山のいで湯愛好会主催
 ミニミニトライアスロン大分大会(1985.3.1)

MINI MINI TRIATHLON OYUPINIST CHAMPIONSHIP OITA

   

−総括−
 栗秋和彦
 いま、トライアスロンがおもしろくなってきた。水泳、自転車、ランニングと連続して行う苛酷かつ陽気なスポーツ。コンペティション(競技)とフェステイバル(お祭り)が同居する不思議なスポーツ。トライアスロンがエリートスポーツマンの独壇場であったのは、もう昔の話である。いまや完全に3つの種目のルネッサンスが、トライアスロンに見えてきた。

 ここ1〜2年、本場ハワイ島・コナでのアイアンマンレースをはじめ国内でも、皆生、湘南、小松・・・・新たに宮古島、琵琶湖とターゲットをヤングアダルト(精神的に。オユピニズム同様決してミーハーのスポーツではない)に絞った気品高まる大会が次々に開催され、イベントのショーアップ化も急激に進んできた。そして我会では、スポーツオユピニズム実践のためのトレーニングとして、トライアスロンに熱い視線を送ってきた。
 「今こそ、我々の手で大会を開く時期にきているのだ」とオユピニズム神の声により悟るに至ったのだ。昨年11月のことである。

 さて問題は、開催する時期と場所、スケール、それに出場者数の枠である。先ず、人数はどのくらいが適正か。会主催でもあり、派手な宣伝はしないことに決めたものの、我が会のname valueからしてロコミでも大勢のアスリートから問合わせが来ないともかぎらない。競技役員の確保も必要なので、エントリー数がふくれても困るからだ。

 次に時期及び競技スケールとしては、若干のトレーニング期間の確保と第1回ということで誰にも気楽に参加できるよう、本場ハワイのアイアンマンレース(水泳3.9km、自転車180.2km、ランニング42.195km)の約8分の1のスケールが妥当であると判断し、3月10日の開催、水泳0.5km、自転車20km、ランニング5kmとした。さて残るは場所である。3月では海では泳げないし、ボランティアの数も圧倒的に足らない。安全の確保という観点からも、水泳は大分市西浜の市営温水プールで、自転車及びランニングは場所を移し大分川河口のサイクリングロードに落着いた。

 早速、大会要項作成及び事務局を設定し、全国にまたがる会員諸氏に配布するとともに有志でミニ合宿を開いたり、山(湯)行においては意識的にランニングをとり入れたり、自転車では大分〜由布院往復タイムトライアル等を行なったりと着実にトレーニングを重ねてきた。そして予想されたオユピニスト6名も出揃い、また一部、部外にもれた大会要項が地元ローカル誌「週刊女性大分」の目にとまり、事務局長のインタビューならびに大会案内が掲載されるや、ヤングギャルを中心とする会員外の参加も多少なりともあるに違いないと読んだ。しかし大勢つめかけた場合、特にプールはコースを借り受けた訳でもないし、スタートもできないぞと事務局では心配の種はつきないまま3月10日を迎えることになった。

 肌寒い朝ではあったが、高曇りのまずまずのコンディション。さあ12時。温水プールの駐車場でいよいよ受付開始である。ところが伊藤、栗秋、挾間の順で受付は終えたものの、4人目以降が現われず競技スタートの13時も目前となる。会員外の参加はなくても、せめて予定の6名くらいはという気持に変わってくる。しかしついにサロン派オユピニストの面々は現われず、13時丁度、加藤大会審判長の競技開始の発声で、大分では初めての歴史的大会は3名でスタートをきったのである。

 先ずは0.5kmの水泳。幸い、2コース程が空いており、充分すぎる広さ、水温は審判員より29℃と発表された。計算上は25mプールを19回夕ーンすればゴールなのだが、得意な栗秋にとっては距離が短かすぎ、挾間、伊藤にとっては未知の異体験ゾーンというのがスタート前の気持であろう。栗秋は50mを1分のゆっくりしたペースで独泳する。追上げがないので9分55秒の平凡なタイムでゴールイン。反面、2、3位の争いは興味深い。400m付近で疲れのみえた伊藤を、マイペース平泳ぎの挾間がかわしそのままゴール。1位との差は6分以上、そのとき3位入賞の伊藤は25m後方を最後の力をふりしぼっていた。

 戦前の予想では、クロール泳法の伊藤が2位を確実視されていたのだが、トレーニング不足は否めない。特に水泳はエアロビクス運動の典型であり、呼吸が不規則になると(リズムが狂うと)、とたんにペースが落ちたり、恐怖感におちいりやすいものである。自分のペースを知りイーブンペースで泳ぎきることが長い距離を泳ぐコツなのである。

                 
  
 次は、舞台を大分川河口サイクリングロードに移しての自転車競技。風冷たく春先特有の河口から上流に向かって吹く風がけっこう強く、選手たちを悩ませそうである。ここは往復で7.1kmあり、3往復21.3kmのレースとなる。水泳のタイム差でスタートする方式をとったため、2位以下に6分以上の差をもってのぞんだ栗秋はこのときすでに勝利を確信していた。フルトライアスロンならいざ知らず、短かい距離での6分差はそう簡単にくつがえされるものではない。自転車の差にして3km程になるからだ。特にこのコースでは1本道の往復で折返し後、すれ違う地点を覚えておけば、相手のスピードによって力をコントロールしながら走ることもできる。

 結局、21.3kmの自転車部門で栗秋は43分30秒でゴール、以下挾間44分9秒、伊藤49分33秒と2位以下に更に40秒以上の差をつけ独走体制を築いた。そして最後の種目ランニングは、自転車のゴール地点から河口へ向かって2.5kmの道のりを1往復するコース。自転車のゴール時点から走りだすまでの着替え等に費す時間はランニングの時間として扱うので、あまりのんびりもできないが、孤独感から解放されるひとときである。ジュースを飲み、ゴールをあずかる加藤審判長や、この時刻になって駆けつけ応援にまわっている高瀬、宮崎らと言葉を交えた後、ランニングのスタートにつくが走りはじめは思うようにピッチが上がらない。自転車の後のランニングは足が硬直しており、1〜2kmまで走らないと感覚が戻らないのだ。これほ出場者3人の共通した感想であった。



 第1回 ミニミニトライアスロン オユピニスト チャンピオンシップ オオイタ 全記録
総合順位 氏名(年令)  水泳   順位  自転車  順位 ランニング 順位 総合タイム
 1   栗秋和彦(32)  0:09:55  1    0:43:30  1  0:24:40   2   1:18:05
 2   挾間  渉(36)  0:16:06  2    0:44:09  2  0:23:36   1   1:23:51
 3   伊藤道春(29)  0:16:36  3    0:49:33  3  0:28:52   3   1:35:01

 このランニング部門は挾間の得意な分野であるが、距離が5kmではいかんともしがたく、差を少しでも縮めるのが精一杯である。24分40秒かかってトップでゴールインした栗秋から遅れること5分46秒、所要時分23分38秒で挾間がゴールイン、最終走者の伊藤は更に11分後、満足しきった表情でゴールに飛び込み第1回ミニミニトライアスロン大会は少入数ながら、成功裡のうちに幕を閉じたのである。初めての試み、そして少人数で各人マイペースのレースとなったこともあり、少々緊迫感に欠けるきらいはあったかもしれないが、ベストを尽した満足感は何物にも替えがたいものである。
 特にエントリーを予定しながら、応援にまわった会員諸氏には、このレースを観て血わき、肉おどるものがあったに違いない。

 「挑戦するって素晴らしい」、キャッチフレーズだけでは言い尽くせないものがトライアスロンにはあることを、出場者はもちろん応援にまわった、サロン派オユピニストの面々にも解かりかけてきていると見た。

 しかし、もちろん安易に取組むべきでないことも確かである。充分な安全対策が施されなければならないし、出場者にとっても納得のいくトレーニングと楽しく参加する心のゆとりが一番必要である。これはオユピニズムに相通じるものであり、究極的にはスポーツオユピニズムをきわめるための手段として位置づけていることからも当然ではある。
 「さあオユピニスト諸君!次回は10月上旬「第2回クオーター・トライアスロン・オユピニスト・チャンピオンシップ・オオイタ」と銘うって、水泳1km 自転車50km、ランニング10kmの世界に挑戦しよう。新しい世界がもうそこまで来ているのだ!

トライアスロン大会に参加して  伊藤道春
 山のいで湯愛好会主催のミニミニトライアスロン大会が、昭和60年の年初めに開催されると聞いて以来、暇をみつけて、時々トレーニングを続けて来た自分であるが、いざ大会当日、開会式場の大分市営プールへ行ってみると、なんと、参加者は、挾間さんと栗秋さんの2人、優勝候補と予想されている人達だけで、自分のライバルとマークしていたMさんは来ていないし、Tさんの姿も見えない。しかし、審判員兼観客の会長と荒金女史はすでにかけつけており、大会の開会は寂しいながらも決行されることとなった。第一種目、水泳の500mで、この種目は、3種目の中で、自分が何とか最下位をまぬがれるのではないかという望みのある種目であった。

 寂しいながらも、3人の参加者により、第1回ミニミニトライアスロン大分大会の歴史的スタートが、会長のかけ声により、切って落とされ、長い苦しいレースが開始された。スタート直後の50mまでは、水泳を得意とする栗秋さんに何とかついて行ったが、調子良かったのは、それまで、すでにスタミナ切れとなり450mが途方もなく長い距離に思われた。200m付近までに、25mの差をつけていた、挾間さんとの差もちぢまり始め、400m付近で追いつかれ、ゴールした時には、逆に25mの差をつけられ、屈辱の最下位のゴールとなった。第2、第3種目は会場を、大分川河川敷へ移し、水泳のタイム差を持って、自転車競技がスタートされた。当然のことながら私は、最終のスタートである。自転車は20kmであるが、20kmなんて走ったことがないのでどの位で走れるのか、見当がつかない。

 ライバルに聞いたところでは、45分程度で、50分はかかることはないという。自分は、50分で走れるかと心配となったが、自転車は、バテててきても、水泳のようにおぼれて苦しむことはないだろうと、何となく安心する。スタートして河口の方へ向って走りだすと、折からの向い風により、思ったほどに自転車は走らない。走って行くうち、トップでスタートした栗秋さんが、すでに折返して、こちらに向って走ってくる。なかなか軽快な走りっぷりである。自分もあんなに軽快そうに見えるのだろうかと思う。栗秋さんが手を上げて通り過ぎて行く。ライバルであるが、すでに競争という気持はなくなっている。差があまりに大きすぎるのである。しばらく行くと挾間さんが、軽快に走ってくる。これまた、かっこよく手を上げて、通り過ぎて行った。自転車は、3往復するのであるが、すれちがう場所が、だんだんと手前になって行く、残念であった。

 自転車競技を何とか終えて、マラソンに移った時は、もう惰性である。何とか棄権だけは避けて完走しようと、最終種日に臨んだ。自転車を降りてからの走りは、足がこわばってしまっており、自分の足で走っている感じがしない。これで、2.5kmを往復できるかと、これまた心配となってくる。1kmを走ったころで、やっと感覚を取りもどす。栗秋さんは、すでに折返してきており、あと少しで終りなんだなとうらやましく思う。折返し点の相当手前で挾間さんとすれちがう。ずいぶん差がついてしまった。折返し地点にたどり着き、審判員の荒金女史に、競技の最終を告げ、復路は、いっしょに走って帰ることにする。荒金さんが、なかなか調子が良いので、こちらもペースを上げられる。1人だったら、もう少し楽に走れるのにと思い乍らも、男の意地で平気そうな顔をして必死で走る。途中で荒金さんが疲れて歩きだしてくれたので、やっとマイペースで走れるようになる。ゴール地点の鉄橋が、遠くに見えながら、なかなか近づいてこない。

 ガンバレ、ガンバレと自分に言い聞かせながら走る。ゴールが近づき、加藤さんが、自転車に乗っているのが見える。何だか、最後の力が出てくるような気がする。フラフラになりながら、やっとゴールにたどり着いた。長く苦しいレースであったが、終ってみると、もっとやれるような気がしてくる。不思議である。今度の大会は、もう少しトレーニングをして、タイムアップをしようと、新しい決意をしながら、二次会の酒宴に臨んだ。

宮古島にむけて    挾間  渉
 いつの頃だろうか、トライアスロンを意識するようになったのは‥‥。たしか、あれは数年前TXのコマーシャルで、初老の人が「カキ肉エキス」を飲んで奮闘し、鉄人レースを見事完走するシーンを見てからであり、その初老の人が今にして思えは、トライアスロン九州界の第一人者、熊本CTC(クレージイトライアスロンクラブ)の永谷誠一氏であったとは。そしてその頃は、トライアスロンなどというものは別世界の人間のなせるわざで、我々とは無縁のものぐらいにしか思っていなかったわけである。

 そのトライアスロンが、かなり身近に感じられだしたのは、昨年筑波学園都市への長期出脹の折からである。私と一緒に仕事をしたり種々お世話になった人々の中に、たまたま筑波学園都市のトライアスロンクラブである筑波鉄人会の会長、松田氏や会員がおり、彼らが仕事の多忙の中、寸暇を惜んでトレーニングする姿を見て非常に心ひかれるものがあり、その時から私の心の中に、アイドリングが完了した状態となっていた訳である。後は、いつ、どのようなきっかけで火がつくかという状態の頃、折しも、昨年の12月の暮れ、当会会員の栗秋が、すごいドロップハンドルの軽快車に乗って大分から宇佐へやって来た。そして、その自転車を「しばらく乗ってみてよ」とさりげなく置いて帰ったのだ。彼の意図は十分呑み込めた。時を同じくして同好の士を得たわけである。その時から日ならずしてBIKEを入手したのは言うまでもない。

 さて、大分県トライアスロン界にとっては歴史的ともいえる県下初のトライアスロンレースの展開と結果は前2者によって詳述されているので重複は避けることとし、とにもかくにも前評判(今大会の1つの興味は、若い栗秋か、中年の挾間か…にあり、6:4で挾間やや有利の声が多かった。)とは裏腹に小生の完敗に終った。しかし、これはフルトライアスロンへのほんの一過程にすぎないわけで我々のトライアスロンにおける大きな目標は、ハワイのアイアンマンレースと言いたいところだが、カネとヒマの関係から無理、せめて、来年の第2回宮古島大会におかれることとなり、そこでの対決を当面の目標としよう。既に、第1回宮古島大会の結果を分析すれば自明のとおり、水泳と総合順位との相関は極めて低い。つまり、水泳の不得手は、宮古ではさほど気にしなくとも良いという結果は、数字が如実に示している。今回は、大分県トライアスロン界第1人者?の誉れは、栗秋に譲ることになったが、「我に勝算あり‥」なのだ。既に宮古島にむけての熱い戦いは始まっている。

 四十路に手の届きかけた中年男が、近所の陰の声(とかく職員住宅などというものは、変ったことをすれば目立つものである。)を意に解せずといったところであるが、早朝のマラソン、自転車こぎ、夕方の水泳教室などの目まぐるしさには、それなりの理屈づけも必要である。それは、我が会が、世間が「温泉道楽」としかみないものに、そこら辺のミーハー族と一線を画するがための、「おゆぴにずむ」なる一般には理解しがたい気高い理論武装をしたとき(「おゆぴにすと」創刊号、おゆぴにすと−その由来と解説参照)と同様にである。その辺のところは本特集の総括で栗秋が書いているように、オユピニズムの実践的行為を目指すためなのである。

 つまり、ちょっと説明がむずかしくなるが、本来、登山という行為は、体力、気力、技術など、その身体的基盤がしっかりしたうえでなされるものであり、山に登ったものは、自分の登山がいかにハードなものであったかを前面に押し出して表現したいのである。ところがオユピニズムなる行為には、本来登山におけるハードネスや、感動が含まれているが、そのハードな部分をさりげなく…あるいはさらりと流し、むしろ登山という行為の周辺に付随するソフトな部分だけを強調しようとするものであり、とりようによっては大変キザなものとも受け取れる。

 例えていえば、ヒマラヤの奥深く人跡末踏の秘境の、まだ誰も垣間見たこともないところに、コンコンと湧く出で湯があったとする。如何なる困難をものともせず、その地にたどりつき、眼下の氷河でもながめながら悠々然といで湯に浸る…オユピニズムの究極はここら辺にあるように思う。一見した温泉道楽から受ける印象とは遠い、オユピニズムとは実際には大変に体力のいる行為なのである。しかもその行為は、生涯行為なのである。その生涯行為をささえるための生涯スポーツ(トレーニング)として、我々が見い出したのがトライアスロンなのである。

 では、何故、宮古島なのか‥・・いや、決して主客転倒ではない。人は皆、チャレンジ精神をもっている。水泳3.0km、自転車136.0km、マラソン42・195km・・・・この宮古島における過酷なレースに挑むことは大変な冒険のようである。だが決して我々は冒険を侵かそうというのではない。もともとこの「冒険」という言葉は大変嫌いな言葉で、この言葉には、無節操、無計画、ただやみくも、猪突猛進という響きがある。

 周到に計画され十分なトレーニングと計算されたうえでの困難へのチャレンジは決して冒険ではない。それは自己のパイオニアワークである。その自己のパイオニアワークの実践が宮古島であり、そのむこうにほオユピニズムを極めるという更に大きな自己のパイオニアワークがある。フルトライアスロンにおけるFinisherは当面の目標とするところだが、我々の最終日標は山といで湯、いや、究極は、「我々なりの山」におけるFinisherとなることであることを強調しておきたい。

back