側にいるわけ1




私が彼と出会ったのは20年前。私達が小学校1年生の時の夏だった。

その時のことはまだ鮮明に憶えている。いや、その時の事を私は一生忘れることなど出来ないだろう。なぜなら、その時から私の人生は180度とまでは行かないまでも、大きく変わってしまったのだから。

友人達の多くはこの事を「沙夜ちゃんはそういう運命だったんだね」というが、私は運命だとか、そういった言葉では考えないようにしている。

確かに出会いそのものは偶然だったし、彼等・彼女等の言うとおり運命とか呼ばれる、そんな何かだったのかもしれない。けれど今でも、そしてこれからも彼の側にい続けようと、そう思っているのは間違いなく私自身の意思なのだ。

だから運命だとかそんな曖昧な言葉で、私は私達の関係を片付けてしまいたくはないのだ。

 

私が生まれ育ったのは、八方を山に囲まれた、田舎の農村だった。

春は山桜。夏はうっそうとした緑。秋は紅葉。冬は雪化粧を施した山々・・・と言ったように、四季折々の様々な景色が楽しめると言えば聞こえはいいけれど、実際の所はそれしか楽しむものはないと言うような、そんな田舎。

それでも私はこの村も景色も、子供の頃から好きだったし、それは今でも変わらない。

けれどこの村の持つ特異な社会性だけは、子供の頃はともかく今は嫌いだった。

周りを山に囲まれていると言う、地理的な要因が関係するかどうかはわからないけれど、この村は非常に閉鎖的なところで、挙句いまだ封建的な思想が根強く残っている。

そしてその閉鎖的、封建的な思想の根源であり、代表だったのが「御本家」と呼ばれる瀬川の一族だった。

瀬川家は代々この地の地主であり、村の八方を囲む山々とその内側の土地全てを所有していると言う家で、様々な要因からこの村に住む全ての人々が、今もその瀬川家から土地を借りて生活している。

戦後の農地改革後、住民は進んで瀬川家に土地を返還し、結果今現在もなお、田も畑も家の敷地も、全てが瀬川家の土地なのだ。

そのようにして代々瀬川家から土地を借りて生活してきたと言う歴史からか、この村の住人は皆、瀬川家に対して恩義とか忠義とか、そんな念を抱いている。

冗談や大げさな話ではなく、彼と出会う前の幼かった頃、私もそう言われて育ったのだ。

そして彼、裕紀はそんな瀬川家の当主だった。

 

「沙夜ちゃん。裕紀をしら……あら、ごめんなさい。瑞香が寝てるのね」

そう言って廊下から私の部屋を覗き込んだのは、裕紀の母親の冬子さんだった。

両手を顔の前で合わせ、片目を閉じて「ごめんなさい」などと言っている姿を見ると、しかもその姿が妙に似合っていたりすると、彼女が実際は四人もの子供を産み、40も半ばを過ぎた女性だと言う事が信じられなくなる時がある。

「瑞香の具合は?」

私の側で静かな寝息を立てている瑞香の顔を覗き込みながら、彼女を起こさないようにそっと私の隣に座り、小さいけれどよく通る声で、私に尋ねてくる。

「熱がちょっとありますけど。いつもの微熱で特に心配するようなことはないと、先生は仰ってました」

「そう、良かった。……ごめんなさいね、沙夜ちゃん。瑞香の事あなたに任せきりになってしまって」

「いえ。私もこの子の事が本当に好きで、それでやっている事ですから」

私にとってはごく自然に出てきた何気ない一言だったが、それが彼女にはひどく嬉しかったのだろう、同性である私すら思わず見惚れてしまうような、そんな微笑を浮かべ優しく私の頭を撫でてくれる。

さすがにこの歳でそういった行為は恥ずかしくはあったけれど、実の母のように尊敬している彼女からそうやって頭を撫でてもらう事が、私は子供の頃から好きだった。

「あっ、ところで冬子さん。裕紀を探してるんですか?」

好きではあってもやはり恥ずかしい事には変わらず、私は居住まいを正すように冬子さんとの距離を少しとり、彼女がこの部屋を覗き込んだ時、最初にそんな事を言っていたのを思い出す。

彼女は私の言葉にちょこんと首を傾げ、いかにも「あ、そうそう」と言った感じで軽く手を叩いた。

「そうね。私ここには明日の瑞香の誕生日の件で裕紀を探しに来たのよ。・・・沙夜ちゃん、裕紀がどこにいったか知らないかしら」

「裕紀でしたら、ついさっき散歩に行くって出て行きましたけど」

いつものように顰め面で「散歩に行ってくる」とだけつげ、私の返事など待たずに出て行った裕紀を思い出し、思わず苦笑を浮かべてしまった私を冬子さんは不思議そうに見つめてきた。

「いえ、いまさらなんですけどね。四六時中あんなに眉間に皺を寄せて、疲れないのかなと思って」

私は瑞香の髪をゆっくりと、先ほどまで冬子さんが私にしてくれていたように撫でながら、彼女の無言の質問に答える。

「あの顔にも慣れたなぁと思ったら、もう20年になるんですね」

「ごめんなさいね。あんな無愛想な子のお側付を押し付けちゃって」

瑞香の髪を撫でながら呟いた私に、冬子さんは心底申し訳なさそうに、それでもちょっとおどけたように応えた。

お側付……それが私と裕紀の間にある関係だった。

私と裕紀の関係を、この村とは関係ない高校時代の友人に話す時、この単語を使うと皆決まって笑い、こう言ったものだ。

「なぁに。彼って江戸時代のお殿様か何か? なんかそんな感じの言葉だね」

皆はそういって笑ったけれど、私がそれにつられて笑ったことは一度もなかった。

『江戸時代のお殿様』

時代錯誤といわれようと、この村において裕紀の存在はまさしくそれそのものであり、そしてそれゆえに子供の頃から心に傷を負い、その役目を忌み嫌っている事を私は知っていたから。

「お側付(おそばつき)」。簡単に言ってしまえば、瀬川家の子供の遊び相手の事だった。

なぜこんなご大層な名前がつけられたのか、その由来は知らないけれど、そんな役目をなぜわざわざ作ったのかと言えば、なかなか友人達には理解してもらえなかったが、ある意味簡単な事だった。

瀬川家の子供と遊ぶ事を、他の子供達(正確にはその親達)が嫌った為だ。

それもある意味仕方がない事だとは思う。この村での子供の遊びはなぜか荒っぽく、怪我がつきものだった。

木登り、鬼ごっこにかくれんぼ、川遊びに石投げ。

木登りをしては落ちる、引き摺り下ろすは当たり前。鬼ごっこやかくれんぼでは危ない場所に平気で入り込む。川遊びや石投げではほんの些細な事から喧嘩になった子供達が、川底や川辺で集めていた小石を投げつけ、石合戦になるのは日常茶飯事。

万事そんな感じで「御本家のお子様に怪我でもさせては」と大人達は思っているようで、子供達にこう言い聞かせるのだ。

「御本家のお子様は遊んではいけません」と。

実際に私は裕紀と出会うまでそう言われていたし、どこの家でもきっと同じなのだろう。

怪我でもさせて瀬川家から睨まれれば、よくて村八分。悪ければこの村から追い出されかねない。

大人たちがそう言い聞かせるのも、無理のない事だとは思う。

そんな感じで遊ぶ相手のいなくなった瀬川の子供の遊び相手が「お側付」と言うものだった。

まぁ、悪く言えば人身御供なのだと思う。

瑞香の髪を撫でながらそんな事をぼんやり考えていると、カタリと障子の開く音とともに小さな男の子がひょっこりと顔を出した。

「あら、悠紀。……どうしたの? そんな所から覗いてないでこちらにいらっしゃい」

障子の隙間からこちらを窺っていたのは裕紀の姉、美央美の長男・悠紀だった。

祖母である冬子さんの言葉に従い、怖がりながらも好奇心に負けた子猫といったふうに恐る恐る部屋に入ってきた悠紀は、冬子さんと私の間に正座し、座った事で少し落ち着いたのか瑞香の顔を心配そうに見つめる。

「ママにね、きいたの。さよこおばちゃん。みずかちゃんだいじょうぶ? あしたのおたんじょうびだいじょうぶ?」

私の顔を見上げ瑞香の心配をして、幼いながらも真剣な表情で聞いてくる悠紀が私は無性に愛しくなり、それまで瑞香の髪を撫でていた手で自分の膝を軽く叩きながら、悠紀に「おいで」と声をかける。

それまでも幾度か、そうやって彼や彼の姉・悠華を膝の上で抱いた事があったため、彼はちょっと躊躇しながらも、素直に私の膝の上にちょこんと足を投げ出して座り込んだ。

「瑞香が心配でわざわざ来てくれたのね。ありがとう悠紀」

悠紀の小さい体を後ろから痛くないぐらいにギュッと抱きしめて耳元で囁くと、くすぐったかったか、彼はちょっと身をすくめてクスクスと笑った。

「ねぇ、さよこおばちゃん、おばあちゃん。みずかちゃんだいじょうぶ? あしたみずかちゃんのおたんじょうびかいできる?」

「大丈夫よ、瑞香はちょっと疲れただけだから。だから一日ゆっくりお休みしたらよくなるわ」

冬子さんの言葉に、悠紀は首を傾げる。

「みずかちゃん、つかれちゃったの?」

「そうね、瑞香も明日のお誕生日の事をすごく楽しみにしてたから、ちょっとはしゃぎ疲れたのね。だから明日には元気になってるわよ」

冬子さんに続き、私も大丈夫だと答えた事に悠紀は安心したのか、満面の笑みを浮かべ「うん」と頷いた。

「さて、あまり長い間ここでお喋りしてると瑞香が起きちゃうわね。悠紀、もしかして一人でここまで来たのかしら? だったらお家まで送ってあげるから帰りましょう。お母さんがきっと心配してるわ」

冬子さんが立ち上がり、私の膝の上に乗ったままだった悠紀を抱き上げる。

悠紀はずっと眠ったままの瑞香を心配そうに眺めていたが、冬子さんが安心させるように悠紀の頭を撫でると、甘えるように冬子さんの胸に顔をうずめた。

「あらあら、この子ったら。……それじゃ沙夜ちゃん、私は悠紀を美央美の所まで送ってくるから、裕紀が帰ってきたら私の部屋まで来るように伝えて」

穏やかな、そう教会の聖母像のような穏やかな笑みを浮かべ、自分が抱いている悠紀と、私と、眠っている瑞香を見回し、最後に一度頷くと冬子さんは廊下へと出て行った。

「沙夜ちゃんは瑞香についていてあげて」と言う冬子さんの言葉に甘え、彼女たちの見送りは部屋の前までにとどめて、再び瑞香の枕元に座った私は冬子さんの事を考えていた。

私にとって彼女は母そのものであり、最も尊敬する女性だった。

勿論実の母親を私は家族として愛していたし、母親として尊敬もしている。けれども母と聞いてまず真っ先に思い浮かぶのは冬子さんであり、彼女がいつも浮かべている、両手を広げて私達を待ってくれているような、そんな微笑だった。

聖母像のように、けれど像のように静謐さ・荘厳さではなく、血肉を持った生身の母の暖かさ。

そう、使い古された陳腐な言葉かもしれないが、私にとって彼女が「聖母」そのものだった。それゆえに私は彼女に憧れ、いつか裕紀や瑞香にとってのそういった存在になりたいと昔から思い続けている。

宮野冬子。彼女は私にとってそんな存在だった。

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