Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第1回)
          
                       吉賀信市
  
   

1.プロローグ

『アンデスからヒマラヤへ』と言う題名の本を昔読んだことがある。それに倣う訳でもないが若い時、体力があるうちに一度はヒマラヤに行きたい、行ってみたいと思っていた。

ヒマラヤの山ならばどこでも良いのではなく、目標と言うか希望はジャヌーであった。

自分の登山技術や力量がジャヌーに行けるほどのものが有るか否かは別にして出来るならばジャヌーに登りたいと思っていた。

なぜジャヌーに憧れるようになったか。

ジャヌーはイギリス統治時代から避暑地として栄えていたダージリンからも遠望することができ高さこそ8000mに満たないが、その特異な山姿は“怪峰”“眠れる獅子”と形容され、古くから有名であった。

ジャヌーはご周知のように、フランスが国の面子にかけて1959年、1962年の2回に渡りクライマーの精鋭を投入してやっと登頂した山である。

メンバーはリオネル・テレイ、ルネ・デメゾン等々、ヨーロッパ・アルプス等で名を馳せた凄い連中。彼らの名前はジャヌーの遠征記以外の書物でもよく知られたスゴイ人たちであり憧れのようなものを抱いていた。

ジャヌーの遠征記を読んだ時、頂上直下の急峻な稜線を馬乗りになって進むクライマーの写真を見て興奮した。また、1899年にイタリアの写真家V・セッラがチュンゼルマ峠から撮影したモノクロームの妖気を漂わせる姿には、まさに“怪奇の峰”のような凄みと恐怖を覚えたものである。

さらに、写真家藤田弘基氏の南西面から撮った残照を受けて紅色に染まり天空に浮かぶジャヌーの姿を見た時、改めてこれは凄い、すばらしい、ミィーハー的な言い方をすれば「うわぁーカッコイイ!」であった。

ヒマラヤに行ったこともなくヒマラヤについての知識はほとんどなかったが、ヒマラヤに星の数ほどある山の中で最もすばらしい山だと思い、自分もあの舞台に立ちたいと言う夢を抱いてしまった。

広い岩肩の上に怪物の頭のような頂上が空に突き立ち、肩の両側から南稜、南西稜が氷河に落ち込み、南西稜はヤマタリ氷河の本流に直接達している。また、王座氷河からは断崖のアイス・フォールとなってヤマタリ氷河に落ち込んでいる。尾根と氷河が複雑に入り組んだ下部の地形、その上部に怪物の頭を思わせる頂稜。正に絵になる山姿である。

ヒリシャンカ南東壁を終えて数年後、露草登高会の春の鹿島槍合宿に参加のため上京し、篠原宅の集まりでヒマラヤの話題となった。篠原はローツェ(8511m)南面に興味を持って研究をしていたが、私は「行くならばジャヌーだ。出来れば未踏のルートに行ってみたい」と希望的な気持ちを酒の勢いで力説した。

その後、篠原を中心に本格的にジャヌーを研究してルートは未踏の西稜と決定した。

登山期間は3ヶ月(1981820日〜1120日)とし197911月に東京都岳連に申請書を提出した。

当初、隊員:5人、ドクター:1人、リエゾン・オフィサー:1人の陣容であったが、仕事の都合で2人欠けてクライマー3人となった。私は、ヒリシャンカの時と同じ様にジャヌーに行けるのならば迷うことなく会社を辞めると決めていた。

東京から遠く離れた大分にいて思ったのは、篠原は間違いなくジャヌーの許可は取れると言っていたが大丈夫だろうか。我々の計画を東京都岳連や日本山岳協会が推薦してくれるのだろうか。またネパール政府から許可が出るのか等々つまらない心配であった。

198011月、篠原より許可が取れたとの連絡が入り、念願の山‘ジャヌー’に行く夢が実現することになった。ジャヌーに行けるのであれば会社を辞めると決めていたので迷惑をかけないように早めに辞表を提出した。会社は好意により休職(3ヶ月半)扱いで休むことを許可してくれることになった。

国内及びカトマンドゥでの諸準備を終えて、ダランバザールからキャラバンを開始して20日間を要してヤマタリ氷河4800mのモレーン上にベースキャンプを設営することができた。

計画通り西稜への偵察、ルート工作を始めたが、シェルパは6500mまでは荷上げをすることを約束して雇用したのに西稜へのアイス・フォール帯に入ることを「氷河の状態が悪い危険だ」と拒否した。(後で思えば彼らが拒んだのはもっともだと思う)それならば、お前たちは使用しないと通告して、3人でルート工作を続行したが青氷による断崖のような氷の滝が連続しており、まともな登高ルートは見出せず仮にアイス・フォール帯を突破しても荷上げが困難であり、また立ち並ぶ不安定なセラックが崩壊する危険も大きく、西稜ルートの放棄を決めた。と同時に、リエゾン・オフィサーに南稜(フランスルート)への変更を申請し許可を得た。

気持ちを切り替えてフランスルートを検討し1張りの天幕を使用してのカプセルスタイルで登攀することにする。最終キャンプまでの移動キャンプはC3かC4を予定し、3〜4日でキャンプを移動する日程とした。早速、C1へ向けての行動を開始する。

その時、リエゾンを通じてシェルパから荷上げに協力したいとの申し出がある。今までの経緯もあるので「要らない」と一瞬思ったがC1までは手伝ってもらうことにする。

C2〜C3の間に一部厳しい箇所があったが、ほぼ予定通りC3(6200m)に到達する。

最終キャンプをC4まで伸ばす事も考えたが6500mまでルート工作と荷上げ後、C3から3ビバークで帰って来ることができると判断しラッシュ攻撃をかけた。

しかし、サミッターになるためには、登頂後7500m付近で3回目のビバークを覚悟しなければならない状況となった。強風の中そのような高所でビバークをする余力はもう残ってない。と判断し力及ばず7400m地点で断念した。

登頂できず失敗してキャラバンを終えカトマンドゥに夜遅く帰ったのに、次の朝早くエリザベス・ホーリー女史(タイムスの記者)がやって来た。登山活動の概要、経過のインタビューを受けた後、最後に彼女が言った。「シェルパの助けを借りずに3人でジャヌーの7400mまで登り事故もなく怪我もなかった。Goodだ。」と慰めの言葉を頂戴した。

1981年秋のシーズンは各国から43隊がそれぞれ目標の山に挑戦したが成功したのは15隊であった。(つづく

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