秘そかなる湯の愉しみ
        奥江、下河内、ひなびた里の湯を巡るの巻


 今日は文化の日......昨日借りたVIDEO『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は久し振りに見ごたえがあり、おもしろかった。さすがに'91年度のアカデミー賞の各部門を総ナメにしただけはある、迫力ある映像を堪能。前・後巻とも一気に見たおかげで、午前2時の就寝。それでも休日は早く目が覚める。本日は文化の薫りを体験する日?かもしれないが、この分野は一昨日、下関の大丸でユトリロ展を鑑賞したばかりである。芸術・文化を理解するにも基本は体力、そぅ体を鍛えるエクササイズに充てなければと考え、久しくBIKEに乗っていないことに気がつく。

 よぉ〜し漕ぐか....どこで.....交通量の少ないところ.....できれば山のいで湯も稼げるところ....日田へ行こう!と連想ゲーム式決断をし、横を見やる。まだ奥方は夢の中で“狼と踊っている”らしく、深い眠りにあり、起こしたら機嫌を損ねる?かもしれないという配慮から(もちろん子供たちも未だフトンの中である)、静かに身支度をして抜け出す。高速道経由で日田着は昼食時。突然の来訪に驚きの眼差しで見入る両親へ「今日は自転車と山のいで湯が目当てなき、昼から出るよ」とボク。以下、やりとりの要旨は、「どこへ行くのか」「ウン、水分峠の折り返しばい」「それならお父さんも車でついて行ってもいいぞ」「そんじゃ、水分峠で待っておって。近くの村の共同湯に案内するき」.....ということでボクはBIKEで一足先にR210へ乗り出した。

 水分峠方面は確かに門司界隈に比べれば信号も殆どなく、走りやすいルートであるが、祭日とあって車が多く、高塚入口に始まり、天ケ瀬、北山田、玖珠の通り抜けとかなりの渋滞国道と化していた。これではいくらBIKEであっても、車の列を尻目に脇をスイスイとはいかず、路肩いっぱいに寄せた車や中央線ギリギリをノロノロ運転する車と、右に左に縫って走ることになりスピードは上がらない。しかし、後からボクを追ってくる父上の車は、この渋滞のはるか後方でイライラ走りをしているにちがいないと思い、ひょっとしたら峠へはボクの方が早く着くのでは、あるいは峠の茶屋でかなり待つことになるかもしれない、そしてしびれを切らしてもう先に下ってしまおうかなぁと考えを巡らせながら、宝泉寺方面への分岐(信号機)によるじゅずつなぎの列をクリアしていく。

 しかし九重町からは車の流れもスムーズにになり、野上のトンネルを抜けて本格的な上りにさしかかると、ボクのBIKEの出力は、久し振りの酷使に耐えきれず急に落ち込み著しく、42×23(ギヤ比)でやっと上っていく始末。そして峠手前4km付近で「プーップーッ!」という警音とともに、軽やかなエンジン音がうつむきかげんのボクの視界からあっと言う間に消え去り、水分峠までの兎と亀の到達争いは父上の車に軍配が上がった。それにしても、峠手前の最後の上りは向かい風に阻まれ苦しかったが、たいして待ちくたびれもせず、童顔に戻って迎えてくれた父を含め、車と人いきれでごったがえす峠の賑やかさがボクのゴールでの解放感を盛り上げてくれた。

 「さて、それでは約束の村の秘湯へご案内!」と慌ただしくBIKEを積み込み、やまなみ路を小田の池方面へ。途中から左へ鋭角にハンドルを切り、細いコンクリートのたたき道を慎重に下り奥江集落へ向かう。この湯布院町最奥の集落・奥江には知る人ぞ知る『奥江温泉』があるのだ。前回、昭和61年8月、由布高原荘に滞在中の兄ファミリーを寿彦と二人で訪ねた際、兄と正寿君を案内した記憶が正しければ、6年ぶりの入湯となるからしてボク自身も大いに愉しみにしていたのだ。湯小屋は昔のままだろうか。無色・透明・適温の湯は涸れてはいないだろうか。妙にノスタルジックな気持ちにさせるのは、大分を離れて、なかなかこの方面へ足を伸ばせない反動からか。

 果たせるかな、杉木立をバックにポツンと、以前と変わらぬ湯小屋と体面した。車のドアを開けるのももどかしく転がり出て、無人の湯小屋に入り湯舟を凝視する。湯はある、が少し温め。少しづつしか流れ出ていないところをみると、湯量が減ってきたのかなぁ。と少し心配なれど、とにかく入れないことはない。乾いた汗を洗い流し、父と二人ニンマリ顔のまま無断の湯にどっぷりと浸る。6年余の月日は、当時まだ改装後間もなく木の香漂う風情の記憶が、少しばかり朽ちかけた板壁の現実に変わってきたなと認めつつも、軟らかな湯の温もりは昔も今も変わらない。

 ところがである、ものの5分も経ったろうか。外から村の老人たちとおぼしき話し声が聞こえてきて、だんだんと大きくなる。「ありー、車が止まっちょる。誰かはいっちょるぞ。他所もんやろ」とおじいさんの声。「勝手に入ってもろたらこまんなーェ」とはおばばさまの声。そしてガラガラと開き戸の音の後、おじいさんが二人洗面器を抱えて入ってきた。「お邪魔しています」とボクに対し、「......」 無言の抵抗か。一人は入り口へ戻り、なにやらスイッチをポンと入れたところ、ポンプの回る音と共に勢いよく湯溜からポンプアップされた湯が溢れ出て湯舟にドゥドゥと流れ込んできた。そうか、湯が出ていない訳がわかったぞ、と適温の湯の襲来にヨロコビながらも、居心地は確実に悪くなってきて、形勢不利は明白となってきた。

 この状態をなんとか逆転しなければと案ずる。ポンプスイッチ担当おじいさんは柔和な顔をしているが、もう一人の頑固一徹風無表情おじいさんは湯舟に浸るなり、「あんたたち、どこから来たんね?」とまず身元調査か。「日田から」と父。「よぅ、ここに温泉があるち分かったナァ?」と、新参者にはこのいで湯は10年早いわぃてな目つきでの質問に、形勢逆転の糸口を見付けたボクはここの入湯記憶回路を呼び起こし、一気に口上を述べた....「実は、9年前...昭和58年になります。ここに初めて来たのは。この湯小屋も荒れちょって、窓も戸も壊れち屋根は傾いちょるし、ここの裏手の泉源に湯はあったけど、こん時はまさかこげな気持ちいい温泉が甦るち思うてもいなかったんですよ。それが翌年、59年の11月に来てみると立派になって、湯もたくさん出るようになって感動ものでした。それから5〜6回は来ちょります。いつもこん先のかかりの家ん師にことわって入っとります(今日は無断ですがネェ....)。毎日おじぃさんたちは温泉にはいれてよかですナァ。うらやましいかぎりですネェ」との答えに 「.......」(ムムム....結構、詳しいわぃ)といった表情を読み取る。

 これで頑固一徹風無表情おじいさんの身元調査風の質問もなくなり、ゆっくりと手足を伸ばすことができるぞ、とほくそ笑む。しかし、敵もさるもの。今度は戦術を変えてきたのだ。さっきから板壁の向こうでおばばさまたちの話し声が聞こえていたのだが、『なにしょるんやろか』と思ったぐらいで、いっこうに気にはならなかった。が突然「お〜いバァさんやぃ、遠慮しとらんで入れやぃ」との一言で我々が入っているので外で待っているのだと悟ったのだ。遠慮する齢でもあるまいが(ボクは常々、女は30過ぎたら羞恥心を持ったらいかんと思っている。昔は共同浴場に湯舟は一つ、つまり混浴が普通だったのだ。そしてこれが、江戸時代以来の銭湯文化を創りだし、コミュニティ内の相互扶助の精神を醸成してきたのだ)、勝手に入っている我が身としてはあまり粘る訳にもいかず、体もゆったりとしてきたので、父上共々あがることにする。頑固じいさんもなかなかやるわぃと思いつつも、山奥のひっそりと涌くハイグレードな湯に対する御礼を丁重に述べて奥江を後にした。

           
                    奥江温泉共同湯にて

 「さぁて今度は九重の筌ノ口温泉経由で九酔渓の紅葉狩りはどぅ?」と第二湯目を口に出すと、父はすかさず「まっすぐ帰って、天ケ瀬ぐらいでいいよ」と宣う。『くじゅうあたりで湯に浸っていたら、日田に帰りつくまでにゃ後いくつ入るかわからんぞ』といった多少の危惧があったかどうか.....。とりあえず、水分峠まで引き返し、R210を下るが、玖珠町にさしかかってからは休日の夕刻時のパターンどおり今度は上り線の渋滞に巻き込まれ、じっと我慢の世界になってしまう。この状態では、日田までず〜っと数珠つなぎを覚悟せないかんな。えーぃままよ、旧道つないで帰えろぅと決断し、ボクの大分県万能道路脇道マップ記憶プリントを右脳から引っ張り出し、ハンドルを西北西へとった。

 目指すは八幡村から立羽田の景を横目に裏耶馬への道を左折して、月出(かんと)山と一尺八寸(みおう)山の谷を西有田村へ抜ける算段をしていたのだが、この分岐のちょっと先の古後集落に下河内温泉があるのを見逃すことはありえない。父上は温泉のはしごは苦手らしく、半ば諦め顔でついて来る。まさに夕暮れ時で、行楽帰りか農作業の後の湯浴みかは分からないが、田舎のおじさん風の4〜5人の先客があり、あれこれ土地の方言が行き交う。また女湯のほうもかしまし賑やかでこの辺りの社交場たりうると思ったが、さぁ入ろうとするも、この湯を取り仕切る女主人がいない。浴客に聞けば、買い物に出て留守だという。このあたりのルーズさが田舎時間の羨ましきところで、湯番も売店の守りものんびり構えようという気らしい。

 湯銭は湯上がりに置くとして、先に単純泉の湯にきっちりと浸る。思えば、この湯との出会いも7年余り前となる。昭和60年5月、豊後高田で行われた第2回仏の里マラソンの帰り、高瀬ファミリー&加藤と裏耶馬の伊福温泉へ寄り帰分の際、ここを通りかかり偶然見つけた湯なのである。当時は、湯を掘り当てた直後で、もちろん営業温泉ではなく、木造トタンぶきの小さな湯小屋を建て近所の人に開放していたもので、湯舟は一つ、畳2枚ほどの簡素なもの。底の中央部からこんこんと大量の単純泉が涌き出ては流れさる、見知らぬ土地で見つけた素朴な山里の湯であった。今は湯小屋も大きくなり、男女別々に分かれ自然石造りの湯舟に、休憩室も備えた立派な建屋に変わったが、裏耶馬の奇岩寄峰に囲まれた自然の中に溶け込むような、まろやかな湯は変わらない。

 からっぽになった頭(の中)とお腹がお土産では、待ちくたびれ、心配症候群の母上の機嫌取りにはならぬと思い、湯上がりに売店でこの湯の女主人手作りのこんにゃくを一つ(200円)買い求め600円手渡すと、他の客人の相手で忙しそうな女主人兼売店担当兼西門家の家長兼一人暮らしの未亡人おばあちゃん(名を西門千代子という、70才)は怪訝そうなまなざしで「お兄ちゃん、200円ばい」と思ったとおりの返答。「2人分の湯銭も含めて600円なき」と宣うと、湯上がりのまどろんだボクの表情を見つめながら「あ〜ら、入るとき貰わんかったかねぇ」と、おおらかな声と表情が印象的であった。

 山里の貴重ないで湯を二点稼ぎ、温泉と文化の接点は自然環境の中で湯をマイペースで愉しむことではないかと考えた。より深い日常の時間にそこで触れることのできるような小湯行から“おゆぴにずむ”としてのいで湯文化は開けるのだ....。という持論を推し薦めようと目論だが、いくら『文化の日』でもからっぽ頭ではこれ以上の推論は無理なようでやっぱり、“おゆぴにずむ”は山のいで湯とビールに限るということかな、という単純明快な結論が出たところでおしまいとしたい。     (平成4年11月3日)

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