(特別企画)【土に還った幻の停車場 -深名線宇津内駅-】
1.土に還る廃駅跡
廃止になった駅の遺構の保存状態は、やはりその立地条件に依るところが大きい。周辺に比較的まとまった人口があった場合は、"駅を中心として集落が形成される"パターンが多く、廃駅から何十年を経ても何となく"駅前通り"の雰囲気というのは残っているものなので、さほどの予備知識がなくても大体の位置を推測することはそんなに難しくはない。また、都市部などさらに人口の多い地域にあった駅の場合も、廃止後直ちに再開発が進んで、跡地に大きなビルが建ったり、道路が付け替えられたりして、却ってわかりにくくなったりするケースもあるかもしれないが、周辺人口が多い分「駅の記録や記憶」もたくさん残っているため、正確な位置を特定すること自体はそれほど困難ではないと思われる。
ところが、当HPで採り上げるような「もともと周囲に住居も疎らな小駅」の場合は、廃駅と前後して目印となる民家などの人工物まで消滅してしまうパターンが多く、駅舎やホームまできれいに撤去されてしまうと、ほんの数年で草木が生い茂って場所の特定が困難になってしまうことが少なくない。甚だしい場合は、一見しただけではホームの位置を推定できないほど境界部分が周囲の景色と同化してしまい、そこに駅が存在した気配すらなくなってしまうことがある。そういう例はやはり北海道に多いようだ。
それでも、ホームの一部や駅舎の基礎部分などは、よく調べれば完全に回収されずに残っている場合が多いため、わずかな痕跡を探り当てることができれば正確な位置を特定することは概ね可能だという。この辺りの事情やノウハウは、「鉄道廃線跡を歩く」シリーズ(宮脇俊三編著・JTB出版事業局)を始めとするたくさんの著書や多くの廃線跡探訪愛好者のHP(リンク参照)に詳しいので、敢えてここでは採り上げないが、調査に当たってかなりの鉄道知識が必要なことは間違いない。筆者もときどき"真似事"をさせてもらっているのだが、現在でもはっきりと駅舎やホームの一部が残っている幸運なケースはまだしも、ほとんど"土"に還ってしまった跡地となると実際には地図程度を持参しても全く役に立たず、また確認のために草木を掻き分ける勇気もないため、結局断念せざるを得なかったケース(湧網線北見富丘駅跡や浜床丹仮乗降場跡など)が多い。特に道内の僻地では似たような地形、似たような風景が延々と続く区間が多いため、"数メートルの精度で正確な場所を特定することは結構大変な作業"という実感だ。とりわけ仮乗降場の類や極端に廃止時期が古い駅では調査が難航することがあり、そのような"専門家"をもってしても「大体この辺りのハズだが確証はない」という場合があるという。
2.深名線宇津内駅の概要
昭和24年に廃止となった深名線宇津内駅などはその最たるものではないだろうか。今では人が容易に寄り付くこともできない深い山間の僻地にあったうえ、廃止時期があまりに古いために、遺構はもちろん駅に関する資料がほとんど残っておらず、文字通り"幻の駅"となっているのは誰もが認めるところだ。
朱鞠内の三股から上流に手の指を広げた形に多くの川が流れているのを見た溝口潔夫という青年技師が、(雨竜第一)ダムを作って水をせき止め、標高の低い天塩川の風連に落として発電する巧妙な計画を着想し、藤原銀次郎が中心となって実行に移して、昭和18年に完成したのが我が国最大の人造湖といわれる"朱鞠内湖"である。深名線はこれらのダム建設資材の搬入と、苫小牧の王子製紙工場への原木の搬出を目的に、ダム建設に先立って着工され、昭和7年にはまず深川から朱鞠内までが完成(幌加内線)。昭和10年頃から朱鞠内―宇津内間の延伸工事が始まって、昭和12年には名寄側からも進んでいた路線建設が初茶志内(後の天塩弥生)まで開通(名雨線)、昭和16年10月に残る朱鞠内―初茶志内間が完成して全線が深名線と改められた。全通に至るまでに多くの労働者が命を落としたといわれている。朱鞠内地区へ主に岐阜県から入植が始まったのは大正2年頃かららしいが、深名線の開通とダム建設予定地での木材の切り出しが始まると共に人口が急増し、最盛期には400戸を越えて朱鞠内の街には飲食店やカフェなどが軒をつらね、ダム工事関係者を入れると数千人の人口を抱える街になったという。
一方、雨竜川の西寄りの支流であるウツナイ川でも下流部に(雨竜第ニ)ダムが建設された結果、朱鞠内湖の西にも小さな人造湖が出来上がり、朱鞠内湖に含めてしまうこともあるが、特に"宇津内湖"とも呼ばれている。宇津内はアイヌ語の「ウッ・ナイ(ut-nai 肋骨・川)」が語源と見られるが、具体的にどのような地形を意味するのかはよくわかっていないという。(名寄本線の宇津駅や宗谷本線歌内駅と語源的には同じらしい。)宇津内地区(大字朱鞠内字宇津内?)に人が住むようになったのもこの辺りの時期と見られるが、当時の正確な戸数や分布などははっきりしない。あるいは宇津内駅自体がダム建設を目的とした"臨時駅"のような性格で、周辺にはまともな集落は形成されなかったという可能性もあるが、全く想像の域を出ない。昭和18年に雨竜第一ダムが完成してからは既に朱鞠内地区で人口の減少が始まったとのことなので、宇津内地区の繁栄のピークもやはり終戦前後の時期と見られ、昭和20年9月頃に3往復だった宇津内駅の停車本数は昭和22年12月頃には2往復に削減されており、早くも昭和24年3月31日をもって廃止の憂き目に遭っている。但し、「停車場変遷大事典」(1998年・JTB出版事業局)によると、翌4月1日から暫くの間は"仮乗降場として存続した"ことになっており、完全な廃駅は昭和31年11月19日以降と見られている。(この"注"の書き方からみて「31.11.19.に"宇津内仮乗降場"への停車を目撃した人物がいる」ということではないかと思うのだが、真相はどうであろうか?)
※ JR北海道が深名線廃止後に関係者に配布した資料に「深名線 風雪とともに」という冊子があり、その中に宇津内駅関係の記述が少し載っていることを北の旅人氏に教えて頂きました。それによると、深名線第3工区白樺・宇津内間は昭和11年5月に着工して13年4月に竣工、第4工区宇津内・朱鞠内間は昭和10年8月に起工して12年8月に竣工とあり、第3工区と第4工区は一時期同時進行で、宇津内駅が路線建設の重要ポイントにあったことがわかります。また、一般駅であった昭和16年10月10日〜24年3月31日の約8年間に4人の駅長(実名記載)が歴任したことも併せてわかりました。
さらにその後、"北海道時刻表"昭和30年8月号に間違いなく"宇津内仮乗降場"が掲載されていること、および晩年の停車本数が1日"4往復"であったことも教えて頂きました。感激です。
◆北の旅人様、本当にありがとうございました。
3.宇津内駅の位置について
それにしても、航空写真などを見る限りこの辺りは鬱蒼とした深い森林地帯で、集落を形成できそうな平地の空間も見当たらないため、本当にこんな所に駅があったのだろうかという疑問が湧く。当時は大規模に森林が伐採されて、現在よりは"風通しがよい"状態だったには違いないが、それにしてもという感じがするのである。宇津内駅の位置は「深川起点85.0km」というデータを信用すれば、朱鞠内から宇津内トンネルを抜けて約2kmほどの地点と見られ、丁度その辺には"朱鞠内湖と宇津内湖を結ぶ水路"があるとのことで、線路とこの水路が交差する辺り(左図X地点付近)を候補に挙げている研究者の方が多いようだ。「道道・蕗の台朱鞠内停車場線」は北大演習林の西を通って宇津内湖の左側を迂回するコースを採っており、線路が走っている宇津内湖と朱鞠内湖に挟まれた区間へ向かうには雨竜第ニダム付近から右に入る小さな林道(?)を進むしかないと思われるが、それも蕗ノ台の手前2kmで行き止まりになっていて、かなり以前から自動車による寄り付きは厳しい場所ではなかっただろうか。「国土交通省サイトの航空写真」(昭和52年撮影)を見ると、そのヒョロヒョロ道からさらに横断水路の朱鞠内湖側水門に向かう小さな枝道(左図赤線)が写っており、しかもそれが線路にぶつかる地点で行き止まりになっているため、この地点を推される研究家の方もおられる。(近年の国土地理院発行の地形図(1/25000)にはこの枝道は記されていない模様。)また、現在では深名線自体が廃線となっているため、一部の区間では路盤を歩いて探索することも可能と思われるが、実際にその辺りに到達して遺構と推測されるコンクリートの塊を探り当てた方もおられるようだ。
実は、深名線廃止の数年前に全線の車窓を連続撮影したことがあり、ひょっとしたら宇津内駅跡の痕跡を見つけることはできないかと思い、今回8mmを詳しく再点検してみた。廃駅から50年以上も経つと跡地に大きな木々が成長する可能性もあり、現在の地形だけで判断することはあまり意味がないかもしれないが、駅を造るにはある程度まとまった広さの平地が必要であること、線路面からあまりに急激な高低さがあることは考えにくいこと、駅舎の基礎などコンクリート土台の部分は大木が育ちにくいと思われることなどを考慮して、それらしい地点をピックアップしてみた。このとき乗車した列車は朱鞠内―蕗ノ台間10.7kmを丁度16分かけて走ったため、1分間当りの平均走行距離は670m弱となり、仮に全区間を等速で運行したと仮定した場合の「深川起点85.0km」地点の到達時間は朱鞠内駅発車から"9分16秒"と算出できる。しかし、実際には途中で湖畔駅(仮乗降場)に停車したり、上り勾配やカーブによる減速が予想されるため、"9分16秒から最大で11分00秒"の間と推理し、かつ駅舎が車窓左側にあったと仮定して、上記に相当するような適当な平地がないか探してみた。見つかったのは下の2箇所で、左画像が"10分01秒"、右画像が"10分42秒"の地点に相当する。右地点などは線路面とほぼ同じ高さのきれいな平地で、草木の繁茂も見られず、少なくとも以前に何らかの構造物があったのは間違いないと思うのだが...。皆様はどう思われるだろうか。


※ その後、宇津内駅の位置特定に関して「航空写真画像情報所在検索・案内システム」(国土交通省国土計画局)に丁度、昭和22年(1947)米軍撮影の古い航空写真があることを池田氏より教えて頂きました。早速閲覧したところ、写真はモノクロですが縮尺は"1/15772"で十分な解像度があり、「上図X地点よりもう少し北数百m付近」にそれらしき構造物が写っていました(左図)。少し路盤が広がっている場所が、筆者には"島式ホーム"に思えたのですが、いかがでしょうか?また、その西側には比較的大きな2棟の建物(?)がはっきりと写っており、森林の開け具合を見ても、駅舎の位置はやはり「名寄方向に向かって左側」と考えてよさそうです。しかし、想像よりも駅構内は狭い感じで、集落の規模も蕗ノ台や白樺よりも小さかったことがうかがわれます。なお、この"旧駅前集落"と思われる森林が疎らな一帯は、昭和52年撮影の航空写真でもはっきりとわかるため、やはり深名線晩年の車窓でも十分確認できたのではないかと思われます。
◆池田様、本当にありがとうございました。
4.宇津内駅の構内配置について
宇津内駅と同時に開業した蕗ノ台・白樺・北母子里の各駅が揃って「島式ホーム」を採用し、いずれも名寄方向に向かって左側に駅舎が造られていることから、やや根拠は薄いが宇津内駅も同じ構造であったと推理したい。ただ、ダム関係の大量の建設資材やおびただしい原木貨物を扱っていたはずなので、たくさんの側線・引込み線などで構内は意外と広かったのではないだろうか。旅客列車が少なかった分、むしろ貨物専用列車の停車本数が多かったことは想像に難くない。但し、それも昭和24年3月までで、"仮乗降場"になってからは当然貨物の取扱いを廃止したものと思われ、構内設備も整理されて晩年の蕗ノ台・白樺駅のように片面使用の簡単なホームに改められた可能性もある。この辺りは本当に想像の域を出ないが...。
※ トップの写真を見て驚いた方もおられると思いますが、大方のご想像通りCGによる合成画像です。どんな感じか自分でも確かめてみたかったので創ってみました。あしからず、お許し下さい。ただ、昭和20年代前半は駅名標もまだ「右から左書き」のままだった可能性が高く、少なくとも一般駅時代は最後まで「いなつう」ではなかったかと思います。"仮乗降場"時代は、昭和30年頃までに白樺駅のような「左から右書き」のものに交換された可能性もありますが、既に当局が正式な廃止を検討していた時期ならば、意外とそのままだったかもしれません。写真が出てくればよいのですが、物資欠乏の時代なので望みは薄いと思われます。(期待できるとすれば"幌加内町史"くらいですが...。)
5.宇津内駅の廃止の経緯について
昭和18年にダムが完成してからは建設資材の供給基地としての役割を終え、また周辺地域での木材の切り出しが一段落したために、貨物の取扱い量が激減し、さらにはそれら関係者住居の集団移転が進んだ結果、旅客の需要もほとんどなくなって急速に廃止に向かったと推測される。この時期の廃駅は"余程のこと"ではないかと思われるが、もともと人も住まない極寒の地に"にわか作りの工事用集落"が形成されただけだった可能性が高いので、無理からぬ話ではある。昭和24年の時点で、果たして周囲に人家などがあったのか、あったとすればどれくらいの規模だったのか、当局が完全な廃止とせずに異例な"仮乗降場"として存続させた背景、昭和24〜31年の営業状況(時刻表に記載されていたのか)など、興味は尽きない。何か情報をお持ちの方がおられましたら、是非ご一報下さい。
6.宇津内駅の乗車券類について
宇津内駅が有人駅として営業を行っていた期間(16.10.10. 〜 24.-3.31.)は丁度戦争による混乱期に当たるため、乗車券類の発売券種や様式などに例外的な措置がとられた可能性が高く、また過去にオークションなどで(宇津内駅発行の)実券を一度も見たことがないので、やはり確かなことは何も言えない。全部推測になるが、開業当初(少なくとも最初の2〜3年位)はほぼ正常な設備・出札が行われたのではないか、左図のような入場券(最初は5銭券?)もちゃんとあったのではないかと思われる。この時期の入場券については日高三股駅長氏のHP(「秘境日高三股へようこそ!」)に非常に詳しい研究が掲載されているので、是非ご覧頂きたい。氏のHPによると、昭和19年頃からは戦況悪化に伴い入場券の発売を停止する駅が多くなり、戦後は昭和23年11月頃から漸く一部の駅で発売が再開されたことが記されており、宇津内駅廃止直前の時点で入場券の発売があったかどうかはかなり微妙だ。しかし、一応、戦後間もなくは幾たびかの値上げにもかかわらず小駅では戦前の10銭入場券を流用していたこと、しかも料金変更印を押さずに発売した例が多かったことを考慮し、左図のような券を推理してみた。昭和23年7月から額面は3円に値上げされているが、氏によると北海道地区においては"3円券の硬券自体が確認されていない"とのことなので、本当に硬入が実在したならば可能性は高いと思われる。