11.拒絶

≪あなたはだあれ≫
 無邪気に不思議そうに、けれどほんの少しの警戒心を込めてがささやく。まっすぐ彼を見つめて、見上げて、目をそらさずに彼を見る。
 何も言えない彼に向かって、の表情がゆっくりとしかめられていく。その唇が、ゆっくりと言葉を形作る。
≪あなたは幸くんじゃない≫≪あなたは政宗じゃない≫≪あなたは小十郎じゃない≫≪あなたは佐助じゃない≫
≪誰。何をしに来たの≫
 鋭く睨み付けてくるのまなざしは、拒絶をあらわにしていた。知らないと。己を知らない者だとその目が言っていた。目覚めてより一度も彼にそのような眼差しを向けなかったが、拒絶を。
≪騙したのね≫
 吐き捨てるように舌打ちと共に叩き付けられた言葉は、いつかくると頭では分かっていたはずなのに、彼の心を酷く抉ってきた。
≪最低≫


「ッ!?」
 飛び、起きた。
 目を開くのももどかしく、幸村は飛び起きて布団も蹴飛ばして、そして玉のように流れる汗をぬぐうこともできずに、目の前にある襖を見つめた。
 荒い呼吸は肩を何度も上下させ、天井から部下が何事かあったのかとささやく声にも返答できないまま、ただただ先ほどまで目の前にあったはずの彼女の表情を思い返していた。
 殿に、己の正体が彼女の知るそれではないとばれた、夢。そう、ただの夢。幸村が就寝中に想像してしまっただけの、現実では起こっていない事柄。彼女は昨日も楽しそうに笑っていた。皆で、まるで昔から仲の良い家族のように、幼馴染と言われる間柄のように。
 乳兄弟でもなく、部下や上司でもなく。昔馴染みではなく、幼馴染というものがどのようなものなのかは、の寝言でしかよく知らない幸村は、内心はらはらしながらと接していた。笑って、熱が下がっていることを喜んでいた。
 それについては素直に幸村も嬉しかったが、政宗の弟然とした甘え、佐助の上から目線の叱り、小十郎の諦めを含んだ労りを見ていると、本当に政宗の家族にがいるような錯覚を起こしそうになる。少しの間だけ、己が彼女の幼馴染なのではないかと信じたくなる。
 彼女の部屋から退出すれば、それは夢幻だとすぐに分かるのだが。
 なんのてらいもなく接する三人を見ていると、己だけが混じれないまま立ち止まっている錯覚も覚える。三人はの寝言通りの間柄を容易く演じ、そしてまた武将に忍びに容易に戻ってくる故。
「……騙しているのだぞ」
 口からこぼれた言葉は、常に頭にある。自身の記憶にある人物と、自分たちを勘違いしていることが前提での関係。彼女は違いに気づいていないと佐助は言うが、幸村はそうは思えなかった。佐助を疑うわけではない。けれど、彼女の目が一人一人を見るとき、刹那の間だけ、揺れるのを幸村は見ていた。

≪あなたはだれ≫

 そう言いだけな目。それは本当に刹那。幸村は勘違いだと思いたかった。佐助も報告してこない彼女の仕種。けれど幸村は見てしまった。
 だからか、今見た夢がただの夢ではないと思ってしまう。

≪騙したのね≫

 他の者ならば千も万も理由を伝えられよう。けれど、幸村はそうはしたくなかった。
 他の者はなぜ気づいていないのか。幸村はわからなかった。
 名前を呼ぶとき、彼女はほんの少しだけ拒絶を恐れるように唇を震わす。本当に、風邪での身震い以下の震え。
 そして幸せそうに自分たちを呼ばわるのだ。名を呼べるだけで僥倖とでも言いたげに。幸せそうに、幸福を詰め込んだ眼差しで。

≪ゆきくん≫

 愛おしいと言われている。思われている。幸村がそこにそう在るだけでが幸せになっているのだと、一声耳にし、一目見ただけでわかる。それほどの見返りを求めない愛情。
「……ッ!!」
 そのような顔をさせているのは『ゆきむら』が築き上げてきた関係性故。幸村の手柄ではない。
 相対し会話して笑わせているのが幸村だとしても、彼女の心の中で信頼の礎を築いたのは己ではないことの、なんと口惜しいことか。対峙しようにも向かい合うこともできぬ『ゆきむら』に強烈な感情が浮かんでくる。それが何かは解らずとも、その感情を抱く今、不快感が渦巻いていることは幸村も理解していた。
 は躊躇わずに幸村に触れる。佐助に触れる。小十郎に触れる。政宗に触れる。
 それが当たり前のように触れて、自らの幸せを分け与えるように幸せそうに相好を崩す。

 逆に俺様達から幸せを取り込んでいるかのようにも見えると、佐助がぽつりとこぼすほどに。

 佐助は自分たちに背を向けて言葉を放ったが、次に顔を見たときはいつも通りの軽い調子で笑っていた。佐助自身の途方に暮れたような笑みに、本人はとんと気づいてはいなかったようだが、珍しくどうしていいかわからない様子だった。
 佐助すらも動揺させるに、つい「いつものことだろう」と言いたくなる時がある。殿に振り回されることなど、生まれてからこの方ずっとだといいたくなる時がある。そのようなはずはないと、何度己を戒め言い聞かせそれは『ゆきむら』だと言い聞かせても、言いたくなる時がある。
 佐助と主従関係であることに不満はない。
 だが、殿の言う親戚に兄だというのも、おもしろそうだと思ったのだ。
 佐助について歩いて殿と知り合ったり、政宗殿を介して仲を深めたり。
「……」
 ゆるりと己の額を撫で、そのまま前髪を後ろに流す。ガリガリと頭を掻いて考えても良い案は浮かばぬまま。

≪騙したのね≫

 気位の高いきついまなざしで、拒絶の中に失望と絶望を包んでいた夢の中の。ぎくりと心の臓腑が冷えた。彼女の期待を裏切ってしまったこと、それが彼女を失望させたこと、二度と愛おしんで貰えないことに絶望した。
 そう思う権利も、結局は己の居心地の良さが潰えることに対して傷つく己も、許されたものではない。
 なのに、それでも彼女から向けられる心と態度と表情。そのどれ一つとして失わず、≪ゆきむら≫ではなく幸村自身を見てほしいとも思っていることに、気づいてしまった。そのままゆっくりと幸村たちに馴染んで、≪ゆきむら≫たちのことを忘れずとも良いから。そのまま、優しい眼差しで、その柔らかな手で触れてほしいと。
「……」
 己の髪を乱暴に両手でかき乱した幸村は、ため息を口の中で噛み砕くように殺した。部下が聴いている、視ている。口にしてはいけない。
 自制心を働かせて堪え、殊更鈍い動作で立ち上がった幸村は、まだ夜明けの来ない外に目もくれず乱暴に着物を脱ぎ棄てた。日が昇るまで鍛錬でもしなければ、叫びだしそうだった。


 鍛錬の汗をぬぐい、ため息を吐き出す。ようようのぼり始めた太陽に目を細めて、手拭いで隠した口元は再度ため息を吐き出す。
 結局は大声を出すわけにもいかず、黙々と体を動かすだけに終始してしまったので、体の奥にくすぶるものが残るだけだった。頭は澄んだ空気の中で動いた分、今なら書き仕事であっても集中してできそうな気がする一方、苛立ちが募るだけのような気もする。
 屋敷に背を向けて日が昇るまで光景をぼんやり眺めていた幸村は、ふと背後で忍びたちが騒めくのを知覚した。珍しいこともあるものだと思うが、報告が来ないのは自分が動く事柄ではないのだろうと気にしないようにしようとする。が、小さな足音が聞こえてきて大きな動作で振り返ってしまった。
 とた、とたとた、とたん。とた、とた。
 おぼつかないながらも、以前と比べれば段違いにしっかりとした足音を出す、軽い体重の足運び。まさかと思いながらも、近づいてくる足音に目を見開いていくのを自覚しながら、幸村は足音が聞こえてくる方向から目が離せなかった。
 とた、とた、とた、た。とた、とた。
 彼女は厳重なる屋敷の奥に匿われているはずで。黒脛巾が警護、監視しているはずで。佐助もそれに手を貸しているはずで。思う間も足音は近づいてきていて、ゆっくりと彼女の姿が見えてくる。
 見慣れた寝間着のはしたないと言われるような姿のまま、薄い羽織りを一枚羽織ってゆっくりと足を運ぶの全身が、ゆっくりと幸村の視界に入り込んできた。
 少し荒い呼吸を、時折胸を押さえて整えながらも、しっかりと前に進むは、物珍しそうにあちこち見ながら歩を進めている。
 陽の光に気づいたのか、嬉しそうに顔を向けたが、幸村を見つけるる。
「おはよう、幸くん」
 驚いたように徐々に丸くなった目が、頬が、蕩けるように細められて、緩められて。
 己を見つけて、そんなに嬉しそうな顔をしてくれるのかと思わず問いかけたくなるほど、朝の陽の中で笑うは幸せそうで。
 幸村もつられて微笑んでいた。
「おはようございます。殿」
「ふふ、朝早いねぇ。何してたの?」
「鍛錬をしておりました、早く目が覚めてしまって」
「勤勉だねぇ、お姉ちゃんには真似できないや」
殿も勤勉でございましょう。……言いつけを破るほど」
 するりと唇からこぼれた言葉に、の肩が跳ねる。わざとらしく跳ねたその両肩は、ゆるゆると元の位置より低い位置に落ちていき、困ったようにその両の眉が垂れてしまう。じーっと、困った顔のまま幸村を見つめて、へらりと音が出そうなほど力ない笑みがこぼされる。
「だって、このままだと体がなまっちゃう。私も鍛錬したい」
「いつもは鍛錬を面倒くさがるのに、このような時ばかりですな」
「ですな、うむ。そういうものですよ、一般人は」
「……いっぱんじん」
「その間はなにかな、その間は」
 怒ったふりで笑うが、幸村の元に行こうと足を踏み出す。そのまま行けば確実に地面に足をつけるだろうを、幸村は躊躇いの文字すらなく名前を呼んで止めた。
「なに?」
「履物がございませぬ。降りられるのはおやめください」
「えー」
「えーではございませぬ」
「せっかく抜け出してきたのに」
「佐助はもとより、政宗殿や小十郎殿の雷は、痛いでしょうなぁ」
「……風邪、治って二日たったもん」
 子供のように駄々をこねて、唇を尖らすの視線は徐々に地面へと落ちていく。それをいいことにこっそり笑う幸村は、「もんってなんだ、もんって。私きもい」とぶつぶつ言っているすら愛らしいと思ってしまう。
 年上風を吹かせず、こうやって砕けたものいいも時折してくるは、本当に素であるとわかる。多少なりとも見栄を張る部分もあるが、自然体だ。身内三人からのお説教を重々承知しながらも、何日も何日も厠と部屋の往復だけでは我慢できなかったのだろう。黒脛巾も、そんなの前に顔を出すなと言われている手前、他の人間が起きていない時分に動き出したを止められずにざわついていたのだろう。
 彼女はよく独り言をこぼす。それこそ寝ていた時と同じくらい。だからこそ、止められなかったのもあるかもしれない。また、退屈だ腐るだもう眠れないなどとぶつぶつ文句を言い、けれど心配している家族の心情を慮って、けれども動きたくてうずうずしていたのだろう。それをすべて、誰もいないと思って口にしていたのだろう。
「可愛らしい人だ」
「……幸くん、ほんと、天然たらしが」
 幸村のつぶやいた言葉に、がすぐに視線を向けてくる。微笑んだ幸村と目が合うと、ふんわりと頬と耳が薄紅色に色づいていく光景は、幸村の気持ちをさらに浮上させる。が、幸村の言葉に反応し、言葉を返してくるこの一連のやりとりが、幸村にとっては何よりもうれしい。
 幸村の言葉に恥ずかしがって、けれど嬉しいのだろうは、幸村の言葉をけして叱らない。止めない。けれど、悪態をつく。悪態とも呼べぬ言葉だが、にとっては幾分か強めの言葉だ。
 ますます愛らしい人だと思う。
殿が可愛らしいのがいけませぬ。これでは政宗殿が心配するのも道理」
「いやいやいや意味わかんないから。幸くん本当に政宗と同じ意味わかんないから」
 首を横に振りながら、うなじまで薄紅色に染めたは視線をそらす。が、またぼそぼそと言葉をつづける。
「でも、ありがとう」
「本当のことですので」
 彼女は本当に素直だと、幸村は嬉しく思う。
 朝日はずっとを照らしていて、彼女は顔をどこにも隠せない。幸村が歩み寄って見上げると、体ごとゆっくりと振り返るに、警戒心もない。
 笑って手を伸ばした幸村に、首をかしげる動作も無防備だ。
「頬を」
「……ん」
 言えば、不思議そうにしながらも躊躇わず幸村の片手にその頬をもって来る。そのまま幸村が撫でれば、嬉しそうに瞼を伏せる。
 無防備で、屋敷のあちこちから警備をしたり監視をしたりしている黒脛巾から舌打ちが聞こえてくる。に記憶があれば、このあとすぐさまお説教されるだろうほど、黒脛巾の一部はと、幸村に怒気を向けていた。
 隠さぬが、幸村への警戒度だということはよく分かる。が、幸村も引かない。
殿」
「んー?」
「部屋に送りますゆえ、失礼いたす」
「え」
 そのまま頬から手を滑らせて、屋敷に幸村が上がると同時にを横抱きにする。己が汗をかいているのは承知の上で、どうせ殿も動いて汗をかいているからと、あれこれ内心言い訳をしつつ幸村はを抱き上げて歩き出した。
「お姫様抱っことか、ちょ」
「怒られてくださりませ」
「しまった! 油断した! 捕獲作戦だったか!?」
「言っても逃げてしまわれるので」
「きゃー、いやー、おこられたくないー」
「棒読みでございますな」
「……幸くん、今日のご予定は?」
「あいにく、このあとしごとで」
「棒読みですな」
「……」
 危なげない足取りで歩を進める幸村に、しばらくあーだこーだと言うも、大人しくなっていく。
 もちろん、部屋に戻れば喜多が満面の笑みで待ち構えていて、小一時間の説教で涙目になるが、そのあと小十郎、佐助と次々お叱りのリレーをさせられることは、送り返した幸村も想像に難くなかった。


「旦那、なんでちゃんなら触っても平気、とか……」
「? なんのことだ」
「破廉恥じゃねぇのかよ、このくそ真田幸村ぁ」
「? なにが破廉恥なのだ?」
「……猿、お前んとのこ教育はどうなってやがる」
「……どこで間違えたんだろうねー」
 一部始終どころか、全部の報告を受けた後の三人が遠い目をして、純粋な目で首をかしげる幸村に脱力してしまうことは、さすがに幸村も想像していなかった。
「なにが破廉恥だ、佐助」
「もういいよ、真田の旦那はそのままでいて」
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