残雪と生命の息吹を感じる別天地    
                               −飯 豊 連 峰主稜縦走−
   狭間 渉

 書くには書いたが結局誰にも見せることのなかった、単独行による飯豊(いいで)連峰主稜の縦走を目的とした登山計画書には、「暑い夏の陽射しが戻ってくるとともに、未だ見ぬ久恋の山‘飯豊’の残雪が、今を盛りと短い春を謳歌する高山植物が、私をいざなう。じっとしてはおれない。もうそんなに若くはないとは思いつつも、厳しい登り方には今なおこだわりは捨てきれない。『飯豊はとてつもない大きな山である。日本でいちばん大きな山であるかもしれない。巨像と言っても、巨鯨と言っても、形容にならない大きさである。』(今西錦司)・・・・このでかい山の主稜をわずか3日間では、いかにももったいないが、「梅雨明け10日」の晴天の日、北から南に、一陣の風のように駆け抜けてみたい」と書き記した。

 7月21日 14:30新潟駅に到着。近くのスーパーで肉、野菜、卵など3日分の食糧を仕入れ、慌ただしく15:38発村上行き電車に飛び乗る。この間約1時間。飛び乗ったと同時にすべての迷いや雑念、すなわち単独行の山行きで我が家を後にする前に必ず経験する重苦しさ、・・・を捨て去り、既に頭の中はこれからの未体験ゾーンへの期待と不安で占められる。

 今年の上越地方は、7月下旬に入ったというのに、梅雨前線は九州南方海上に停滞している有り様で、このままでは冷害の危険にさらされるとの危機感がしだいに募り、新潟県農政部がいもち病防除など冷害対策に慌ただしさを増し始めており、皮肉なことに‘梅雨明け10日’の晴天を期待した私にとっては、まったく逆の意味で結果的には期待した晴天にあずかれそうである。

 いっそのこと前線が北上しなければいい・・・いや、そうなれば北日本は冷害、九州はいもち病大発生・・・そんなとき、のうのうと山登りなんぞに・・・などといろいろ巡らしているうちにJR中条駅に到着。ここからバスにて胎内スキー場、さらにタクシーを乗り継いで今夜のねぐら胎内ヒュッテに入る。ここは磐梯朝日国立公園胎内ヒュッテ管理者黒川村長との看板が掲げられている。小屋番のおじさん一人。聞くところによると本日の登山者ゼロとのことで「九州からなら、この夏一番乗りだよ」とのこと。早速、夕食の準備に入る。今日のメニューは牛肉野菜炒め、サラダ、白米(α米ではないぞ)それにビール。一昨年の南アルプス縦走の反省から、今回は生野菜、果物、ドレッシングにまで気を使った。小屋番のおじさんの訛りにもしだいに慣れ、夕食後は管理部屋で、飯豊の山のこと、熊のこと、出稼ぎのこと、飯豊の開拓者藤島玄翁に同行して山に入った時のこと、などの話題に花が咲き9時過ぎ就寝。

  

 7月22日 晴れ 4時20分起床。パン、ハムエッグ、サラダ、スープ、それにゆで卵とリッチな朝食を終え、5時40分出発。ヒュッテから林道を50分の所要で頼母木・門内岳登山口に至り、ここからは大石山までの3.2kmは急登の連続であり、登るほどに付近の1,000m以下の山々の残雪が目立ち始める。途中杁差岳(えぶりさしだけ、1,636.4m)から下山してきた登山者の「今年は雪が多く、縦走路でも雪が残ってるから、滑落にくれぐれも注意しなさい」との忠告を、いつになく謙虚に受けとめ期待と不安を増幅させる。登り初めて2時間後、小屋のおじさんが数日前に今夏の登山者のためにわざわざ上部の沢から引いておいたという「足の松尾根」の水場で水を補給し、さらに2時間弱で大石山(1,567m)付近、飯豊連峰の主稜線に飛び出す。これまでの数時間とは対照的に、稜線にはまったく別な世界が展開しており、まさに飛び出すといったおもむきである。付近で休憩中の初老の男性一人と女性二人の3人パーティに軽く会釈すると、「新潟の味噌はおいしいよ、どうぞ」とモロキュウを差し出され、他の一人がいなり寿司を奨める。

  

 朝がパン食だったので、また、ここまでがかなりのアルバイトで空腹だっただけに本当にありがたくごちそうになる。この付近の登山道にはピンクの花が両側から登山者を歓迎する様に咲き誇っている。ヒメサユリと教えてくれる。黒川村の方達で、九州から来たと告げると大変な驚きようで、杁差岳の途中まで同行し、シオガマ、キンバイなど花の名前を教えてもらう。この3人組は花の撮影が目的だったようで、のんびりと撮影に興じている彼らにお礼を述べて杁差岳に向かう。ここら辺りの尾根は東側が稜線まで残雪があり、ニッコウキスゲの群落と雪渓の対比が印象的だ。

         

          

 初夏の飯豊にマクロ付き一眼レフを持参しなかったことを後悔する。それほどにこの杁差岳付近のお花畑は見事というほかに、形容詞が思いつかない。正午前に今縦走での最初の頂となる杁差岳に着く。静かな山頂は三等三角点と石祠があるのみ。近くには最近建て替えたという立派な山小屋があり、先ほど登ってきた足の松尾根を見おろす尾根の傍らに飯豊の開拓者藤木玄翁のレリーフが目にはいる。静かな山の午後、ゆっくり山頂の憩いを楽しみたいが先を急がねばならない。再び大石山付近に戻ると、先ほどの3人組があいかわらずくつろいでおり、「下の雪渓の雪で沸かしたのよ、少しゴミが混じっているけど最高よ」とコーヒーを奨める。何と親切な人達だ。‘山大らかにして里人の心清し’飯豊の山も人も素晴らしい。3人組に丁重にお礼を述べて、頼母木小屋に向かう。

 静かな稜線歩き1時間余りののち、頼母小屋到着。この小屋は黒川村営であり、午後の陽射しを受けて小屋番がのんびりとひなたぼっこの最中。上部の雪渓から水を引いているため、豊富な雪解け水が樽に注がれ、さぞかしよい冷え加減であろう缶ビールが目にはいる。南アルプスの山小屋より高い700円也を払い先ずはとりあえずイワシの缶詰を肴に胃袋に注ぎ込む。まさに痛飲なり。聞けば、この小屋番さん、黒川村役場の課長補佐をしており、この役場の若手職員は毎夏交代での小屋番を義務づけられると言う。

 明日は確実に好天が期待できるとのことで、門内小屋までと思うも、実動8時間、そろそろ疲労が溜まってきており、それに今夜は一人静かに満天の星でも眺めるか、とめしが喉に通らなくなるほどバテる前にこの小屋に落ちつくことにする。夕方までは静かな飯豊の午後、しだいに暮れゆく黄昏の山を心ゆくまで眺め、「さて、メシでもこしらえるか」という段になって、石転び沢の雪渓を登りここまで実動12時間かかったという山形のパーティ4名、続いて胎内からの大阪パーティ3名で小屋は俄然騒々しくなった。

 それにしてもこのような場合単独行の独り身は淋しいものだ。私は、本来単独行が性に合わないことはよく心得ているつもりだ。中高年の女性以外の人には人見知りして気軽に声をかけきれない。気のおけない山仲間数名でわいわいやる方が楽しいに決まっている。気心の知れた山仲間でわいわいやってる連中を内心羨ましがりながら、独り静かにカレーライス、ツナサラダの夕食を取り寝袋にもぐり込む。

 「8時には寝ようね、迷惑になるから」「テントが気楽でいいな」「やっぱ誰もいない杁差小屋に泊まるべきやったなー」とか、気遣いとも当てこすりともとれる大阪の3名パーティの宴会はしだいにエスカレートし、人を馬鹿にしたような関西弁(九州人にはそんな風に聞こえる)まるだしでのガなり声がしばらく続き、ひとしきりの喧噪が去り9時前、床についたと思ったら「○○、早く関西に帰って一緒に登ろう」「東京なんかやめちまえよ」、といつまでも管を巻いている。どうやら離ればなれになったかつての山仲間の飯豊での再会登山といったところ。立場を変えれば同じ様なものかな、と思うと怒る気にもなれないが、それにしてもやっと静かになったと思ったら今度は牛蛙の大合唱の始まりといった始末。昨夜は胎内ヒュッテの小屋番のいれる濃いお茶を不覚にも何杯も飲みすぎ目が冴えて眠れず、結局二晩続きの睡眠不足。(コースタイム 胎内ヒュッテ5:40→登山口6:30→姫子ノ峰7:35→足の松尾根水場8:43→大石山手前の稜線10:38→杁差岳11:38→大石山手前のピーク13:05→頼母木小屋14:20)

 7月23日 晴れ 4時起床。ハムエッグ、サラダ、パン、コーヒー、と昨日に続きリッチな朝食を済ませ、眠い目をこすりながら早々に小屋を後にする。まだ5時を過ぎたばかりというのに、すでに陽は上がりモルゲンロートの山並みがまばゆいばかりだ。頼母木山を越え、二等三角点の地神山(1849.6m)付近ではイワカガミ、シャクナゲが印象的だ。無造作に歩いているうちにうっかり踏みつぶしそうになったのがエーデルワイスの一種(ハヤチネウスユキソウかと思ったらヒナウスユキソウと後で知った)。門内小屋の周囲一面のヒメサユリの群落も見事だ。途中、石転び沢を登ってきた単独行の男性、埼玉からの感じの良い若夫婦に、それぞれに写真を撮ってもらい、「えーっ、九州からですかー?」には、こちらが驚かされる。8時過ぎ、北股岳(2024.9m)山頂。いよいよ2,000mを越え付近はアルペン的様相を呈してくる。眼下には石転び沢の大雪渓が拡がるが、雪渓の数カ所に黒点がうごめく様が、この沢の大きさひいては飯豊の山の懐の深さを物語っている。天気は上々だが、疲労と睡眠不足と飲みつけぬコーヒーのせいか、胃の具合が気になり始める。最近では山に入って2〜3日目によく起こるお決まりのパターンだ。

         

 梅花皮岳(かいらぎだけ)から烏帽子岳(2,017.8m)を経て御西岳(2,012.5m)までは、かなりの部分が稜線近くまで残雪に覆われ、腐れ雪に気を使う。注意すると、この残雪は融解により毎日数10cm程度後退しているようであり、融雪して大気と陽光にさらされた山肌からは、待ちかまえていたかのように次々と高山植物が顔を出し、生育ステージの垂直分布を呈している様は、新しい生命の息吹というか、生命の躍動というか、ダイナミックな大地の輪廻を感じる。かつて若い頃登った穂高や剣にも同じ様な生命の躍動はあったのだろうが、そのころの山日記では定かな記述が見当たらない。これも年齢のなせる技か、愚鈍な私でもそれなりに感性が醸成されつつあるのか?

         

 一方、先ほどからおかしくなりつつある胃袋は御西岳が近づくにつれさらにおかしくなり、吐き気をともなって行動食を受け付けそうにもなくなる。こんな時はビールが特効薬であることをこれまでの経験から何より身体が一番知っている。昼過ぎ、御西小屋に着きビールを求めると「飯豊での山小屋はどこもビールはありませんよ」と期待に反する冷たい返事。予定では、今日は飯豊の最高峰大日岳(2,128m)を往復して御西小屋泊であるのが、予定していた胃薬(ビール)が手に入らぬショックと、加えて、今日の予定は御西小屋と言っていたあの大阪からの3人牛蛙パーティと再び一緒になるのは耐えられず(飯豊では原則として幕営は禁止となっている)、また「ビールは飯豊本山の小屋には置いてあるかも知れない」とのビール飲みたい一心の勝手な思い込みから、大日岳を今回はパスし、本山に向かうことにする。

 御西岳から飯豊本山(2,105.1m)までは広々とした稜線が続き、杁差岳付近とはひと味違った植相のお花畑が随所に展開する。昨日、今日とも午後になるとガスがしだいに山々を覆うようになり、早朝から行動の身ではすでに日没と錯覚しそうになり、がっくり落ちたペースにやや焦りを感じる。少し歩くと嘔吐が間欠的に襲い、様になったものではない。せめてスキットルでも持参すれば、荒れ狂った胃袋を一時でも麻痺させられるのだが。14時過ぎに本山の三角点を過ぎ、さらに20分少々で飯豊山神社のある本山小屋にやっとの思いで辿り着く。小屋に入っての開口一番の「ビール置いてますか?」のはかない期待も御西小屋と同様の応答に、失意の中でテントを設営し寝袋に潜り込む。(コースタイム 頼母木小屋5:10→地神山6:10→門内小屋7:14→北股岳8:15→梅花皮岳9:19→御西小屋12:30→飯豊山神社14:50)

 7月24日 晴れ 「15:30みそ汁つくる 18:00おかゆつくる 7/24 3:30風あり、タマゴスープつくる 5:00カロリーメイト溶かしてのむ」・・・昨日の本山到着以後今朝までの行動は、山日記にはわずかこれだけ。がしかし不思議なもので、山小屋では不本意であった休養は天幕での一晩で十分取れたようで、朝には再び元気を取り戻し、6時には本山を後にする。御秘所、草履塚など信仰登山の名残をとどめるいわく因縁のありそうな箇所を過ぎ、9時丁度に三国小屋のある三国岳山頂着。何か胃袋に詰めておかないと吐きそうな気分になるので、キュウリをむりやりかじる。三国岳から地蔵山(1,485.2m)までは見晴らしのよい岩稜を下り、そこからは薮尾根の下りとなる。途中、1ヶ所だけ水場があり伏流水なので冷たく生き返る心地となる。飯豊山の最後の水場ということで、名水で沸かすコーヒーに眼がない妻への土産にと、2リットル汲む。

 正午過ぎ、御沢小屋のある林道終点に出る。疲労から再び胃袋がおかしくなり始めており、早く薬(?)を、とのはやる気持ちに正直に、疲れた足どりながらラストスパートでさらに30分下り、飯豊鉱泉のある川入部落の最初に見えた旅館に飛び込む。もちろん、第一声は「すみませんビールありますか?」 言葉少なだが、性格の良さそうな旅館の若奥さんが大瓶ビールとよく冷えたトマトを持ってくる。取りあえず、コップ一杯だけぐーっと一気に飲み干し、トマト数切れをがつがつと食べる。不思議なほど、今までの吐き気が嘘のように引いていくのが分かる。「すみません、取りあえずこのままにして先に温泉に浸かりたいんで、30分後にざるそばもつくっておいて下さい」と言い残し、浴場へ。

 飯豊には、秘湯・湯の平温泉を始め幾つかの温泉が点在する。ここ飯豊鉱泉は、福島県山都町にあたり、表面に塩が浮いた濁ったお湯で、すり傷に良く効くという。沸かし湯で浴槽は家庭用の風呂といった案配だが、疲れた身体には最高の山のいで湯だ。ゆっくり浸ったのち残りの大瓶ビールを胃袋に注いでいると、くだんの若奥さんがざるそばの大盛りをタイミング良く運んでくる。先ほどまでの疲労と吐き気が嘘のように、元気がみなぎるのが実感され、お勘定のしめて1,450円也は、いかにも安い。少しく昼寝をさせていただいたのち、14:45発山都行きのバスに乗り込む。(コースタイム 飯豊山神社6:03→草履塚7:00→三国岳9:00→御沢小屋12:05→川入部落12:55)  全行程41km、累積標高差3627m   (平成5年7月21〜24日の記録)

 【後記】この山には特別な想いがある。最初の印象は、高瀬に借りた飯豊連峰渓谷譜なるビデオで見た初夏の渓流と残雪であり、何度も何度も繰り返し見て脳裏に焼き付けられた。また、仕事と山の先輩で新潟県出身の内藤さんからは折につけ、この山のことを聞き、印象は決定的なものとなった。このような訳で、この山は登るなら梅雨明けの頃と決めていた。そして、天候にも恵まれ、期待に違わず、予想をはるかに超える、躍動感あふれる別天地を飯豊は惜しげもなく示してくれた。冒頭の今西錦司の言葉が物語るように飯豊はとにかくでかい山だ。今回は、その背骨の部分をトレースしたに過ぎない。それは飯豊の全容を知るには最も手短な方法ではあろうが、本質を知るにはまだまだのようだ。また、計画では大日岳まで含んでいたが割愛してしまった。が、このことはさして大きな問題ではなかろう。最初から一度きりのつもりなら、予定通り行動すればよかっただけのことである。ほんのちょっぴり妥協したに過ぎないのだ。もちろん、体調にまったく問題がなければ予定通りとなったであろうが、いつも目一杯の計画を立てるから、結局のところ8割方しか達成できない。かといって、最初から8割方の計画でスタートする気にはまだ当分なれそうもない。

 深田久弥は、「山は心をあとに残す方がいい、と言った人がある。一ぺんで登ってしまうよりも、幾度か登り損ねたあげく、ようやくその山頂を得た方がはるかに味わい深い。」と記している。同じ様な意味で私は、山は一ぺんに登りつくさぬ方がいい。貧欲に頂を稼ぐよりも、余力を残しながらも、登るべき山の幾つかを残しておく方がいいと思う。私には幾人かの、この山のことを知らぬ山仲間がいる。彼らがこの私のつたない紀行文を読んで飯豊に是非ともと言った時、いつでもお付き合いできるように。そして、ただ単なるお付き合いではなく、その時こそは、私のわがままを聞いてもらおう。すなわち、この次のこの山は、たとえどこからのアプローチであろうが、最高峰大日岳の頂に立ち、できれば飯豊の最も山のいで湯らしい湯の平温泉を締めくくりとしよう。

back