売れる食材を必死になって探しています。しかし、バイヤーたちに話を聞くと「買い手としては緊急に必要なものもあれば、将来必要だけどいまは要らないものもある。買い付けのタイミングが実にむずかしい」とみんな悩んでいる。その一方で、地方には隠れた名品があるのに販売ルートがない会社もある。 この矛盾をなんとか、解決できないものかといろいろ考え始めたのが、起業のきっかけです。 売り手と買い手に場所を提供したり、カタログ制作をすればコストがかかり過ぎます。インターネットならコストも低く抑えることができ、一度に全国の買い手が商品を見ることができ、売り手は時間の制約もなく好きなときに自社商品をアピールできます。 97年に事業プランを作成。98年に会社を設立し、食材関連の生産者や食品メーカーなど売り手企業と百貨店や外食企業など買い手企業をネット上で結び、効率のいい商談が出来るお見合いの場を創りました。 アイデア商売はスピードが命です。短期間の内に利用者を広げ、ノウハウを蓄積し、追随を許さぬ 確固とした地位を築き上げる必要があります。いまでは大手企業が相次いで出資するなど大きな注目を集めるまでになりました。 スピードと低コストを謳い文句に、売り手と、買い手としてサイトに出店する会員企業様はいまでは8,160社を超え、取扱商品は現在6,663アイテムに達しています。その中に従業員数4人の食品卸会社様が月商2億5千万円の新規取引を稼ぎ出す参加企業様も出てきて、話題になっております。年間の参加料は売り手企業が年間30万円。買い手企業が年間 6万円です。大手の資本参加を仰ぎ、市場規模は現在月間の受発注金額90億円です。