柴田さんの大分100山全山完登を讃える 
                      挾間 渉

 昨年(1987年)の9月5日、福岡在住の柴田ツネ子さんが、大分100山の全山登頂を果たした。100山めの山は県南宇目町の天神原山(995m)であった。夫の芳夫さんのほか、我々おゆぴにすとがしっかり見届け役を果たした。この柴田さんの快挙は少し遅れて大分合同新聞とアドバンス大分など地元紙に報道された。

      

      
             100山めは天神原山

 後日知ったことであるが、県内の山ヤの幾人かの人は、その時、既に(100山完登まで)あと数山を残すだけであったという。彼らが地団駄踏んで悔しがったであろうことが、伺い知れる。そして、このような快挙に対してしばしば向けられがちな、妬みともとれる「どんな人だろうか」「本当に登ったのだろうか」「誰も見ている訳ではないから・・・」などのささやきが秘かに、我々の耳にも入ってきたことは事実である。

 〈登山はフェアーなスポーツであり、これに関わる山ヤはフェアーな人種である〉・・・・この前提がないとどんな果敢な初登攀や初登頂も成立し得ない。山ヤ同志の信頼関係の上に立って、記録は承認されるわけである。地元大分の山ヤが殆ど知らない県外の婦人から「大分100山全山完登の最初の人は私です。」と言われても、半信半疑なのは当然という気もする。

 そこで、この快挙を公認のものとするために、さらに健闘を讃える意味もあって、山のいで湯愛好会会員(加藤、太田、高瀬、栗秋それに私)や会友(中島氏)それにアドバンス大分の三浦編集長と小野カメラマンらが県南宇目町の民宿「梅路園」に柴田夫妻を招待し、宿の主人とおかみさんまで加わってこの快挙を祝福した。そして翌日同行してともに100山めの山・天神原山に登り大分100山完登を認知したわけである。柴田さんの完登を讃える前に、私を除き柴田さんには一面識もない他の会員や会友が趣向を懲らした演出と気配りにより祝福の集いを盛り上げていただいたことに、まずもって感謝したい。そしてあらためて柴田さんの完登を讃えたいと思う。

       
          100山めの天神原山登頂の前夜、一足早い祝杯

       
           柴田芳夫氏から秘蔵の写真を見せていただく

       
        山のいで湯愛好会手作りの認定証を受け取り思わず笑みが

 大分合同新聞に掲載された記事は(実は筆者が、合同新聞の梅木氏に依頼されて取材し、氏が加筆訂正したもの)100山を目指す県内の山ヤの皆さんが十分納得してくれるように取材をし、大体希望のとおりの文章にしていただいた。

 柴田ツネ子さんについては、過去に何度か紹介したこともあるが(おゆぴにすと第3号参照)、改めて紹介すると、福岡県において歴史と伝統を誇る福岡山の会(脇坂順一会長)に夫の芳夫氏とともに属し(筆者脚註参照)、広く国内外で登山活動をしており、最近では日本100名山も、残すところあと数山になっているようである。単にピークを数えるだけでなく、山に付随したいろんな楽しみ方を会得されているようで、我らおゆぴにすとには抵抗無く受け入れられる由縁である。

 初めて柴田さんにお会いしたのは、国東半島の薮山であり、その後(後日分かったことであるが)耶馬渓の樋桶山でも同じ日の同時刻頃に入山しているが、この時は出会わずじまいであった。いずれも、彼女は単独行であった。柴田さんの大分100山行は、殆どの場合、汽車→バス→徒歩の繰り返しであり、また殆どが単独行である。マイカーで大挙して行けるところまで行くという登り方とはわけが違っている。

 私は大分登高会時代に山ヤにとって記録がいかに大事かを教えられた。雑な性格ではあるが、それ以来ささいな山行でも努めて記録を取るようにしている。だからどんな登山記録があるのかということはもちろんであるが、自分の山をどのような形に残してきているのかを、山ヤを評価するときの判断材料にしている。行動記録、観察した植物、史蹟、土地の人との触れ合い etc などを中心にこまめに記された柴田さんの大学ノートを見せられたときは、山を思う気持ちの息の長さに大いに敬服した次第である。

 柴田さんはその後宮崎方面に足繁く通い始めたということで宮崎100山が彼女の手に落ちるのは時間の問題だろう。

 さて、我々おゆぴにすとであるが、還暦の柴田夫妻とは約20年の年の差があるわけで、足元の我が郷土の山々を《静観》しながらも、夢は大きく、心はいつもヒマラヤの鋭峰に飛んでいたいものである。せめていつでも有事の際にスクランブル発進できるように、肉体を錬磨しながら・・・・。そして大分100山も2,30年先にふと振り返ってみて、それから考えても決して遅くはないと思う。大分100山はあくまでもさり気なく終えたいものである。

 何はともあれ、柴田さんの今後の山登りが息災である事を、会員一同ともに願おうではないか。(1988年6月1日稿) 

筆者註:福岡山の会に所属しているのは夫の芳夫氏であり、大分合同新聞にも同会の会員として紹介した柴田ツネ子さんは、実は同会の会員ではない。これは筆者の一方的な思い違いであり、彼女にとってはこのことはその後随分負担になったようだ。あらためてお詫びするとともに訂正したい。(2002.12.25)              

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