静から動−エベレストまでの道(1)
                     大平 展義

 
            
1975年当時のネパールのトレッキング許可証

 1975 年10 月、私はダージリンの丘にいた。当時ではまだ珍しい、インド、ネパールに新婚旅行に出かけ、ポカラ周辺のトレッキングを終え、帰路立ち寄った。抜けるような空の下、限りなく続く茶畑の先、数日前までいた遙か彼方のヒマラヤ山脈を眺めていた。

 その中で朝日を浴び白くかがやき、一際目立つ頂が目に留まった時、あれが世界の頂点‘エベレスト’と認識するのに何の躊躇もなかった。それは、大空の女神と称される如く「何人たりとも容易く寄せ付けないわよ」と言わんばかり、威風堂々の風格を漂わせていた。その前日、当地に住むエベレスト初登頂で知られるテンジン・ノルゲイ氏宅を表敬訪問し、御夫妻より歓迎を受け、当時の登頂の様子や、対談する前日まで地元テレビ局取材でエベレスト上空をヘリコプターで飛んだ話など聞かされた。あの頂はどうなっているのだろう? そうだ、俺は、いつかそれを見に行こう。その時思ったのである。そして側には妻がいた。

 それから、崑崙山脈、ナンガ・パルバットの遠征に参加し、かなりの歳月が経過するに至り、トレーニングで始めたランニングが、山への思いよりウエイトを置き始めた頃に、エベレストの話が舞い込んできた。エベレストは若い頃からの夢。男子一生の夢ではないか。俺はランナーではない、アルピニストだ。準備はできていた。白きたおやかな峰々を間近に仰ぎ、鮮明に脳裡に焼きつけられトラウマとなり、憧れのヒマラヤは見るだけから、次は登ろうと、過熱していった。




 
   崑崙登山隊・鑑真丸の船上にて         ナンガ・パルバット登山隊・ギルギットからBCへ向かう

 結婚と同時に友人が経営する会社の手伝いを辞め、何時でも山へ、ヒマラヤへ行けるよう、自分の会社を設立した。しかしながら、設立すれば多種多難、半年持てば…1年持てば…2 年3 年となり、何時しか バブル時代、土建業の必修科目であるゴルフに建設業の端くれ経営者は没頭してしまった。気がつけば、オフィシャルハンディ5 にまでなってしまっていたのであった。

 伝統校の宿命らしく、先輩方の耳に入るところとなり「大平、何時までそんなものに狂っている。君は岳人であろう」と、大怒りを受け諭される。その頃より自身も、これでは会社の存続も危ぶまれると危機を悟っていた。その時、崑崙山脈最高峰の遠征の情報が入った。よくもこんな、中国奥地の山を探し、登山許可を取り付けたものだった。農大のタフさと獰猛さを感じた。

 登山隊に付属して、未だ解放してないタクラマカン砂漠を始め、中国最深部を私用車で自由に走りまわれる許可だった。当然支援隊に参加、神戸港から上海へ、大陸鉄道で3泊掛け5000km、烏魯木斉まで行く。早坂隊長の「80 度になる灼熱です。くれぐれもシシカバブにはならないように」との見送りを受け、総隊長の織内さんらと、NHK TVのシルクロードを食い入るように見入った海抜−150 mトルファン盆地に入り、コルラ、アクス、カシュガルと走破し、大陸の雄大さを感じる。隊は、難なく初登を成し遂げ成功に湧いた。

 それから3年1989 年、初の8000 m峰、魔の山と称されるナンガ・パルバットの農大単独の遠征が決まった。声もかかり、アピールもした。久々、農大の精鋭15 名が集まった。その1人に、函館の極楽とんぼ、桜井さんもいた。氏は高校の教壇に立つ熱血教諭であり、傍ら北海道の高校登山界の発展に努めた。北海道、九州と遠く離れた地から、ナンガに行こうと堅い約束をし、準備に掛かるも、伴侶の協力が得られない。函館と大分の2匹の極楽とんぼが口説く文句は同じであった。「男のロマンだ、最後のチャンスなのだ、タノム行かせてくれ!」であるが、なかなか受け入れられず、渋々同意を取り付けたのが、出発の2 ヶ月前だった。ヒマラヤ遠征は目指す山よりその前に、もっと厳しいヤマがあると認識する。2人は成田空港で合流し、先発隊の待つラワルピンディへ急ぐ。難攻不落の山も、準備周到、隊員一丸となり順調に進み、BC 設営まで先発隊が日本を離れてわずか9 日の早さだった。全てがスムーズに行くと思われたが、C3 への荷上げ中、ヒマラヤでは異例の落雷を受け、馬場君を失ってしまった。BC にて荼毘、仮葬儀を済ませ、隊を立て直し再度挑戦したのだが、登攀中の滑落で1 人が負傷。ヘリコプターで搬送、ここで登山を断念することになる。

 
        ナンガ・パルバットBC                桜井さんと九重山

 ナンガ・パルバットから帰った2頭の極楽とんぼは、重い山道具を背負い、北海道、九州の山を歩いた。テントの中で酒を飲み、次はエベレストだな。いい酒の肴になった。そして北の大地と南の草原で、壮絶なトレーニングが始まる。連日15km を走り込み、休日にはいずれかで開かれているマラソン大会に参加。年間4 本のフルマラソン、2 本のウルトラ100`マラソンに出場した。特に過酷で自分でもナンセンスと思いながらも行ったトレーニングがある。朝食は普段通りとる。午後に重要な会議、商談がなければその日の昼食を抜く。夕食の前空腹感も限界に達し、エネルギーも枯渇にして2 時間走る。また別に休日は早朝より、ウエストバックを巻きつけ、真夏の炎天下自宅から40〜50km先の海や山麓の往復を15 時間かけて走る。南国九州、午後には気温が40 度近くまで達する。かなりのハードである。それらをやってきたのは、エベレストのアタックは20 時間要す、ある文献で読んだ。生き抜くためにはそれ以上の体力が必要であろう。(つづく

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