君がいれば1




彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。

夏目漱石「門」

 


 

あの頃。俺には他人など必要なく、ただ彼女が側にいてくれれば、それでよかった。

 


俺が唯一の日課にしている散歩から帰ると、沙夜子が彼女の部屋で、瑞香の寝顔を眺めていた。

それだけなら、この家では良く見かける日常の風景だ。

そんな彼女の姿を見るたびに、血がまったく繋がっていないのに、良くここまで献身的になれるものだと、自分で瑞香の事を頼んでおきながら感心しきりで、自分が看病の邪魔にしかならない事を理解している俺は、いつもなら部屋の前を一声掛けて通り過ぎるのだけど。

だけどなんとなく、彼女の様子がおかしいことに気付いた俺は近づこうとして、そしてそれに気づいて思わず固まってしまった。

固まっている俺を見上げる、長い睫に縁取られたその瞳は普段から少し潤んで見えるのだけど。今そこには睫に絡まるように本物の涙が溢れていた。

「どうした?」

気を取り直し彼女の隣に腰を下ろして、そっと指で涙をぬぐいながらそう問えば、彼女は小さく頭を振りながら「なんでもない」と、消え入るような声で答える。

「本当になんでもないの。瑞香から・・・美鈴さんの事を聞かれたから、思い出したらちょっと、ね」

「それは・・・なんでもない、とは言わないんじゃないのか」

俺と沙夜子の雰囲気を察してか、これまで彼女の件に興味を示さないフリをしていた瑞香に、誰が入れ知恵したかなんて考えるまでもないことだ。

美央美に向かって内心で舌を打ちつつ、沙夜子の髪をゆっくりと撫で付ける。

泣いている彼女を落ち着かせるにはこれが一番良いと、長年の付き合いによる経験からの行動なのだけど、人にはこれがイチャついているように見えるらしい。

周りの奴等が言うように、時や場所をまったく気にしない俺達にも問題はあるのかもしれないけど、最善の方法を知っていて、それでも人目を気にして何も出来ないのでは、知っている意味がまったくないと俺は思う。

「あの頃の記憶はね。私にとって、ものすごく豪華な宝石箱の中の宝石みたいなものなの。眺めるのは楽しいけど、手で触れたりするのは・・・まだちょっと怖いかな」

髪を撫でる俺の手をそっと押し返して、まだ涙で潤んだ、けれど何か決意に満ちたような瞳が俺の目を覗き込む。

「だけど。いつまでもそんな事じゃ、駄目なんだよね。だから裕紀も私も・・・」

そろそろ現実を認めて、一歩踏み出さなくてはいけない。

実際にはその言葉が続く事はなかったけれど。でもその目から、雰囲気から、沙夜子の言いたい事はおおよそ見当がついていて。

頭の中で勝手に補完されたその言葉。それが出来るだけの時間を沙夜子と一緒に過ごしてこられた事。

そういう沙夜子との関係を、美鈴が望んでいたのだと言う事。

美鈴はあの歳できっと知っていたのだと思う。世界は二人だけで生きていけるほど、単純なものではないのだと。

 


「裕紀は沙夜ちゃんの事、好き?」

今思えばその問いが全ての始まりで。そして全ての終わりだったのだと思う。

彼女に対しての裏切りだと知りながら。でも、それは本心で。

本心ではあったけど、でも一番の理由は、俺が自分以外の誰かと関わる事を強く望んでいるようだった美鈴の、喜ぶ顔が見たかったから。

だけど頷いた俺に。

「・・・そうなんだ。うん、よかったね」

彼女はそう言って寂しそうに微笑んだ。

俺は

俺が大好きだった

他には何もいらないと思っていた

彼女の笑顔を、見せてほしかっただけなのに。

 


**十九年前**

『僕は美鈴だけでいい。

世界が僕と美鈴だけだったら、僕は凄く幸せなのに』

 


縁側に座ると、目の前にはいっぱいのヒマワリの花。5月のお休みの時沙夜子と美央美が植えていたそれを、冬子が持ってきたスイカを食べながら8本まで数えたけど、そこから先は面倒臭くなってやめちゃった。

昨日晩御飯を食べてる時、庭のヒマワリが満開になったってねって話になって、その時の晴紀の話だと、どこかに見渡す限りのヒマワリ畑なんてあるらしいけど、そんなにヒマワリばかり植えてどうするんだろう。

さっき、昨日の夜はそれが気になって全然眠れなかったって言ったら、美央美と沙夜子が思いっきり呆れたような、馬鹿にしたような目で僕を見ていたのを思い出す。

思い出したらちょっと頭にきて、手にしていたスプーンを食べかけのスイカにザクザクと突き立てた。

本当は、食べ物に八つ当たりしちゃいけないんだって知ってる。いつもは笑ってばっかりで僕の事を怒らない冬子が、僕が食べ物を乱暴に扱った時だけは怒るから。

だけど僕は、スイカにスプーンを突き立てる。

そうしたらきっと、美鈴が僕を叱りに来てくれる。

冬子が来て僕を怒っても、僕はいつもみたいに聞こえないふりをするんだ。

そうしたら冬子は美鈴を呼んでくる。

僕が美鈴の言う事しか聞かないのを知ってるから。

美鈴が一昨日から熱を出してて、「安静にしなくちゃいけないから」って、晴紀と冬子が僕を部屋に入れてくれないから、美鈴とは全然会ってない。

だから冬子が、美鈴を呼んでくるかもしれないってちょっと期待もしてるんだ。

晴紀と冬子は嫌い。僕の親のくせに、僕の事を家族だと思ってないから。

沙夜子は嫌い。あの時約束したのに、僕の事を嫌いだって言ったから。

美央美は嫌い。「絶対の約束」を破って、僕と美鈴じゃなくて沙夜子といつも一緒にいるから。

美鈴だけが好き。優しくて、僕の事を好きだって言ってくれるから。僕の事をわかってくれるから。僕の側にいてくれるから。

だから美鈴と会いたいくて、僕は何度も何度も、スイカにスプーンを突き立てた。

 


何度も何度も突き刺しているうちにスイカはボロボロになって、スプーンを突き刺す場所がなくなったそれを眺めながら、色々考える。

誰も来なかったな、とか。冬子に見つかったら怒られ損だな、とか。見つからないうちに捨てちゃおうか、とか。捨てるならどこが良いかな、とか。兎に角そんな事を色々考えている時だった。

「裕紀」

後ろから聞こえる足音と一緒に、呆れたような、でもとてもとても優しい声。僕が絶対聞き違える事のない、彼女の声。

本当は凄く嬉しいんだけど、照れくさいからワザと拗ねたふりをして頬を膨らませ振り返ると、ヒマワリが満開で冷えたスイカが美味しくて蝉の声がうるさいくらいの夏なのに、長袖のパジャマに薄いカーディガンを羽織った美鈴がそこにいた。

「駄目だよ、裕紀。食べ物をそんなにしちゃ」

僕は照れ隠しに、自然と湧き上がる笑みを奥歯で噛み殺してそっぽを向く。そんな僕の頭を、美鈴は軽く叩いて僕の隣に座り込んだ。

「美鈴はゼッタイアンセイでメンカイシャゼツ、なんじゃなかったの? 会いたかったのに。だから僕、我慢してたのに」

「ゼッタイアンセイ・・・? メンカイシャゼツ・・・? なぁに、それ? お母さんが言ったの?」

「晴紀。だから僕は美鈴の部屋に入っちゃ駄目だって。美鈴が疲れちゃうからって」

ただ僕は美鈴の側にいたくて。美鈴に側にいて欲しくて。ただそれだけなのに。ほかには何もいらないのに。

そんな些細な願いすらも邪魔する晴紀達が、ますます嫌いになる。

ほかの事なら、晴紀や冬子の言葉なんて僕には全然関係ないんだけど、「美鈴の具合が悪くなるから」なんて脅されたら、あの二人の言う事を聞かなくちゃいけなくなっちゃう。それはとっても、クツジョクだ。

なのに。そんなふうに僕は本気で怒っているのに、美鈴はなぜか楽しそうに笑い出す。

「確かに裕紀と一緒だと疲れちゃうかもね。だって心臓はドキドキするし、眠れないもの」

「何でそんな事言うの? 美鈴も僕の事嫌いになったの?」

笑いながらの否定的な美鈴の言葉に、悲しくなる。僕にはもう美鈴しかいないのに、その美鈴からも嫌われてしまったら、僕はもう生きていたくない。

だけど僕の言葉に美鈴は笑うのをやめて、ゆっくりと首を振る。

「違うよ。逆だよ。裕紀が好きだから心臓がドキドキするんだし、せっかく裕紀が側にいるのに眠るのは勿体ないもの・・・あのね、私が裕紀を嫌いになるなんて、そんな事絶対無いから」

美鈴の絶対は本当に絶対なんだってことを、僕は今までの経験から知っていて。

だからそう言いながら僕の頭をゆっくり撫でてくれる美鈴が・・・甘やかしてくれる美鈴が・・・僕は大好きだった。

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