クリさんの山のいで湯行脚−その3− 
卑弥呼の里の山城・竜王山と周辺の湯   栗秋和彦

 '84年夏、我会の機関誌「おゆぴにすと」創刊号の発刊を記念して、阿蘇野白水温泉黒岳荘にて集会(宴会)を開く。この席上、挾間より「宇佐温泉知っちょる? 俺、入ったぞ!」、「院内温泉は? 俺、知っちょるぞ」と彼の次男にも似た口ぶりで言うに及んで、是非ともすぐに浸りたいと思い、本日の行動となった。そして、この行程途中にある安心院の竜王山(315m)も組み入れることにする。この山については後述するが、安心院盆地のほぼ中央に位置し、標高こそ低いもののこの地の歴史の変遷を見つづけた山なのである。

 先ず、宇佐市橋津の挾間宅までは娘の純子と加藤の3人道中。R10を北上し宇佐駅手前300m程、R10沿いに宇佐温泉・民宿「みずほ荘」があると聞き、ここを第1点目と決める。新築間もない大きな建物で民宿というより割烹といったところ。1階は和風レストラン、2階は宴会場か。そして宴会出席の場合、入湯科は無料となっており、風呂商売ではなく、宴会の客へのサービスのための温泉といった感が強い。入湯のみも可で、もちろん我々はこちらの方。昭和58年10月25日の大分県公害衛生センターの温泉分析鑑定書があり、28℃の単純泉を加熱する温泉で珍しい泉質でもないが、築後間もないこともあり小ぎれいな浴槽が印象に残る。

         
                     宇佐温泉・民宿「みずほ」の湯

 ここから車で5分も走れば挾間宅である。昼食どきに合わせての到着で、はからずも食を得ることになり恐縮する。これからは挟間と彼の次男坊・壮史を加えて5名で院内温泉へと出発する。

 先ず、宇佐のメイン、法鏡寺から玖珠へ抜けるR387を南下。院内町の役場を過ぎ約3kmで飯塚という集落。ここでR387に別れ左の細い山路を2km進むと上余(かみあまり)という丘陵地帯に点在する集落が現われる。ここに挾間が伝えきいた院内温泉・町営老人憩いの家があるはずなのだ。と探す間もなくすぐ解かる。田舎、公営で新興の温泉とくれば広い敷地に新しい建物を探せばいいからである。

 余川のすぐ近く、丘陵地符の一角に長方形の平屋敷、この建物に比しても広すぎる敷地、入口に大きな石塔(または石碑)と樫の木があり、外観はグランド付きの村の公民館といったところ。広場がもう少し整地されれば、温泉に浸り休憩をして更にゲートボールまで楽しめる文字どおり老人憩の家になろう。
 大きなテレビが一台ポツンと置かれている部屋では酒の少し入った感のする老人会の一行が大ぜい、にぎやかである。

 甚平を着こんだ管理人のおじさんは我々を見てすぐ他国者とわかったのだろう。温泉のこと、村のこと、色々しゃべってくれる。それによれば昨年(昭和58年)早々に飲料用の井戸を掘っていたら湯がでてきた。どうするべ?ということで、町議会にかけて現在の姿になったそうな。今年4月4日のオープンということで、町外の者はあまり存在を知らぬのも当然だろう。

 風呂はタイル張りの大きなもの、新しくて清潔。46.8℃の単純泉がタメマスを通り壁から湧き出てくるしくみ。けっこう熱く大量の水を加えて適温となる。子供たちと加藤の喧噪にあきらめたのか、湯浴みを楽しんでいた2、3人のおじいさんは早々と退散してしまい、一寸気がひけたがその後挾間まで加わって湯遊びに興じている姿を見て、自分だけは冷静にならざるをえない現実を悟った。

          
 
                院内温泉・町営老人憩いの家 ↑↓

          

 さて次は一旦R387へ戻り、前進して安心院盆地の竜王山へ行こう。
 この山については、大分登高会々報「登高」第28号(1968年2月)で三浦忠之氏によって詳述されているが、要約すると、14世紀(鎌倉時代)の初めに宇佐神宮々司、公泰が宇佐八幡の神意に従ってこの山を神楽城として創築し、安心院16村の地頭を兼ねた。その後、14世紀中頃(建武中興の頃)豊前守護職、宇都宮冬綱が借用して抱城とし、子親綱が入城、竜王城と改称し以来この山を竜王山と呼ぶようになったという説が一般的である。

 この山城は1639年廃城となるまで、戦乱に重要な役割を果し、大友氏をはじめ幾多の主を迎え戦乱の世を見つづけた山なのである。麓の竜王から車道は中腹の寺までのびており、車はここまで。後は踏み跡までおおいかぶさっている草いきれの中を半ばヤブこぎの状態で登るが、山頂まではわずかである。
 山頂付近は大分国体のとき整備され公園になっていると聞いていたが、かなりの年月が経過していることもあり樹木がおい茂り、視界は東方が一寸開けているのみで期待していたパノラマは得られず、またヤブ蚊多しで早々の下山となる。最近はあまり登られてないのだろう。栄古盛衰、この地の民ににらみをきかせてきた山城も今ではヤブ山のうらぶれた感がしないでもない。
 
もし芭蕉がこの地を訪れていたなら「夏草や兵共が夢の跡・Part2」と詠んだであろうと勝手に想像しながら、安心院温泉・町営老人憩の家へ向かう。この温泉ほ安心院の中心地下毛から別府へ抜ける県道を約5kmの地、安心院町大字津房の集落の外れ、院内温泉と同様広い敷地に赤い屋根の平屋建てがそれ。越屋根のある湯小屋がこれにつながっており一目で温泉とわかる。そのすぐ裏手が丘陵、周囲は民家と田園という環境にある。   

 そもそも安心院温泉といっても範囲が広く、安心院町10km四方に点在する温泉の総称であり、この老人憩の家は昭和53年のボーリング、翌54年2月の開園で現在6〜7ケ所町内で温泉が湧出している中での第1号の温泉、一番歴史のある温泉なのである。

 その後、大字下毛の家族旅行村に町営温泉センターが誕生(第2号)したほか、民営3ケ所、更に町の特産スッポンの養殖用に温泉を掘りあてるなど次々に誕生し現在にいたっているのが安心院温泉の小史である。

 この老舗、老人憩の家も村の老人たちの湯浴みでにぎわっており、子供連れは我々のみ。人の良さそうなおじいさんが湯銭の番。大人180円、小人50円を払うと「ごゆっくり!」と意外にも若々しい声で、一寸はビックリ。広い浴室に大小2つの浴槽。50℃の単純泉が大量に湧出する。奥の小さい方は熱く、手前の浴槽はかなりの量の水を流しっぱなしにして丁度適温である。

 例によって、ヤングジェレネーションを中心に本日3ケ所目の湯浴み運動会となったが、私はといえば半ば湯あたり気味で、早々と退散する。盛夏ゆえ、外気から熱せられ、また湯から熱せられ長湯は禁物であろう。

 ここで案内役の挾間親子と別れ、東椎屋の滝でちょっぴり涼を求め、十文字原経由で別府へ抜ける。そして本日4ケ所目は別府アルプスの山ふところ、昼なお暗い内山渓谷の真っ只中にある秘湯「へびの湯」に浸り薄暮の帰還となった。

         
                  別府内山渓谷のへびの湯

 なお、「へぴの湯」についてほ「別府の秘湯巡り」(仮称)として次号に掲載予定である。
      (昭和59年7月28日の入湯)

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