ミヤマキリシマ鑑賞ゴールデンコース’を行く、
   平治岳〜北大船〜立中山を結ぶロングコース・・・してその顛末は?

                   狭間 渉

 「今年の鶴見岳のミヤマキリシマはすごくきれいらしいよ」と、テレビのニュースを見た妻が教えてくれた。ならばよし!‘かねてから温めていた計画’を実行する時だ。九重山系でミヤマキリシマがひときわ素晴らしい、平治岳(1,642.8m)と北大船〜段原の火口周辺、それに立中山(1,464.4m)山頂付近をつなぐ、しかも平治岳北面を往路に鉾立峠を下山路にとるため山開きの大混雑を避けることができる、かなりマニアックな計画なのだ。
             
 この計画の概略は次のとおり。吉部の鳴子川に架かる橋の右岸を登山口として大船林道に合流後途中の枝道に入り、400mほど登ったところ左側に、平治岳北面の登路の取り付きがある。ここからガイドブックなどには余り載っていないヒーヂの野を経由して山頂へ直接突き上げ、いったん大戸越に下ったのち北大船の北面を急登し段原経由(大船山をパスして)坊ヶつる方面に少し下ったところから立中山を目指す。坊ヶつるから大戸越、あるいは大船登山道のいずれをコースにとっても喧騒は避けられないが、このコースなら体力さえあれば、静かに心ゆくまでミヤマキリシマを堪能できる。勝手に‘ミヤマキリシマ鑑賞ゴールデンコース’と名付けた。

 6月4日(土) 晴。大分市の自宅を7時過ぎに出発。吉部の登山口付近はすでに満車と聞き1kmほど手前の町道の傍らに車を寄せる。今日のメンバーはいつもの3人だが、骨折した足首がなかなか完治しない栗秋は、マウンテンバイクにより大船林道経由、坊ヶつるで合流することになり、ゴールデンコース隊のメンバーは高瀬と二人だ。坊ヶつるでの夜はリッチにやろうと、キムチ鍋の食材それにEureka5人用テントなどで、二人のザックは1泊2日分とは思えない結構な荷となった。

             
             町道の傍らに違法駐車    吉部登山口の駐車場は満車

 さて、暮雨ノ滝コース登山口で登山届にちゃんと記帳したあと、鳴子川の橋を渡り登山開始。鳴子川右岸を少し歩くとすぐに沢を逸れ、雑木林の中の踏み跡を登って行くことになる。

 吉部の暮雨ノ滝コース登山口駐車場付近が車で大混雑していたわりには、ガイドブックに載っていない今日のこのコースをとる人はさすがに少ない。それでも、我々の前後に中高年のパーティの賑やかな声を聞きながら、しっかりした踏み跡を忠実に辿って登って行く。

 昨年の後立山縦走以来となる久し振りの‘重荷’が背中に堪えるが、身体はすぐに慣れ,次第にピッチが上がり始める。大船林道に合流するまでの約50分少々、近づいては遠ざかる鳴子川の沢音を右手下方に聞きながらの登山道は、木洩れ日が差し、鳥のさえずりに心を和ませられ、なかなかに快適であった。

 平治岳北面への登路は、大船林道終点の手前から左の枝道に入るのだが、この枝道の入り口には、傍らの小枝に、わずかに黄色いテープやリボンが目印としてあるだけで、標識などはない。初めての人には不安だろう。鳴子川の橋より約1時間・・・、枝道の入り口に腰を下ろし小休止をとってミカンをほおばっている間に、後続の登山者に次々と平治岳への登路を尋ねられた。この枝道を400mほどつめたところ、左側に踏分道があり、平治岳への登路を示す標識もある。

                   
                   枝道から北面への踏分道に入る

 この踏分道から平治岳山頂への本格的な登りに入り、約20分ほどで、山頂から北方に伸びる稜線の鞍部(大窓)に出る。この鞍部からは南北に走る緩やかな稜線伝いに灌木帯の中を登って行くと、途中標高1,300m付近に1か所だけ岩場がある。アルミ梯子のほか朽ちかけた木製梯子と固定ロープがしつらえてあるが、ちょっと神経を使うところだ。

 この悪場を過ぎさらに登ると広々とした明るい台地に出る。ミヤマキリシマが点在し、三俣山上部の眺めが良い。ここが平治岳の名前の由来となった‘ヒーヂの野’だ。灌木帯の、全体に薄暗いコースの中にあって唯一明るい展望所でもあり、これまでの登りのアルバイトと閉塞感から解き放たれる一時でもあり、何よりもこの‘ヒーヂの野’()への思い入れもあり感慨に浸りたいとの欲求から、一本立てたいところだ。

            
                ヒーヂの野、閉塞感から解き放たれる一時

 が、そんな相棒の思い入れなど知る由もないのか、平治岳北面、この‘ヒーヂの野’には何の興味を示す様子も、一瞬立ち止まる様子もなく、高瀬はどんどん進む・・・・、やれ黒戸尾根だの、カクネ里だの・・・北アルプスの先人にゆかりの地名にはたいそうご執心なのに。

 ヒーヂの野からは標高差200m程の急斜面となる。灌木帯の下に敷き詰められたような緑の絨毯に1本引かれた小径を登って行く。一昨日のまとまった雨の影響か少しぬかるみかけた急斜面では足を取られ余計なエネルギーを使う。一方の、うっかりして登山靴を忘れ運動靴での苦闘を余儀なくされたはずの高瀬は、この雨上がりの路面を大して難儀に感じている様子はない。歩き始めて2時間半経過、それなりにジョギングは欠かさないものの、ボッカに身体が慣れていないせいか、この急登に自分では気づかなかったものの息がかなり乱れ始めたらしい。

            
                   平治岳北面直下の緑の絨毯

 すかさず見透かしたかのように高瀬曰く「狭間さん、なんですか!これしきの登りで息を荒げるなんて・・・、この先(今シーズンのこと)が思いやられますよ」、「うぐぐ・・・」痛いところをつかれ癪にさわるが、言われてみるとなるほど確かに「ぜーぜー」と呼吸が荒くなっている。たかだか15kgをちょっと超えた程度の荷なのに・・・。

 さて、登り始めて2時間50分、植生が変わりミヤマキリシマの点在する中を登って行くと、上の方から人声が、それも大勢のが聞こえてきた。山頂はもう間近だ。

 灌木帯をすり抜け明るい場所に出る。山頂だ。180度のパノラマが展開することそのものよりも、まず人の多さに驚く。そして至る所に鮮やかに咲き乱れるミヤマキリシマにも驚嘆。腰を下ろしたいところだが、昼食を食べながらゆっくり堪能したいと、絶好のビューポイントである南峰まで行くことにする。

            
             山頂付近でパノラマやミヤマキリシマを思い思いに満喫

 南峰への途中から見る北峰(本峰)南斜面のミヤマキリシマに「北海道のシバザクラみたい!」との喚声がどこからかあがる。「もっとマシな表現はないのか、人工着色と天然色(古い表現だなあ〜)の比較みたいで、これではミヤマキリシマの絨毯が色あせるではないか!」と小声で呟きながらも、なるほどそれ以上の形容は思い当たらないなあと納得。

 昨年、5月に大船山に登った時は、新芽を害虫に食害され茶褐色に変色した無残な姿を方々に見たので、平治岳山腹一帯のピンクの絨毯は、正直感動ものだ。

 南峰の一角に陣取りおにぎりをパクつき周囲の景色を眺めながら至福のひとときを送る。このままもう少しゆっくりしたいところだけれど、南峰から見る北大船〜立中山までのことを考えると、まだ全行程の半分をやっと過ぎた辺りなので、頑張らないと約束の午後3時までには坊ヶつる着はおぼつかない。そう、栗秋との約束の時間があり、それに夕方には加藤会長夫人ら3人の賓客を迎え入れる準備もあるのだ。

 昼食を終え大戸越への下山専用路を下り始める。登り専用路には、鞍部から上部まで登山者の数珠繋ぎ状態で、おまけにほとんど流れが停滞している。後に聞いた話だが、一寸ずりのため大戸越から山頂まで通常20〜30分の行程に2時間以上を要したらしい。このことからも我ながら良い登山コースを選んだものだと、独りほくそ笑む。

            
               大戸越への下りで、思いがけずも黒岳の天狗が

 平治岳南峰から大戸越までの下りは標高差にして150mほどだが、急坂に加え岩がゴロゴロしており、おまけに低灌木が左右から被さり狭くて歩きづらい。ここまでの全行程がすべて登りであったため気づかなかったが、下りになって初めて自分の‘忌まわしい膝’を思い知らされることになった。

            
       若い頃は気にならなかったことが(低灌木が左右から被さり狭くて歩きづらい)

 長距離走や縦走、ランニング登山など、これまで大きなレースや登山のたびごとに少しずつ膝痛などが累積され、このところちょっとした段差の上り下りで、「ギクッ」とした右膝の痛みがあった。元をただせば北海道のオロロンライントライアスロン(1987年、全行程251km)に始まり、南ア南部の大縦走(1991年)、一昨年八幡〜福智山〜採銅所ランニング登山(2003年、全行程35.5km)、昨年の後立山大縦走(2004年、鋭意執筆中につき未発表)など自分にとって大きなイベントの都度、少しずつ悪化させたものだ。特に下りで始末が悪い。

 大戸越への下りで疲労も手伝ってか足取りが急にぎこちなくなってきた。ちょっとした段差の下りで踏ん張れない。おまけにここ数か月来悩まされ続けている五十肩で左腕は自由に使えない。これはただごとではない。大袈裟に言えば、これから先の登山人生にも影響を与えかねない事態だ。鍛え方が足りないと言ってしまえばそれまでだが、冷やかし半分でゴールデンコースと銘打って提案したわけではなく、それなりの日々の鍛錬は怠りなかったから、正直なところショックは隠しようがない。足も折れよ!と気合いで痛みを我慢して走ったりしたこれまでの安っぽい根性論振りかざしのツケがここに来て回ってきたのだろう。

 ともあれ、ここでまた安っぽく根性のあるところを見せて事態をさらに悪化させては、今日の相棒・高瀬をはじめ僕の登山人生をあてにしている仲間にも、サイクリング&ランニング人生のパートナーにも申し訳が立たない。・・・そう、僕の足は僕だけのものではないのだ。高瀬には悪いが「今日はここまで!俺は(ここから坊ヶつるに)下りる。俺に何の遠慮も要らんぞ。先に下って設営を済ませておくから、立中山まで行ってくれ」と僕。そう言われたからといって「じゃあ、そうさせて頂きます」と言わないのを百も承知の上での言だ。唐突に突きつけられたかっこうの高瀬は、とまどいを隠せない様子ながらも観念したのか「何時でも来れるところだから」とあっさりと歩み寄ってくれた。

 そうと決まれば慌てることはない。大戸越で約30分間、しばしまどろみながら山頂一帯や行き交う登山者の人生模様を飽くことなく眺めながめたのち、13時半前に下山を開始し14時を少し回った頃、約30張りの色とりどりのテントと行き交う中高年登山者で賑わう坊ヶつるに到着。

 今日の主目的の一つミヤマキリシマそのものは、この先北大船から段原の火口周辺、それに立中山山頂付近でも見事なものであろうことは想像がつくが、平治岳山頂一帯を超えるほどのものではなかろう。もう充分に堪能し尽くし元は取ったといった感じだ。

            
               坊ヶつるの午後: 夕方には100張りを超えた。

 で、もう一つは前述したように栗秋と合流したのち、夕刻暮雨ノ滝経由で上がってくる加藤会長夫人ら賓客3人との、想像もつかぬ夕餉のご接待が待ち受けている。我々3人よりひと(半?)世代上にあたる還暦世代前後の皆さんを交えた坊ヶつるの夜は、さぞかし盛り上がることだろう。何せ話題豊富、ご接待ならお手のものの高瀬、栗秋を従えているのだから、案ずるより生むが易しだ。骨折した足首の難儀を承知でやがて上がって来るであろうマウンテンバイク別働隊の栗秋に後編を託し、筆を下ろすことにする。(to be continued)

(コースタイム) 6月4日 9:03吉部町道出発点(930m)→9:22鳴子川橋(945m)→9:59大船林道合流点(1070m)→10:05-15林道分岐(1140m)→10:25平治岳北面ルート入り口(1165m)→10:42鞍部(1250m)→10:58ヒーヂの野(1380-1430m)→11:24北面頂上直下休憩点(1490m)→11:50平治岳山頂(1640m)→12:00-20南峰(1600m)→12:52-13:22大戸越(1465m)→ 14:03坊ヶつる(1230m)
6月5日 9:30坊ヶつる→10:53吉部暮雨ノ滝コース登山口→11:07吉部町道出発点
(平成17年6月4〜5日)

しんつくし山岳会発行の「九重山」(1961年)の冒頭「山名と地名のおこり」の中で加藤数功氏は平治岳の山名について次のように記述している。「平治(ひーじ)岳 この山はもともとカリマタ山と言うのが本名ですが、名前が悪いので、この山の東側に‘ヒーヂの野’という所があるのでそれを頂上にうつし、それに漢字を充てたものだと故弘蔵孟夫氏が説明しておられました。」 
筆者註: この記述からして当時九重山の第一人者である加藤氏も、実際にはヒーヂの野には足を踏み入れたかどうか定かでない。なお、ヒーヂの野を‘山の東側’としたのは加藤氏の勘違いで北側ではないかと推察される。平治岳の東側山腹には‘野’に相当する平坦な場所はどこにもない。いずれにしても昭和30年代当時、平治岳に北面から達するルートは前述の「九重山」の付録の地図に北方の台ノ山を経由する登路がちゃんと記載されている。おそらく大船林道が開通して台ノ山を経由する登路は、大船林道から大窓付近に直接至る今日のルートにショートカットされ、忘れ去られたものと思う。ともあれ筆者は、加藤氏のこの短い文章に接したとき、‘ヒーヂの野’をまるで‘天空の楽園’であるかの如く想像力を逞しくして思い描いたものだ。

      おゆぴにすとトップページへ戻る     大分の山目次へ戻る