厳冬期石鎚登山と嵯峨山温泉  
                        
矢野 誠治

 ネパールを訪れた友人がポカラで撮った、ペワ湖のむこうに連なるアンナプルナ山群、なかでもひときわ高くみえるマチャプチャレの写真を見た。数年前に見たエベレスト街道の写真集の事を思いだし、それ以来なんとしても『神がみの棲家』と呼ばれるあの8000メートル級の山々を見たくなってしまった。調べてみると、決して不可能ではなく、あちこちの旅行社からいろいろなトレッキングツアーが売り出されているのを知った。   これは行くしかないと予定を立てているうちに、ある山岳雑誌で憧れのヒマラヤにまさるともおとらぬ一枚の写真に目を奪われた。黒に近い碧い空をきりさくように突上げる急峻な北壁。びっしりとついた霧氷。そう『石鎚山の天狗岳』である。

 もちろんテクニック的にも、いたれりつくせりのヒマラヤトレッキングなどとは比べ物にならないくらいハードで、とてもわたしの手におえるしろものではないとは分っていたけれど、目の前に餌をちらつかされれば食い付きたくなるのが人間の悲しい性で、ますます思いはつのるばかりだった。しかしなんともタイムリーなことに、わがオフィスのFAXからカタカタと『平成6年厳冬期石鎚山登山計画書』なるものが吐出されてきた、しかもなんとメンバーには挾間(食糧・会計)栗秋(撮影・記録・湯行)矢野(ボッカ)と私の名前もあるではないか! ひとつ返事どころか、両手を揚げて賛成!こっちの方からお願いしますと言いたいくらいだが、しかしその反面、初めての冬山がいきなり石鎚というのも不安がある。確かに他のメンバーは実力からしてノープロブレムといったところだろうが、わたしにすれば、冬山に耐えうる装備すら持っていないわけで、はたして本当に大丈夫なのだろうか…? といちおう躊躇はしてみたが、夏とはいえトシくん(栗秋)でも行ってるし、遠ざかってはいるもののトライアスリートとしてすこしは体力はあるつもりだし…といつもの楽天的な性格で(いつも思うが間違いなく前世はラテン系だと思う。食性については韓国系かとも思うが)お願いしてしまった。

 靴やウエアについては問題無いとしても、ピッケル・アイゼン・冬用シュラフなんぞ持ってるはずが無い。しかしこれも高瀬氏の好意でお借りすることができ(最終的にザックまで挾間氏の70gを借りることになった)出発までになんとかいっぱしの山男となる事ができた。ところが直前になってまたもやJR栗秋の参加が不可能となり、正月に続き挾間氏との二人旅となってしまった。 2月10日午後11時、別府観光港で待合わせフェリーで四国へ。翌11日午前2時25分八幡浜着、5時まで船内で仮眠をとりいよいよ石鎚へ向けて出発。夜が明けるにつれてだんだん雪が深くなりチェーンを着けたりはずしたりで、面河登山口に到着。10a位の積雪だが除雪されてるために、関門をすぎ国民宿舎の駐車場に車をデポできた。朝食を済ませたあと、登山開始。山岳信仰華やかなりし頃の面影であろう鳥居から始まる急な石段を登る。我が故郷国東に縁の深い『役小角(えんのおづぬ)』が開山したと伝えられるこの山も、通常の信仰登山ならば、ロープウェイを利用し西条側から成就を経るコースが一般的なのだろうが、本来ならばこの面河川を遡上するコースの方が表参道ではと思われる。

 樹林帯の中を高度をかせいでいくが、急登の上、思いがけなく高い気温のせいで量こそ多くないもののズブズブの重たい雪で歩きにくく、後の事を考えると、あまり汗はかきたくないが、しょうがない。途中で飲んだ沢の水が旨い。狭間氏の言葉を借りると「日本一旨いといわれる土小屋の水より、格段旨い」 石鎚の前衛峰である面河山の尾根付近になると急に雪が深くなり、前進速度もぐっと落ちてくるが、サーッといきなりガスがきれ、航空母艦のような形の天狗尾根が現れ息を飲む。幸いカメラに収める事ができたが、結局石鎚本峰を見たのはこれが最後となってしまった。

 しかし何よりも驚いたのは、石鎚のスケールの大きさである。九州の山しか知らない私にとって、このアプローチの長さ!無雪期のコースタイムを見ても、この山がただものではないのはわかるが、これだけ歩いてまだこんなところか!と愕然としたのも事実だ。

 まあ気をとりなおし今日の幕営地愛大小屋を目指す。尾根のすぐ下の斜面に取付けられた夏道用の桟道を探るが、腰あたりまでの雪に埋もれルートがわからない。足を滑らせれば5〜6メートルは落ちるであろう。雪のおかげで怪我はなくとも雪だるまはまぬがれまい。そこで尾根に登ろうにも斜面が急でおまけにズボッと首まで雪に埋まってしまう。初めてのラッセルで要領がわからず、時間と体力を消耗してしまい、たつた数メートル進むのに相当の時間を費やすこととなり、先行き不安となってしまった。ここで挾間氏から今後の行動について提案があった。1・行ける所まで行ってみる。2・写真を撮ったあたりまで引返しビバークする。3・下山しキャンプを張り明日の様子をみる。…の3つから選べと言われるが、悩んでしまった。1・2を選んでも経験豊富なリーダーの下、危険はないだろうが、天気予報は大荒れを告げている。しかも日程的にも頂上を踏む事は不可能である。まして3を選べば、2人で苦労して担ぎ上げた装備とこれまでの行動は一切無駄となるわけだ。

 思案の末出した答えは、「撤退」であった。とにかく大荒れが予測される天気が心配で、無理をすれば遭難という事も考えられる。特に冬山初心者の私がいればその確率も当然高くなるわけである。まあ石鎚が逃げるわけでないし、ただピークを征服するだけが登山ではなくそのフロセスを楽しむのまたいいんじゃないかと勝手に納得し、まあここまで足跡をつけただけでも上出来とすべきだと下山にかかった。

 帰路もそう楽をさせてもらえず、尻餅をつきながらやっと登山口の面河キャンプ場に着いた。明るいうちにテントを張り、夕食の準備にかかる。メニューは挾間氏の十八番『スキヤキ』である。ザックの計量化のために、簡単なフリーズドライ食品などでこまかさずきちんと食事をとるところにも氏のこだわりが感じられる。行動中はちょっと重かったけれど。1000メートル以上の高さまでわざわざ旅をしてきた貴重なビールで乾杯し、ごーじゃすな夜を過ごした。けれども夜中の激しい風と雨で木に積もっていた雪がドサッとテントを直撃するので、うとうととするくらいで熟睡できなかったけれど、もし尾根にテントを張っていたらどうなっていただろうかと思うと、やっぱりこれで良かったんだと思う。ほんの少しの後悔の念は残ったが。

 翌日も朝から悪天候で行動に移せず、せっかく準備した食糧・アルコールであるちゃんと消化しなければと、鳥鍋をつつきながら宴会を始めるが、案の定途中で当然アルコールが底をつき、面河茶屋まで調達にいくはめとなった。それでも昼までには切上げ、雨の中ズブ濡れのテントを畳み、もうひとつの目的である温泉を目指して出発した。

 温泉天国の九州からくると、四国は異常に温泉が少なく感じる。地図で帰りのルートを探るが、温泉マークは見当たらない。しかし国道からそれ岩屋寺方面へ車を走らせると、昨今の温泉ブームからか温泉郷の案内板があるではないか、ここは挾間氏はすでに入湯済とのことで、さらにに進めると『温泉前』というバス停があるので付近を見ると確かに民宿らしき建物の壁に『嵯峨山温泉』とある。すかさず挾間氏が家人に交渉にいくと、すぐ入れるという。ラッキー!とばかり、すっ裸になって風呂にいくと、タイルばりのごく普通の風呂場だった。

           
                       嵯峨山温泉

 いかにも薪で沸かしたまんまという感じで熱く、ホントに温泉なの?と疑いたくなるが、浸かってみると、しっとりとやわらかな湯で、皮膚がつるつるになり、菊池温泉を思わせる。はいった後で分ったのだが、前の川底から湧きだしたお湯をポンプで汲みあげ加熱しするのであろう、隣には素朴な共同湯があった。しかしここは湯をはっておらず、結果的には道路をはさんだ向かいの民宿で入った事が正解となったわけだ。石鎚で流した汗をすっきりと洗い落とし小雪のちらつく中、助手席でビールを飲む挾間氏を羨ましく思いながら大分へと向かった。

 こうして石鎚登山は残念な結果となったが、家に戻ると遭難のニュースが次々と入ってくる。この2月の連休中、全国で遭難者30人うち死亡・行方不明7人というたいへんな悲劇となっていたのだ。おまけに遭難者の多くはベテランで装備もしっかりしていたという。もしあの時もうすこし意地を張って進んでいたら、万が一ということもあったかもしれない。

 今度のルートでの厳冬期石鎚登山は挾間氏がライフワークとしているので、また来期も挑戦することとなるはずなので、ぜひまた同行させてもらいたい。体力つけて、どんな装備でもシェルパの如くかつぎあげますよ。今度こそ、あの天狗岳のてっぺんでビールで乾杯しましょう。なんといつても私にとっても憧れの山なのだから! (平成6年2月10〜12日、筆者:山のいで湯愛好会会友、大分CTC会員、大分県トライアスロン連合事務局長)

home
back