故郷YANAGAWA 映画『廃市』光陰礼賛
 福岡県柳川は、水の都イタリアのヴェニスに比類されるわたしの故郷です。この街で、今から20余年前ある映画が製作されました。それを、今でも記憶に留めている人は余りいません。今頃になって、そんな話を発掘人にでもなったようにして持ち出すのは、その映画に秘められたインシデントの意味の謎解きをする,人とも幻ともいえない不思議な声が,繰り返し届いてきたような気がしたからです
 『廃市』とは、もちろん北原白秋の第二詩集「思ひ出」の中に出てくる言葉です。その詩集の上梓から48年が経った昭和34年、白秋にあこがれていた同じ福岡県出身の作家、福永武彦が、『廃市』を発表しました。内容を語るに読書家からのそしりはお許しいただくとして、青年A=福永の分身が、新聞でその街が火事で焼け、あらかた無くなってしまったという記事を読んだことがきっかけで、大学最後の年の思い出を回想するという物語です。
---縁者の紹介で、その年の夏休み、私は卒業論文を書くため静かな場所を探して、古い水郷の町の旧家で間借り生活することになります。そこには年老いた祖母と快活で笑い顔が魅力的な安子が暮らしていました。その下宿での最初の夜、川のほとりの月光が薄っすらと差し込む2階の木窓から、女性のすすり泣く声を耳にします。
 福永武彦の文章は、病的なほど繊細で、美しい音楽の調べを聞いているような、清冽で心が洗われるような気持ちになって読み進むことができます。
 このあと、そこの家族の複雑な人間模様、心理ドラマが展開してゆきます。登場人物は、安子のほか、姉の郁代、その夫の直之が中心で、青年は第三者的立場で安子の傍らにいて、この家庭の中に自然の成り行きのようにかかわってゆきます。柳川をほうふつさせる背景の中に叙情的に、そしてもの静かに表現されています。
 全52ページの短編小説で、速読の人なら1時間半あれば、この小説は読み終わります。今でも福永作品の中の最高峰の一つとして、一番人気作品になっています
 私が大林宣彦監督の映画を見たのは、5年くらい前に偶然ビデオ屋の棚で『廃市』=柳川ということで借り出しました。最初の印象は、「暗い、なんて暗い映画なんだ!柳川は、こんな町ではない」という強烈な思い出が残っています。それはたぶん誰でもそうでしょう。郷土愛の混じった、自分自身の幼少時代の記憶と、かけ離れていたような気がしたのです。私は22歳で故郷を離れ時たま帰宅するくらいで、記憶の町柳川は、幼ないときに遊んだ思い出の山河、望郷の空と海は明るく,水清らかな陽性の町としか残っていません。
 映画は、冒頭から異様な気配でした。イントロのスクロールで流れたのは白秋の有名な一節からの切り抜き「−−−さながら水に浮いた灰色の棺である」でした。次にショックを受けたのは安子が、青年A=映画上では江口に改名に始めて対面した時に、町を紹介する場面で川水の音を、この”町が死んでゆく音”というのです。クライマックスは、30歳そこそこの義兄の直之が”人生に疲れた”と言い残して、愛人と情死を遂げてしまいます。
 青春の日の心が移ろいやすいように、人の心も常に変化します。私は、今年(2004)の初夏ある事情があって、この映画を立て続けに3回も見る羽目になりました。始めて見たときの印象とは、すこし違っていました。時間の経過は、大林作品を数多く鑑賞するきっかけをつくり、福永の原作を繰り返し読む機会を与えてくれました。
 大林作品の、特徴には@光と影の演出効果A時間のズレ(タイムスリップ、現在と過去)B欧米名作映画からの技術導入ーという3つのヒントがあるようです

 『廃市』には、この3っの特徴がよく現れています。何よりも、映画が福永原作本に忠実に進行してゆくことです。文芸作品を、映像で表現することは、とても困難と言われています。この作品には、福永が欧米文学を専攻していたことからロマネスク風に仕上げたいと考えていたようです。文芸評論には、ゴシック調と書いているものさえある程”光と影”の描写が巧妙に画かれています。これが、大林の感性と一致して、映画の表現はさらに緻密なものになりました。
 映画をよく見ると、昼の部分を演出するのは、陽性のヒロイン安子です。その反対に、夜と闇の部を、受け持つのは主人公の、青年A=江口という風に役割分担がなされています。”光と影”の映像のハイライトは水天宮の夏祭りです。水上の船舞台で繰り広げられる能芝居は、柳川に未知の人達でさえ大きな感動となって映画の素晴らしさに、改めて共感を呼ぶに違いありません。
 時間のズレは、どんな風に表現されているでしょう。--元もとの作品が、古い記憶を呼び起こすというものですから、映像でもこれを、印象付ける必要が生じます。それは江口青年が持つ懐中時計です。
あれが何のための時計なのかは、なかなか気付きません。青年が、駅に降り立ち夜に部屋で時計を見るまでが、現在です。そこから時計の針は、10時02分を示し停止します。青年が卒論を書き上げ再び駅頭に立ち、列車の出発時間を確認するため再び懐中時計を見るところで、またこの時計の針が動き出し、また現在に帰ってゆきます。ストーリーの全体は、過去のでき事の”思い出”なのですね
 その外国映画を見たのは、かなり昔です。ほとんどを忘れていましたが、一部分が夢の中の世界のように覚えていました。というのは若い心の私には、その内容が難解でほとほと理解できず、進行がスローテンポで退屈なものに写ったからでしょう。でも、プロローグに出てきた海のシーンが、子供の頃に潮干狩りに行って船から眺めた有明海の干潟に似ていました。最後の夕暮れの描写も有明の落日にそっくりで不思議な気持ちになったことが記憶に残っています。
 タイトルが何だったのか思い出せない程でしたが、福永の”ロマネスク調”という言葉から、アッというくらい驚きとともに蘇ってきました。それはイタリアのヴィスコンティ監督の『ヴェニスに死す』だったのです。原作は,ドイツのノーベル賞作家のトーマス・マンで、初老の指揮者が,ヴェニスに,避暑に来てそこで出会った美少年に,ほのかな恋心を寄せるというものです。私はビデオで再度作品を見てみました。やはり、映画『ヴェニスに死す』は、朦朧とした映画全体の流れ、陰影とほのかな光源の撮影技法は『廃市』に影響があるように思われます。
 そこで私は欧米文学にも日本文学にも通じた映画通の学識者を訪ね、この話を,打ち明けてみました。この春に柳川へも旅行してきたばかりとのことで、この話は二重の幸運だったようです。---映画『ヴェニスに死す』は原作そのものに,福永武彦が欧米文学者として,影響を受けたと思われても不思議はないというこということです。『廃市』が、ヴェニスを柳川に見立てていること、両者のストーリーの内容が‘死‘をテーマにしていることもありますが、若さと老醜、健康と病気、通俗と神聖、小市民と貴族社会、成功と没落、新興と旧弊、革新と保守などといった2極対比の構図が,底流に流れているとのことでした。この相克と葛藤,そこから生じる悩み,悲しみ、苦しみがすなわち若き日のトーマス・マンの世界そのものということです。
 さらに『ヴェニスに死す』を創作したトーマス・マンもモチーフを、ギリシャ悲劇に求めることができるということでした。ヴェニスからギリシャのエーゲ海は近くにあります。海は世界に通じています。『廃市』は、ギリシャ古典劇の素養を雛型に持つと言っても差し支えがないでしょう。すなわち柳川こそ、大林を介して、ギリシャ古典に通じていると言って誇っても何らおかしくないという賞賛の言葉まで受けることになりました

かくて廃市=白秋=福永=大林=ヴィスコンティ=トーマス・マン=ヴェニス=ギリシャ悲劇=柳川という、連環が完成されるのでした
 映画が撮影された昭和58年頃の柳川の話をちょっとしてみましょう。柳川を訪れたことのある方は、ひょっとして観光川下りは、ずーっと古くからあるものと思っていませんか。それは違います。これといった産業も収入源もなかった柳川市は、昭和30年代初頭には人口の流出で、市から町に格下げされても仕方ないくらいに、本当の『廃市』になりかかっていました。この急場を救おうとして考え出されたのが、城下町と北原白秋をからめて掘割りをどんこ船で下るジョイント「観光興市」が立案されたのでした。
 柳川は、確かに保守的な街ですが、変わっていました。いや、もう変わらざるをえず必死に努力していました。その甲斐があってそれなりに観光柳川が定着してきた頃、映画撮影の話がきたのですね。ローリングの中には、ちゃんと”協賛;福岡県柳川市、映画「廃市」を盛り上げる会”と言う文字が入っています。でも、出来上がった作品を見た時の、柳川市民の驚きやどんなだったでしょう。想像だにしくはありません。
 おおかた文芸作品というものはたいていそういうものなのかもしれません。観光で盛り上げるはずが、死それも情死、没落それも柳川の旧家の没落、おまけに他所から来た人はヒロインと結ばれることもなく、もう柳川に来ることはないでしょう、と去って行くという内容にビックリ仰天、映像美もそこに秘められたインシデントの意味も理解されることなく、映画の森の中に埋没してしまったのでしょう
 しかし私は救われました。この映画の中でただ一ヶ所だけ大林監督が、福永原作本に逆らい付け足した部分があります。それは最後の別れのシーンで使用人の三郎が、大声で叫ぶ言葉です。”この町では、みんなが思うとる人に、ちっとも気付いてもらえんとですよ!”これは、映画の中では単なる恋する人への心の吐露にしか聞こえません。大林監督は、この言葉の中に秘符を込めたと確信しました。この言葉こそ、柳川市民に対する大いなる皮肉だったのです。
 大林監督が、本当にこの映画で言おうとしたのは、『観光興市』と『映像廃市』という、2極対比の構造の最大のジョークを、その当時誰も気づかず、それを理解しようとする努力も必要とされなかったくやしさなのでしょう。
 現在は、20年前とは違います。他郷から柳川を訪れる観光客は、口をそろえて言います。”柳川は、賑やかな町だった、明るくはつらつとした街だった”と。今なら、必ずこの陰影に満ちあふれ、しっとりとして情緒あふれる幻想の街『廃市・柳川』を、きっとすばらしい映画だと改めて理解し、再認識してくれるものと信じてやみません
 出演キャスト

  安子(妹)=小林聡美
  江口(大学生)=山下規介
  郁代(姉)=根岸季衣
  直之(義兄)=峰岸徹
  秀(愛人)=入江若葉
  三郎(使用人)=尾美としのり
  志乃(おばあさん)=入江たか子


 作品は,ビデオやDVDで見ることができます

映画「廃市」に関する素朴な質問
             
All right reserved著作権所有31 Aug. 2004
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