石鎚山 年の瀬日だまり紀行     栗秋和彦
 今回、唐突に“厳冬期”石鎚山行を言い出しのは、恥ずかしながらワンディ・ハイカーの域をなかなか脱しきれず、齢を経るごとに日和見傾向が顕著になってきたこの私である。従って、“厳冬期遠征”などと挾間兄が好みそうな言葉を並べたててはみても、ロープーウェイを利用してアプローチを短縮せしめ、なるべく楽をして荘厳な冬景色を味わおうと、都合のよい発想が根底にありありなのは、予め告白しておこう。

 しかし待て待て、もっと以前から、冬の石鎚にのめり込んでいる挾間兄による“厳冬期石鎚”への喧伝作戦にまんまと乗せられて、口火を切ったにすぎないと言う見方もできよう。何故なら、彼の常套句である「冬の石鎚を九州の山々と同一視したら大きな過ちである。山頂付近の積雪はゆうに2mを越え、岩峰で形成される頂稜部は氷雪の穂高や剣岳の世界と遜色なく、真のアルピニストだけに許される聖域なのである!」に洗脳されつつある現実を認めてしまうのである。

 そしてもう一人、その“甘言”に嵌まった重症患者が、新婚にもかかわらず新妻をほったらかし、寒い思いまでして、おじさんたちと週末を過ごすことを選択した矢野君であった。しかし色々御託を並べても、氷雪に覆われた主峰・天狗峰のそそり立つ岩峰を想像すれば、まっこと血沸き肉踊るものがある。結果、3年前の秋、石鎚山〜堂ケ森縦走以来の中年おじさんトリオ固定メンバーによる“厳冬期”のライト・エクスペディションが華々しく挙行されたのだ。

 ところが今年は暖冬である。さすがの挾間兄も今回はいつもの気宇壮大、果敢激闘的な口振りは認められず、トーンダウンは否めない。曰く「石鎚の積雪は統計的に見て伯耆大山中腹の中の原ゲレンデとほぼ一緒であるからして、今回は雪、殆どないとちゃうやろか」と心もとない。「まさか九重の趣ではなかろうね」と追い討ちをかけると、“厳冬期石鎚”に対するこだわりは並のものではない挾間兄である。キッと踵を返して「しかししかし、二の鎖から上部の北面登攀は暖冬とは言え、氷雪の世界であろうぞ。侮ってはいかんぜよ」と彼のワニ眼が不気味に光った。

 27日未明、石鎚ロープーウェイ山麓下谷駅に近い“西条少年自然の家”前の神社の境内に勝手に張ったキャンブサイトでのひとこまである。期待と不安が交錯して、山の神を崇めるような新鮮な気持ちがしばし溢れたりもしたが、小宴会が進行すると、やっぱりいつもと変わらぬ猥雑な宴に至ったようで、こりゃあメンバーが悪いとボクは密かに思ったものだ。しかし山懐に抱かれて一夜を過ごす雰囲気はいいねぇ。登攀前夜、大いなる期待と少なからずピリッとした緊張感が交錯したひとときを、気の置けない仲間とちょっぴり酩酊した中で語らう時間は何ものにも替え難い、と思うのだ。おっと早く寝なくては....。

 さて27日朝、谷底(山麓下谷駅)はもやっていたが、ここ標高1280mのロープーウェイ山頂成就社駅では、超満員のスキーヤー(ほんの一部の登山者、つまり我々3人組を除いて)を吐き出し、俗世間を山上に持ち込みつつも、快晴のきらめく陽光が我々を迎えてくれた。まさにここは四国の屋根とも言うべき伊予富士〜瓶ケ森〜子持権現など周りの尾根群と肩を並べる位置まで達している高地なのだ。スキーも出来る筈だしね、と矢野君宣うも、周辺には全く雪はない。

 そこで挾間兄は言い訳がましく「前回はここいらでも30aはあったんぞ。こんなもん、珍しいホント!」と弁明に努めなければならない。まぁスキー場の方は今やジョーシキとなった人工降雪機を備えているので、ドヤドヤと降りた若輩男女スキーヤーの大半は、土道をスニーカーで闊歩しつつ、木々の向こうにその部分だけ真っ白化した斜面を認めて、一様に期待顔で済むが、ザックに括り付けたピッケルやアイゼンの存在がやけに空しい、我々の出で立ちはどうなんだい、と少なからず力んでしまうのである。

 で、足取り重たく25分ほどで成就社(1400m)に着く。とマァ、これはボク個人に限ってのことだけど、師走も押し迫って一年の疲れがドッと出たためか、微熱も加わってはなはだかったるく足取りが重たいのである。この時期この時刻、参拝者や登山者などの人影もなく、社を囲む3軒の旅館もひっそりと静まりかえり、寒々とした雰囲気に包まれて、まるでボクの心理描写そのものではないかとなどと刹那的に思ってしまう。しかしここは気持ちを切り替えて、いよいよ本峰へ“アタック”開始である。そしてこの門前町(?)の城門とも言うべき鳥居を抜けると、ゆるゆると続くブナやミズナラなどの自然林に抱かれ、道すがら冬枯れの森に木漏れ日が降り注ぎ、学術探求路とも言える趣に、“アタック”と形容するにはあまりにも気恥ずかしい小徑散策であった。

 もちろんこの辺りでは雪は殆どなく、しかも下谷からの旧来の登山道が合流する八丁まではどんどん下ってしまうので、片道千円も投げ打って人工的に高度を稼いだのに、もったいない気持ちばかりが先行してしまうのだ。そしてビデオカメラを廻しながら「この辺でもラッセルしたんだがなぁ」と昔の栄光(?)活躍体験話の主はもちろん挾間兄だが、とにかく本峰北壁を早く仰ぎ見ることが先決である。

 で、そろりそろりと常に最後部の被写体として捉えられながら、雪道となった前社ケ森の急坂を詰め小ピークを越すと、本峰北壁がまだら模様の雪片を配して眼前に覆いかぶさってきた。3年ぶりに見るその迫力は、おだやかなクマザザの丘陵にそびえ立つ凍てついた巨大な城壁を思い描いてしまい、その圧倒的非対照風景が石鎚北面の魅力だ!なんて構えてみたりもしたいところだ。もっとも体調はあいも変わらず、ヨロヨロとやっと付いていくと言った塩梅なので、景色などを愛でる余裕なんてありもしないのだけどね.....。
 そしてようやく北壁の取り付き、二の鎖小屋に辿り着いたところで、元気印の挾間隊長はちょっとした決断を迫られることになった。体調不良・日和見偏向主義者の己とその支援者(?)新婚・矢野が唐突に、ここ二の鎖小屋に泊まり、軽装で山頂往復をしようとの提案を突き付けたからである。鎖場ルート(二の鎖、三の鎖)はもちろん避けて巻き道を採るにせよ、重荷を背負ってきわどい登りをするよりも、目先の楽ちん志向が強く働いたことによる。

 しかしこれに反して隊長の見解は“否”で、自信に満ちたお言葉があったのだ。すなわち「クリさんよ、よ〜く考えてみなはれ。“厳冬期”とは言い難くも、西日本一の高所、石鎚山頂小屋で一夜を明かすことは滅多にない経験ぜよ。霊験新たかな山頂上宮社の神の御加護で身を清め、壮麗な御来光の恩恵に預かるチャンスをみすみす逃すことに男として耐えられるかな?」とのレトリックを駆使した仰せには正面きって抗しきれない。「仕方ないか、年の功を重んじて従う他なかろうて」ボクは新婚・矢野に目配せをして、半ば鉛化した身体のまま山頂を目指した。

 さてここから山頂まではやっと本格的に氷雪の世界(とボクは誇張して言いたい!)である。ザックの端で眠っていたピッケルとアイゼンを駆使しての登山となるが、ボクのアイゼンは思うように靴になじまず(と言うより未熟な締め方の問題であったが)、昔のイメージどうりにキッチリと使いこなすまでには至らなかった。ジグザグした急峻な雪道や岩壁に架けられた外傾した鉄板の階段、重荷に加えて、足元(アイゼン)まで気を使わなければならぬのでけっこう焦る。そこに背後から「アングル(ビデオカメラ)が悪いぞ、もっと早く歩け」などと宣う撮影技師・挾間の嬌声も飛び交い、そのはざまでヨロヨロ、恐る恐るのへっぴり腰スタイルになってしまい我ながらどうもいただけないのだ。

         

 しかしそれも強風吹きすさぶ頂稜に出てしまうと潔く霧散してしまった。二の森から堂ケ森に至るスカイラインや伊予の山々を望み、弥山の頂からは目の前に屹立した天狗峰を、背後には阿波・剣山から土佐の峰々に至る四国山地の累々としたやまなみを確認すると、今日の終点をここにしてよかった、と簡単に“転向”してしまうのだ。

 なるほど挾間兄の言を繰り返すまでもなく登ってしまえば、みはるかす天空の“城塞”で過ごすのに何のためらいもなかろう。そして時はまだ昼まっさかりである。外野席からは、この時刻から山頂で一泊なんてどう身を弄ぶんだい?、なんてやぼな質問も想定されるが、疑念など湧く余地もない。何故なら身も心も既に山頂上宮社のすぐ隣にある小ぎれいな避難小屋で昼食宴会の段取りに忙しいからだ。もちろんこれが連続して夕食大宴会につながり、更には各々が中年性脆弱酩酊症に陥らなければ、夜更けの小宴会にまで及ぶ筈なので、一時しのぎの取り組みではおさまらず、周到な準備に余念がない。自発的にいそいそと、下界では考えられぬおじさんたちの習癖なのである。

        

 でまずは昼食宴会を午後1時過ぎから華々しく開催した。事前に酒類は全て明かり採りの窓に近い荷物棚に陳列して、皆々の視覚に訴え、各々心安らかな雰囲気を醸し出そうと演出を図った。して、その内訳は缶ビール一番搾りとスーパードライ、500ml×6本(計3リットル)、臼杵の銘酒“一の井手”500ml×3本(計1.5リットル)。麦焼酎“天まる”紙パック180ml×3個(計0.54リットル)。サントリースペシャル・リザーブ250ml×1本で、これが山頂小屋での一夜を明るく楽しく元気よく過ごすための古典的手段である、アルコール飲料の全てであった。果たして挾間・矢野の酒飲みコンビの酒欲を満たすかどうか、いささか心配な面もあったが賽は投げられたのだ。もう後戻りはできない。(とまぁ、オーバーだわね) 

 ところでメインディッシュの方は、秘伝のスープをポリ容器に詰め下界から荷揚げして、じっくり煮込んだ挾間家特製の“おでん”である。もちろんネタも大量に発泡スチロールに詰め、ボク(の登り)を喘ぎ喘ぎにした元凶なので、不足するような心配はない。むしろひけらかす習癖に負けて(?)、しばし山頂小屋に立ち寄った名古屋から来た中年夫婦へ御裾分けしては、美味万歳・美辞麗句の返答を強要したりして、自家製“おでん”の威力を誇示した模様であった。

 そして味をしめた挾間兄は、後刻到着してただ一人同宿となった大阪の青年(学生)へも働きかけ宴席へ誘い込むのに躊躇はなかった。もちろんボクも秘蔵酒“一の井手”を青年に勧め、車座の一員として迎え入れたが、矢野君のドングリまなこは「酒の“肴”に見知らぬ青年の身辺調査ほどピッタリなものはないわい!」などと訴えていたような気がして、これに促されたきらいなきにしもあらずである。とまれ、この青年、寡黙ながらも我々の“肴”探求心に的確に応えて、宴をおおいに盛り上げてくれたが、彼の身上調査表を公開することがこの稿の本意ではないので割愛することとする。

 で余談ではあるが、実は今回の山行は矢野君にとって、“山のいで湯愛好会”の正会員昇格(?)を諮るオーディションも兼ねていたので、審査員としてはそれとなく注目しなければならない事情があった。ボッカ力も山でのマナーもまずまずの合格点、品行はと言えばいささかの卑猥さが気になるが、妻を娶って薄れつつあることを期待(?)して減点なしとしよう。もちろん会(山のいで湯愛好会)の長老・松田兄などと比べればまだまだかわいい部類ではある。また今や貴重にして人生修行の範となる、封建的山岳会の一員として重要な要素である、宴会準備手順や奴隷順従度合いなどのメンタル・テクニカル・ポイントもそこそこの水準にあったが、この宴の途上、突如彼自身、右脚痙攣に襲われて、しばし神聖なる宴席を乱した(罪は大きい)のだ。

 他のおじさん二人(挾間と己)は知らぬ顔で宴会を続けたが、挾間兄は「格式高い“山のいで湯愛好会”の正会員昇格(実はまた彼は準会員であった?)を諮るこの山行じゃ。登りで張り切り過ぎたかどうかは分からんが、まだまだ修行が足りんのぉ」といつものひとくさりは忘れず、わざとらしく宣ったのだ。もちろん痛みを堪えつつもテスト生・矢野の表情がその瞬間曇ったのを小姑・挾間が見逃す筈はなかろう。トライアスロン等、体育会的ノーテンキ倶楽部などとは区分けして、肉体的鍛練はもちろん、精神修養の完成度を重んじることこそ必須条件たる我会に於ける正会員昇格への道程は遠く険しいのである(??)。

 さて、延々と高尚低俗なんでも有りの宴席話に花が咲いて4時間近くにならんとした、午後5時05分、いつものこだわり話が途切れたと思った途端に、挾間兄は芸術的とも言える直上的昏睡に陥ったのだ。いつもながら見事な変身にしばし見とれるも、状況は暖を採るコンロに頭を垂れつつあったので、見過ごす訳にはいかない。くだんの青年もこの大変身には呆気に取られた模様であったが、機を見て寝袋にほうり込む作業を手伝ってくれたのを、異次元の世界を漂う昏睡おじさんは分かったであろうか。とまれ、その律義さはなかなかよろしいぞ。いまどきの青年一般の水準ではなかろう、などと他愛ない考えが去来する。

 一方、外界は「ぐぉん、ぐぉん」と烈風吹きすさぶ黄昏の山頂と形容すべきか。これもまた疑いなき事実であったが、壁ひとつ隔てた温もりの小世界では、残務整理とも言うべき小宴会がまだまだ続いた。当然ボクは“フカ”の異名を持つ矢野君を相手にマン・ツー・マンの戦いを強いられていた筈なのに、この頃になると鮮明な記憶はあまり残ってはいない。しかしアルコール飲料はすべて消化して、夜食(夕食)には“おでん”入りラーメンを作り、美味かったことだけはしっかりと覚えているので、ボクの酩酊時脳内回路に占める飲食記憶容量だけがやけに大きいのか。そしてこんな些細微粒な出来事だけをしっかりと覚えている、ボクの人格人間性(?)を喜ぶべきか否か、などと人間の本性に迫る高次元な(?)思いは巡らすまい。今や絶頂での外界は、夜の帳(とばり)がしっかりと落ちて漆黒の世界となってきた。そしてどうやらボクの瞼も漆黒となってきたようであった。

 閑話休題、“石鎚山年の瀬日だまり紀行”と銘打った割りには山頂大宴会の成り行きが主体となってしまい、タイトルの意には反する。少しは宴会後の外界風光描写にも触れておかなければなるまい。そしてそれは驚くなかれ、午後11時過ぎ、「ウッ、もう寝れん」と言い出した挾間兄の発声から始まったのだ。その時、ボクにとっては深い眠りについた端緒であったが、この小事件でいやおうなく起こされ、ついでに小用を足しに外へ出たことによる。

 そこで眼下には、真珠の如くきらめく新居浜や西条の夜景、そして天空には満天の星が彩る幻想の世界が開かれていて、まさに高嶺ならではの白黒圧巻絵(?)巻であった。このひととき寒風にさらされながらも、願わくば時間よ止まれ!と念じつつ、しばし時を忘れてしまったのだ。うまくは言えないが、まるで宇宙の果てへ誘なわれるような浮遊した感覚に包まれたのである。あぁ、しかしこの夜景を見てしまってからは残像が瞼に残り、なかなか寝付くこと適わず。もちろん、早すぎた目覚めで何ごとか寝言まがいを発するおじさん一名の相手は辞退したものの、その横で満足しきったような寝息を聞かせる、フカ・矢野弟の騒音不感症なる抗体を、ボクは残念ながら持ち合わせてはいなかったことも一因ではあろうが.....。
 
 さて翌朝、矢野弟のくぐもった猫撫で声が漏れ聞こえたりもしたが、窓にかすかな明かりを認めてボクは自発的に起き出した。御来光を拝まずに、頂で一夜を過ごす意味はないからである。ところが一人、早寝早起きの御仁を忘れていた。既に挾間兄は外にいてボクを促すのだ。もちろん昨夜の印象を忘れる筈はなく、黎明の今に置き換えようと勇んで飛び出すと、外界は度肝を抜かれる光景が展開していたのだ。明るさに天空の星影は消されていたが、この頂から東へ連なる土小屋、瓶ケ森、赤石山に至る山脈の北面は圧倒的迫力で流れ、覆いつくされた雲海で占められていた。しかも足元近くの雲海は本峰北壁に突き当たってはどんどん潜り込んでいく。しかし次々と現れる雲の塊が途切れることはなく、この躍動感には圧倒されることしきりであった。更に時間の経過とともに、孤高を保つ天狗岳のシルエットと絡ませて赤く艶やかに染め上がっていく様は、筆舌ではとても言い表せそうもない。

        

         

 そして三人揃って固唾を呑んで見守る中、7時08分、ようやく雲海を押さえて立ち昇る御来光の一条を浴びることができた。期せずして拍手喝采となったが、さすが西日本一の高峰の名に恥じない荘厳さと立体的質量を感じさせるに充分な景観であった。と同時に暖冬とは言え、気温マイナス9℃の黎明の頂は心洗われ、’97年をドラスティックに締めくくるに格好の舞台でもあったように思う。ボク自身、齢を重ねる度に何事につけ、心や身体で感じることを忘れてしまい、頭で考える事に偏り過ぎてはいないか。何もかもが新鮮で感じるままだった、多感な青年期へ感性を呼び戻すことを、もはや諦めてはいないか、などと煩悶する事が少なくない。しかし少しの勇気とキッカケを用意すれば、山は心や身体を磨いてくれるチャンスを必ずや提供してくれるような気がするのだ。そしてこの御来光シーンはまさにその典型例ではなかろうか、などと反芻してしまう。

 もっとも、この厳かな山頂での3人居並んだ記念写真を後日見た我が奥方は、ぬけぬけと「あら、まぁ、まさにタヌキ(矢野)とキツネ(挾間)と猪(栗秋)の記念写真ね」とほざいてしまうんですね、ホント。神聖な山の霊験新たかな気持ちを、机上の民に簡単に分かって貰う必要はないのだ、などと妙に意固地になってしまうのも、黎明の印象が強すぎる証でもあると言えようか。とまれ、二日間の山行を総括すれば、“年の瀬 日だまり紀行”となってしまう。“厳冬期”石鎚登頂の命題はお預けとなったが、ここはひとつ次回に楽しみを取っておく心の余裕を持ち、再アタックを期するところである。

        
        

        
(コースタイム)
12/26 大分(松ケ丘)18:30⇒車⇒佐賀関港19:50 20:00⇒フェリー⇒三崎港21:10⇒車・(内子〜松山〜伊予小松経由)⇒下谷(西条少年自然の家前) 0:55 (テント泊)
12/27 石鎚ロープウェイ山麓下谷駅8:23⇒ロープウェイ⇒山頂成就社駅8:30 45⇒成就社9:10 21⇒八丁9:42⇒前社ケ森小屋10:28 43⇒夜明峠11:01 05⇒二の鎖小屋11:41 12:02⇒石鎚山(弥山) 12:32 (山頂小屋泊)
12/28 山頂8:47⇒二の鎖小屋下9:12 31⇒夜明峠9:44⇒前社ケ森小屋9:57 10:06⇒八丁10:35⇒成就社10:57 11:32⇒山頂成就社駅11:45 50⇒ロープウェイ⇒山麓下谷駅11:57(石鎚山温泉・京屋旅館入湯)13:17⇒車⇒(伊予小松〜伊予市まで高速に乗る)⇒三崎港16:21 17:30⇒フェリー⇒佐賀関港18:40⇒車⇒大分駅19:30             (平成9年12月26〜28日)

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