忘れられた80年の時を求めてA
九重山池の小屋遭難碑石板復旧作業中間報告

 2010年7月18日
 本日と明日19日は、池の小屋遭難碑の脱落した石板の修復作業だ。おゆぴにすとの皆に声をかけてはみたものの、様々な事情から高瀬と二人での荷揚げ作業並びに復旧作業となった。

 計画の立案から復旧に係る器機全般の準備は前日までに高瀬がすべて万端整えた。総重量は100キロ超という。結局、筆者も午後遠来の客人とのお付き合いが生じ、本日は一往復のみ、明日は助っ人の応援を取りつけたのを言い訳に、高瀬には2往復のボッカを強いた。

総重量100キロの器機材のうち本日、こだわり狭間1往復20キロ、ガブ高瀬2往復40キロ計60キロ荷揚げ。来週にひかえた北アルプスの天幕縦走を思えば、良いトレーニングだと自分に言い聞かせる。梅雨明けとはいえ牧ノ戸は強風と時おりの小雨ぱらつく天気。重荷は総重量20キロ程度だと思うけど、一尺の角材や鉄パイプなどを手に持ち、なかなかに歩きにくいし、思いのほか手が疲れる。「まあ、なるべく楽しくやろうぜ」とばかり、次第に晴れてくる九重の山並みを堪能することを忘れない。4回の小休止ののち2時間40分の所要で午前9時御池近くの遭難碑のある高台に到着。

 狭間が午後の所用の関係で2人での共同作業は10時半までの1時間半。山頂での作業は、台座から三分の二がずれ落ちていた石板を2台のジャッキ、2本の角材などを駆使し、台座と平行になるまで、かさ上げしてずらすところまでだ。頭の中にイメージはあるものの、とりあえずの試運転といったところか。張り切る高瀬にとってはわずか1時間半は随分物足りなさを感じたことだろうが、もともと本日は荷揚げ中心ということだったので、納得してもらう。10時半きっかりに予定通り台座に持ち上げるまでの作業を終え、足早に下山。それにしても、このあとさらに1往復のボッカをする高瀬を残して牧ノ戸を後にするのは何とも心苦しいものがあった。

その分、明日の石板を起こして石塔に持たせかける作業、さらに正位置より30センチ左右にずれているので正面左側に30センチほどずらす予定の作業には、会員外の強力な助っ人を連れてくるからと、納得させての分れであった。

 なお、高瀬はさらに20キロの荷揚げをして、その後の作業などの準備をして下山したのが18時ころになったとのこと。

夕方、高瀬からのケイタイで曰く「パイプサポートが・・・」と何か聞き取れぬとぎれとぎれの声が入るがすぐに切れてしまった。電波状況の悪いところかららしく(実は電池切れだった)、彼は何を言おうとしたのか夜寝る前まで考えた。ひょっとしたらパイプサポートのネジが回りにくいから油をと、言ったのかもしれないと・・・これは日ごろ察しの悪い狭間にとっては好判断だった。すぐさま明日の相棒かつ義弟の釘宮豊明(豊ちゃん)君に電話要請。メカ通の彼ならではだが、機械油とグリース、いずれもスプレータイプを用意してくれた。(もしこれがなかったら、石板起こしに錆びなどでネジ山の抵抗が大きく相当難儀したであろう・・・。)

重荷の苦痛より何かやろうとするときの楽しさが伝わってくる






2010年7月18日、池の小屋遭難碑の状態


とりあえず第1回のボッカで荷揚げした機器類


石板を台座まで乗せる作業に奮闘する高瀬


とりあえず本日の仕事を終えて
 2010年7月19日
 明けて19日。未明、大分市は小雨ぱらつく天気であったが、牧ノ戸に着くころには好天無風。長者原で一夜を明かした高瀬と7時に合流。すでに本日の荷揚げ分が車の傍らに並べられていた。パイプサポート:約10キロ弱2本、15キロ弱2本が主な荷揚げ品。本日のメンバー:前日の2人に加え、助っ人を買って出たこだわり狭間の義弟豊明君。この日のために登山靴まで新調したそうだ。

パイプサポート4本が今日の主な荷揚げ品。昨日までの雨と風、今日の乾燥気味の天気で、九重の山山はどこまでも澄み渡り、新緑と深緑それに青空のコントラストが実にすばらしい。九重は実質初めての豊明君と高瀬が15キロ弱のパイプサポートを手に持っての登山。僕は少し重いが背負子に積んだ2本のパイプサポートを荷に選んだ。

荷揚げに2時間40分を要し、10時から作業開始。検討の結果、難作業が予想される、石板を横に30センチずらす作業・・・垂直にしてからではかえって困難が予想されるため、まず最初に取り組んだ。石板は左右で厚みが違うため左右のバランスを取るのが難しい。作業中、せっかく昨日台座に水平に上げたのに、一度は失敗して基礎が崩壊したりしたものの、根気よくかつパワフルに角材を駆使してなんとか成功。時計はすでに11時を回り、作業スピードの遅さになんとなく焦りを覚えるが、総指揮官・高瀬はいたって冷静、「作業にはちゃんと順序を踏んで・・・」と諭される場面も。

続いて、石板を起こす作業に取りかかる。約3寸厚の角材を基礎に2本のジャッキで石板を持ち上げ、左右の端にパイプサポートをかませて補強する。すべてはガブ高瀬氏の計画通りの展開だ。書けば簡単だが、2本のジャッキとパイプサポートが、常に同一負荷重であることを、総指揮官・高瀬がチェックしながら、それこそ一寸づりにミリ単位で上げていく。

パイプサポートは約50〜150センチまでの4通りを各1対用意した。ジャッキは最長20センチで伸びきるから、その都度パイプでの支えを確認しながら、角材での基礎を積み上げていく。パイプサポートというのは、ジャッキと同じような機能があるようだが、扱いには慎重さ、要領の良さとともに大変な腕力が求められる。

加えて、指揮官・高瀬は極めて慎重だ。万に一つでも事故があってはならない。結構細かい注文が矢継ぎ早だ。やれ基礎が不安定だ、やれパイプの重心が外に逃げている、やれ内に入りすぎる、等々と言ってはその都度やり直しだ。ここで頼もしい助っ人・豊ちゃんの面目躍如の場面だ。こういうことが本来好きらしい。高瀬指揮官の意図をすぐさま理解して的確に反応する。腕力も持久力も根気ある。

以上の作業を繰り返して約5時間、途中のみぞれと強風、その後の照りつける太陽のもと、本日の当初予定でもある、最長パイプサポートをかませ、石板の仰角を約50度近くまで上げたところで、午後4時、作業終了。気になる、石板に刻まれた碑文もほぼ全容が次第に明らかになってきた。遭難者の一人「廣崎秀雄(崎は人名字体)」などの文字も明確に確認できた。直径58センチの円形の中に描かれた文字は何を意味するのだろう、頭上に若干の脅威を感じつつ潜り込んで接写した碑文の一部を公開しよう。

高瀬は元土木技術者らしく、きちんと器機・小道具を整理して石板下に集結させ、周りに工事中であることを示す、黒・黄色のナイロンロープを回らせる。

最長のパイプサポートは総延長3メートルになるから、このままパイプのネジを回し続ければ、仰角を増すにつれネジまわしが楽になるのは必定、一気にこのまま石塔に持たせかけてしまってもよいのだが、その作業は大峰登山から加藤会長が戻ってのち、24日に他の連中が揃ったところで行うことになっている。つまり昨日今日の作業は、あくまでもそれらの事前の作業という位置づけなので、本日はここまでの作業とした。

約6時間の集中した時間は、久しぶりに3人を夢中にさせた。九重山のてっぺん・最奥の地で、梅雨明け直後の、これほどまでにくじゅうの緑が原色をほしいままにするなかで、損得勘定など忘れて没頭した。まだ作業が完結したわけでもないが、晴れやかな気分での下山は3人ともいつになく饒舌になっていた。義兄としては、初めての九重山という豊明君を、午後せっかくの好天でもありせめて眼と鼻の先の最高峰中岳にだけでも登らせてあげようと思ったが、当の本人は、遭難碑修復の作業に関われたことに結構満足した様子であった。登山靴をわざわざ買ったということは、兄貴への言わずもがなのメッセージと受け止めたぞ、豊明君。

なお、途中、大分市からというご夫妻が、約2時間にわたり、何かと加勢してくれ、大変助かった。遭難碑のことも新聞でちゃんと認識していたようだ。名前は互いに交わさなかったが、おゆぴにすとのことは教えた。もしこの掲示板をご覧になっていたら、何かお便りを・・・おっとその前に、我が会会長になり替わりお礼を言いたい。もちろん、大活躍の助っ人・豊ちゃんこそ、会長になり替わりもっとも感謝の念を表したい人物であるわけだけど。・・・それにしても総指揮官・高瀬は、「おまんは、なんちゅうやっちゃ!」と言いたくなるほどの眼の輝きであった。
目下充電中、まったくの無償の行為にここまでのめり込ませてスマン、スマン、奥さん=洋子さん、ごめんな。
(2010年7月20日 狭間 渉記)


強力な助っ人登場


俺だって20キロ近くのボッカだぜ。何せ鉄は重い


先ずは左に30センチずらす作業が成功




1時間かけて25センチのかさ上げペース。それでも時間とともに持ち上がってきた。


総指揮官高瀬の指令の下、安全確保を第一に


碑文の全容が明らかに。それにしてもこの文字の意味は?


廣崎、渡邊・・・80年前の遭難者の名前も確認できた。


第2日目の作業を終えて


九重の山は、どこまでも緑に澄み渡り
 

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