佐田の名所

賀来有軒・佐之・飛霞墓


 キーワード: 市指定史跡, 史跡, 幕末
 幕末の三大本草学者、賀来飛霞 および、その兄(佐之)、父(有軒)の墓所です。
 見晴しの良い墓所の中心部付近に、3人の墓があります。
 また、こちらの墓所には、同じく市指定史跡の賀来惟熊碑があります。

 賀来有軒(惟知、千里)は、明和5(1768)年、佐田に生まれた医学者です。17歳で三浦梅園の門下に入り、肥後や京都でも医学を学び、本草学を小野蘭山に学びます。豊後高田で医師として開業しましたが、文化14(1817)年、豊後高田に疫病が流行した際にただひとり患者の診察を続けましたが、ついに有軒自身も感染し49歳で没しました。

 賀来佐之(すけゆき)は、寛政13(1801)年、有軒の長子として豊後高田に生まれました。日出藩の儒学者帆足万里やシーボルトに師事しました。シーボルトは、佐之を「私門人ニ而、何事も甚巧者」と高く評価しています。長崎で蘭学を学んだ佐之は、島原藩領宇佐郡佐田村で蘭方医として再開(文政6年から杵築で医業を開いていました)します。臨床を重視し医療技術を磨いた佐之の腕は評判となり、天保13(1842)年に島原藩医として召し抱えられます。人体解剖や種痘の普及、藩薬園の再開発等多くの功績をあげました。また、文化4(1847)年には、メキシコに漂流して帰還した太吉(島原藩)の見聞を考察した『墨是可新話(めしこしんわ)』を著しています。


  • [参考文献]大分県立歴史博物館(2009)『おおいた発!幕末文化維新-賀来家・華麗なる一族-』
  • [参考文献]安心院町身心すこやか事業推進委員会(1988)『ふるさと佐田』
  •  賀来有軒・佐之・飛霞墓 
  •  博物名家賀来飛霞翁大人碑