院内町立上院内小学校

院内町から本耶馬渓町に抜ける道路沿いにあった学校です。っと中で閉校になりました。その後戻ってきた子どもたちのために院内中部小学校の分校になりました。それも休校になったり再開したりしたりしています。校訓は、不明です。

校歌
 作詞 藤原 信 作曲 真浄 一雄
1 そそりたつ 岩嶺の松にふく風が
  高い理想のゆめを呼ぶ 上院内の学びやに
  ひとみ明るくかがやいて ひとみ明るくかがやいて
  われらはみがく かしこいちえを

2 しゃくなげの 花さく山のこいみどり
  つよい力の雲とわく 上院内のこの庭に
  光をあびてたくましく われらきたう元気なからだ 

3 かじかなく 谷間の流れ行く水に
きよい心の歌をきく 上院内のふるさとに
足なみそろえてうつくしく われらはつくるはえある歴史

   国道から上がった所に学校がありました。    坂の途中の下にプールがありました。
   校舎は、ペンション風です。    講堂は、運動場の上にあります。校舎から少し離れています。
   ベランダも庇がついて明るいです。    分校になってもPTA活動は盛んなようです。

沿革史(院内町史より)
明治 8年 9月17日 定別当村月俣村村、大門村相はかり定別当小学校を定別当村柚の木に設立(下等小学校4年制、生徒数30名あまり)
明治20年 4月 1日 定別当簡易小学校と改称(3年制)
明治24年 1月 1日 大門分教場を大門村に新設
明治25年10月 1日 小学校令の施行により上院内尋常小学校と改称(4年制)
            70人未満なるをもって単級学校と定められる
明治26年 1月    火災を被り備品に至るまでことごとく焼失したため4ケ月間小中圭太郎宅で授業。村長小中謙太郎が、鋭意復興に尽力。
明治26年10月    後任訓導なく暫時閉校
明治27年 4月 4日 26年度定期試験を挙行し補習生5名尋常科18名が合格し修業証書を授与さる
明治28年 7月24日 暴風雨により校舎崩壊。新築中は、大字定別当永田市次郎並びに永田善次宅で授業を行う。
明治29年 4月     校舎新築(藁屋根平屋建て)
明治33年12月    校舎全体壁の中塗りをする
明治45年 4月 1日 院内尋常高等小学校の上院内分教場となり校区を定別当、月俣丘切とする
大正 9年 4月 1日 校舎を増築し五,六年生を本校から戻す。
昭和16年 4月 1日 国民学校令施行に伴い院内村国民学校上院内分教場となる。
昭和22年 4月 1日 学校教育法施行により院内町立院内小学校上院内分教場となる
昭和29年 4月 1日 院内村立上院内小学校として独立する
昭和29年 7月21日 新校舎竣工(建坪100坪、運動場400坪)工事中月俣神社拝殿及び消防小屋を仮校舎として二部授業をする
昭和32年       集会場兼講堂落成
昭和33年 1月21日 文部省指定へき地研究大会
昭和35年       校舎二教室増築竣工
昭和38年        学校給食調理上竣工
昭和48年       図書室完成
昭和50年 9月28日 創立一〇〇周年記念式典 相撲場設置
昭和56年 8月12日 プール完成(25×4)落成式

休校誌
寺子屋、私塾(明治時代以前)月俣、定別当にも寺小屋があり教育がなされていた。
定別当小学校時代(明治8年~明治19年)4年制
明治 5年       学制の公布
明治 8年 9月17日 定別当、月俣、大門の三村で協議 現在地に定別当小学校を設置する
明治10年頃      教員の働きかけで就学するものが増えてくる
定別当簡易小学校時代(明治20年~明治24年)
明治19年 4月    小学校令公布
明治20年 4月    定別当簡易学校と改称し定別当、月俣、大門、浜切を校区とする
明治24年 1月 1日 大門分教場を設置する
1月 8日 教育勅語が拝載される

上院内尋常小学校時代(明治25年~明治44年)4年制
明治25年10月     上院内尋常小学校と改称し4年制となる
明治26年 1月     火災により校舎を焼失
明治27年12月23日 後任訓導なしで休業す
明治28年 7月24日 暴風により校舎が倒壊する
明治29年 4月     校舎を新築する
明治30年 3月27日 進級試験を行い卒業生を送り出す
明治33年 3月10月 12月校舎改築工事を行う
明治40年        尋常小学校六カ年が義務教育となる
院内尋常高等小学校上院内分教場時代(明治45年~昭和15年)
明治45年 4月 1日 院内尋常小学校と上院内尋常小学校を合併し高等科を付設し院内高等尋常小学校とし、上院内分教場となる
大正 2年        上院内分教場生徒60名
大正 9年 4月 1日 校舎増築に伴い5,6年生を本校から戻す
院内村国民学校上院内分教場時代(昭和16年~昭和21年)
昭和16年 4月 1日 国民学校令施行により院内村国民学校上院内分教場となる
院内村立院内小学校定別当分校時代(昭和22年~昭和28年)
昭和22年 4月 1日 学校教育法施行により院内村立院内小学校定別当分校となる
院内村立上院内小学校時代(昭和29年~昭和34年)
昭和29年 4月 1日 本校として再び独立し院内村立上院内小学校となる児童数91名
昭和29年 7月21日 新校舎竣工 工事中月俣神社拝殿及び消防小屋を仮校舎として二部授業
昭和31年        文部省指定へき地教育研究発表会
昭和32年        集会所(講堂)が落成
昭和34年        へき地教育について大分教育研究所と共同研究をする
院内町立上院内小学校時代(昭和35年~平成16年)
昭和35年        町制施行により院内町立上院内小学校となる
昭和37年        校舎二教室分の増築工事 児童数最多130名
昭和38年        給食室竣工 自校給食始める 子鳩公園完成
昭和40年        理科施設の充実 郡指定理科研究教育発表会 鼓笛バンド誕生
昭和42年        職員住宅を設置 相撲場集会所渡り廊下工事竣工
昭和47年        登校路坂道の舗装工事実施 日照確保のために校地内のケヤキ伐採
昭和48年        図書室完成
昭和50年 9月28日 創立100周年を記念、運動場脇に記念碑を建立し記念式典挙行
昭和53年        全国へき地教育研究大会で研究発表
昭和54年        駐車場及びプール予定地整地工事
昭和55年        郡市へき地研究指定研究発表
昭和56年 8月12日 プール新設完了
昭和57年        運動場フェンス取り付け工事
昭和58年        放送室 保健室改築工事
昭和60年        保護者手造りの山の運動公園完成 駐車場設置工事
昭和62年        印内町指定へき地教育研究発表会
昭和63年        登校路石垣工事
平成 元年        学校園造成工事
平成 2年        トイレ改修工事
平成 3年        渡り廊下屋根改修工事
平成 6年 3月 4日 校舎全面新築 運動場改修完成
平成13年        講堂渡り廊下屋根設置 インターネット設置工事
平成16年        講堂屋根瓦葺き替え 窓サッシ改修工事
宇佐市立上院内小学校時代(平成17年~平成19年)
平成17年        安心院町踏査市の合併により校名を宇佐市立上院内小学校に改める
平成18年        地域代表者、保護者、学校と協議 来年度休校やむなしの方向
      10月 3日  第一回休校行事遂行委員会
平成19年 3月22日 第50回卒業証書授与式 地区民参加の休校式、お別れ会

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