駒鳥は求められる


 ルッチはに言葉を返さなかった。縋りつくその腕に、涙に言葉に、望んだとおりの「何があっても愛してる」を返さなかった。
 の身体は正直に血の気を引かせ、ひとときその呼吸を奪った。
 けれど次に呼吸を思い出したとき、その唇はルッチのそれによってふさがれていた。
「……」
「っ……っ、ルッチ」
 何も言わず、優しく何度も重ねられるそれにの涙腺は壊れたまま戻らない。ルッチは宥めるように唇で触れて、時折やんわり食む程度にじゃれつきながら、の呼吸が落ち着くのを待った。
 ちゅ、と可愛らしい唇を吸い離す音を最後に、お互い伏せていた瞼をあげて目を合わせる。少しだけ色の混じった吐息を二人でこぼして、困惑を隠さないにルッチは静かに囁いた。今一度口付けるかのように唇を寄せながら。
「なにがあっても、一緒にいてくれるか」
 掠れた声は、ルッチもどこか興奮しているような、縋るような響きでの耳に届いた。
 は最初、何を言われたかわからなかった。どこかで聞いたセリフだとはすぐわかった。けれど、思い出せない、頭が働かない。むしろルッチと目を合わせて、彼の唇がしゃべるたびにの唇を掠めていっているのに、ルッチのセリフだと一瞬わからなかった。
「すきだ」
「っル」
「愛してるんだ……ッ」
「んんっ!」
 ルッチからの、縋るような小さな叫びだった。の唇を奪いながらも、先ほどまで縋りついて泣いていたのはだったというのに、正しく唇で全身で縋りついているのは、今はルッチだった。
 言外に、捨てないでくれと言われている気がして。はじんわりと再び涙がにじんでくるのを感じた。
 ルッチは掻き抱いたを一瞬でも離すまいとでもするかのように、忙しなく体をまさぐってくる。性的な匂いのしないそれは、引き離されそうな子供が母親の服の、どこか掴みやすい所を探る様子にも似ていた。
 親に捨てられそうな子供にも見えて、はルッチを抱きしめ返した。ここにいると、ルッチの腕の中にいると証明するかのように。
「……
「ん……」
 ルッチがようやく縋るのをやめ、ふんわりと優しくを抱きしめなおす。それでいて少し体を離し、の顔を覗き込む。
「お前は、危険なことをするな。おれの傍にいて、おれを愛して、信じていればいい」
「……ルッチ」
「おれはお前を愛してる。手放せない。お前を逃がしてやれない」
「ルッチ」
「おれの方こそ……なにをしても、なんであっても、愛してほしいと思っている」
 昨日の夜に、言っただろう?
 どこか苦しそうに目を細めて微笑みを浮かべようとするルッチに、もようよう笑みを浮かべる。
 赤くなった目元や鼻は隠しようがなく、目元はすでに腫れていた。
 けれど、お互いに何かを決意して、そして秘密にしたままなのだと理解しながらも笑いあった。
 愛している気持ちは本物で、秘密によっては相手が離れてしまうと危惧しているのも以心伝心しているというのに、笑い合った。
 静かに、言葉をなく今一度唇を寄せ合った二人は、自然な動作でお互いの腕をほどいた。


「というわけで、私なんか肥満しちゃいけないらしいんだけど」
「なんじゃそれ」
「あ、違った。避難避難、間違えた」
「どういうことじゃ? ん?」
「カクさんその顔マジ悪徳借金取り立て屋さん顔」
 にこにこなんの憂いもなく花でも咲かせそうな顔で、カクの前で笑う
 わし、さっきまでお前さんがルッチと乳繰り合っていた(誤解)の知っとるんじゃけど、と半眼で言ってしまいたい衝動に駆られつつもカクは首をかしげて質問を繰り返す。は、泣いていることもルッチの地声を聞いたそぶりもなく同じセリフを繰り返す。
 ルッチの秘密を知らないそぶりで、カクに対して態度をまったく変えずに笑う。
「私はアクアラグナで避難しちゃいけなくて、なんか海列車に乗らないといけないんだけど一人だと不安だから、迎えに来るから待ってろって言われた」
「どこで」
「状況次第で動けって言われて、数か所順番に移動するよう指示されているであります」
 意味わかんないね、それじゃアイスバーグさんの傍にいるのが一番安全そうなのに。
 知らない様子で、面白そうに笑うを見て、カクは一瞬目を見開く。は下を向いて笑っているので見えなかっただろうと思いつつ、カクは内心の動揺をごくりと飲み込む。
「……」
 は、アイスバーグの傍においていたら建て前的には安全だ。ただし、これからアイスバーグが殺されず、社屋が火にまかれなければの話だが。
「カク、どうしたの?」
 首をかしげて見上げてくるに、笑ってみせる。隙のないいつもの笑顔を浮かべられているか分からないまま、カクの口は動く。目はから離せない。
「……ルッチは、ほかになんぞ言うてたか」
「……ほかに?」
 んー……、などと可愛らしく悩むような声を出しつつ、反対側に首をかしげてゆっくりとカクを見つめてくる。じっと、どこか透明感を感じる見透かすような眼が、カクを捉えた。
 ドキリと、鼓動が跳ねる。の唇はためらうように開いた後、一度閉じて笑った。
「離さないって言われたよ? イヒ」
 いたずらするように、照れた顔で笑って背を向ける。思わずその背に手を伸ばして、掻き抱いていた。
 首筋に顔を埋めて、両腕での身体をしっかりと包み込む。の言葉ではないが、ルッチの言葉ではないが、離さないとでもいうように。
「……カク? どうしたの、寂しくなった?」
「……」
「のろけてごめんって。ルッチのことを愛してても、カクが一番の親友でずっと傍にいるのは変わらないから怒らないでよ」
「……」
「カクさぁーん? あの、え、ちょ、本当にどうしたの? なに? アイスバーグさん大けがしてるのに不謹慎って怒ってるの? え、あ、空気明るくしようとしたけど軽すぎた!? え、カク−!?」
 腕の中でわたわたしゃべり続けてカクの腕を痛くない程度に叩くは、普段通りのだった。ずっと傍にいるとか言っている。それでもう十分すぎるほど分かった。
「ルッチは、言うておらんのじゃな?」
「なにを?」
「……ルッチ、ころす」
「なにそれ物騒マジ止めて」
 冗談だと思っているのか、楽しそうに笑って相槌を打つがかわいそうになってくる。が、振り向いて抱き付き返してくるは心底安心しているように息を吐く。すりっと鎖骨にほほを寄せてくるの後頭部をそっと撫でた。
「ルッチに抱き付くな言われとるじゃろ」
「すでに抱き付いたじゃん。ダイジョブダイジョブ」
「あれはお前さんが泣いとったから……」
「カクが大好きだから抱き付きたい」
「……今日は素直じゃの」
 呆れ半分嬉しさ半分でこぼせば、鎖骨をなぞるくすぐったさが離れて顔を見上げてくる。じっと見つめてくる視線は、いやに強い。
「だってカク、寂しそう」
 ドキリと、もう一度鼓動が跳ねる。の両腕が延ばされて、首に回される。引き寄せられた頬に、の唇がゆっくりと触れてくる。
 ルッチの唇と重なった唇が、頬に触れている。
 気持ち悪いと振り払ってもいいものなのに、自分の身体が硬直して動かせないことに、カク自身驚いていた。
 小さなリップ音を鳴らして、二度、三度と唇が触れては離れる。自分から離れたくないと、ぼんやり頭の隅で思う。
 それは愛する異性に送るキスではないのに、幼子にするようなキスなのに、カクはぼんやりとの唇の感触を享受していた。
 愛しいと、素直に思えた。
「カク、落ち着いた?」
「…………ルッチに殺されそうじゃ」
「大丈夫、私が怒られるから」
 いひ、ともう一度照れくさそうに笑うは背を向けてふらふら歩き出す。嬉しそうに、鼻歌でも歌いそうな様子で。
「アイスバーグさんはちゃんと回復するし、この島は大丈夫。それに、そろそろ副社長決めて会社の基盤もしっかりするだろうし、ルッチもカクもみーんな忙しくなるよ。いいことだね」

「でもしばらくここから離れるっぽいし、アイスバーグさんに逢ったらだめらしいから、伝えてもらえる?」
?」
 あり得ない未来。こない未来とは知らないが紡ぐ言葉。
 そして副社長などと、今まで話題に上がらなかった役職名。
 本来ならば静かに聞いて情報として受け取ればいいはずなのに、カクは止めようとする意志をもって名前を呼び続ける。
 けれど、の声のトーンが変わった。
 ルッチの指示でアイスバーグに逢わぬまま海列車に乗るのだろうが、短期だと思っているはずのにしては、声が重かった。
 背中はいつの間にか、はしゃいでいなかった。
「ルッチたちとしばらく里帰りするので、無断欠勤します。有給消化しますね。って」
 振り返ったは、何かを決意したような眼で、けれど悪戯っぽく笑っていた。
「一言一句、声の調子も完璧に真似して伝えてね?」
「そんなわし、キモイ」
「可愛いの自覚してるくせに。ぶつよ」
「お前さんにぶたれても、痛くも痒くもないわい」
 はもう一度近づいてきて、カクの頬を両手で包み込む。ゆっくりと引き寄せられる力に逆らうことなく、カクとの額が触れ合った。
 閉じられたの瞼を、ぼんやりとカクの両目が見詰める。
「大好きって、伝えてね」
「……」
「この世界で、アイスバーグさんが私の実家だって、伝えてね」
「……」
「……カク」
「……ん」
「アイスバーグさんに拾ってもらってから、今日まで。そして今日からも、ずっと、私は幸せだ。って、伝えて」
「……ん」
 まるで、遺言のようだと。
 閉じられたの瞼を至近距離で見つめながら、ぼんやりと思う。
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