お笑いコラム


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学校(2004.8/13)

思えば、そこは『学校』であり、その男は『教師』だった。
人を笑わせる事とは何か?を学び、考え、育てる場所だった。
そしてその場所で男は限りなく厳しく、限りなく熱く振舞った。
そこから様々な人が巣立ち、様々な物が生まれた。
しかし、その教師であった男は、突然僕らの前からいなくなってしまった。

いかりや長介さんが、亡くなった。
未だにこの文字をタイプする指は震え、モニタを見る視界は歪む。
個人的に、変な感慨で恐縮だが、
「ザ・ドリフターズの誰かが死ぬ」なんて考えた事もなかった。
当然人は老いる。老いればやがて死ぬ。
しかしそれでも、ドリフの面々はずっと我々を笑わせ続けてくれると思っていた。
それだけドリフターズの笑いは、我々の人生に直結していた。
でも、長さんは死んだ。「また来週!」とも言わずに。

恐ろしい裏番組を向こうに回して「8時だよ!全員集合」は開始され、
実際に当初は苦戦しつつも、やがて放送作家に頼らない練りこまれたコントで人気を博し、
遂には裏番組と肩を並べ、追い越し、「お化け番組」とまで呼ばれるようになった。
ここまでは追悼する番組などで数多く触れられた事だ。
しかし注目したいのは「全員集合」も、そして「ドリフ大爆笑」も、
「育てる」という事に重点を置いた場所だった、という事である。
メンバーであり、生え抜きの生徒でもある加藤茶・仲本工事・高木ブー・志村けんは
未だに恨み言が止まらないほど、いかりや長介に「お笑い」を厳しく教え込まれた。
教師であるいかりや長介もまた、ライバルとは違う物を作り上げなければならないという
責任感で、ますますメンバー達に厳しく当たる。
その努力に効果が表れ、やがて「お笑い」のスタンダードになり始めた時も、
いかりやは手を緩めなかった。
人気番組ということで番組のゲストに来るアイドルや歌手、俳優達にも
いかりやはメンバー達と同じように熱く「お笑い」を指導した。
名のある芸能人が、コントに取り組みセンスを発揮し始めたのも
ドリフがらみが始めであり、今に続いている。
そんな彼らもやはり口々に言う。「長さんは、厳しかった。怖かった」と。

「人間誰もが持っている笑いのセンスを見つけ出す」。
この方法論でテレビのお笑いを作ってきた『先駆者』、萩本欽一。
その巨大なライバルに「徹底的に計算し尽くして笑える場所を作る」
という手段で対抗し、未だに残るコントの文法を確立した『教育者』、いかりや長介。
あれだけ憎み、恨みながらも、その教育者の教えに忠実に従い、
更に新しい学説をコントの文法に加え続けている『学者』、志村けん。
やがて時は過ぎ「蓄積された知識の上に出るアドリブこそが笑いだ」と、
ドリフの方法論を徹底的に否定した『革命家』、ビートたけしが現れた。

「もうねえ……生きてく張り合いがなくなっちゃったよ。本当だよ……」
まさしく「笑いを作り上げる苦労を知っていた唯一の戦友」を失い、
萩本欽一は悲しそうに呟いた。
「流行ってる物がどうあれ、結局最後お笑いは、いかりやさん達が作った物に
回帰していくと思うよ。これは絶対に」
かつて自分がのし上がるためにその男を徹底的に否定した
ビートたけしは、ドリフの方法論が普遍であると皆に諭すように言った。
「……」
いかりやの訃報に、志村けんは、ただ呆然としていた。
ファンである我々も、志村の普段とはまるで違う姿に驚き、
長年一緒にいたスタッフも「あれほど沈んでいる志村を見た事がない」と驚いた。
いかりや長介とは、それほどの男だったのだ。

正直、まだ割り切れていない。
「ドリフなんて子供が見るもの」と、友人達が離れていった頃でも、
私は「ドリフ大爆笑」を欠かさず見ていたのだから。
テレビの中で「今日のテーマは」と口上を述べ、
計算されたコントを「だめだこりゃ」とオチをつけるいかりやさんを、
まだ涙なしでは見られない。大笑いしながら、泣いている。


ホントに後悔するぞ!(1998.9/21)

「10年後、ワシらがおらんことに気がついた時、お前らホントに後悔するで!」

ダウンタウン。「ワガママ」と罵られ、出る番組が「イジメ番組」だと批判され、一般市民には
ウッチャンナンチャンのほうがマジメそうで好き」と言われる、あのダウンタウン。
なんだ、マジメそうって。そんなことで評価されるのを、
ウッチャンナンチャンが望んでると思っているのだろうか?

話が脱線。ダウンタウンの二人 松本人志浜田雅功
「この世界に入った時から生意気やっちゅうねん!」と、毒を吐く松本と、
「誰でもええから、ちゃんと俺らのこと調べて書いてくれへんかなぁ」とマスコミに優しく釘をさす浜田。
なるほど、今のお笑い界は「ボキャブラ」のような「素人に採点される」芸は許容しても、
ダウンタウンの「大爆笑か、極サムか」という、危険性の高い芸は許せないらしい。

確かにダウンタウンの毒の強さは、大ファンである僕でさえ見ていてツライ時がある。
「それはヤリすぎだよ、松本さん」と、思わず引いてしまうことも少なくない。
でも、そんな時二人は言うじゃないか。「お前ら、ちゃんとついて来い!」って。
簡単なことだ。僕らがまだ二人のお笑いを理解できる脳を、持ち合わせていないと言ってるのだ。

松本人志が舞台上で答えに詰まっている。ツッコミの浜田雅功は、相方が苦しんで苦しんで
這い上がってくるのを、ウキウキしながら待っている。時には、
あえて突き放すようにあいまいな言葉を投げる。
そして、そんな時の松ちゃんの反応は二つ。キレるか、神に魅入られるかだ。
気が弱いくせにプライドの高い松ちゃんは、客など関係無しにキレ、
「お笑いの神に唯一許された表現者」としての松ちゃんは、
他の誰にも考えつかない珠玉のボケをぶちかます。
そして浜ちゃんは、神のボケを放った相方に変幻自在のツッコミを入れ、
キレてスネた松ちゃんには、優しいツッコミを与える。

お互いが、最高に認め合って始めて完成する「芸術」。
人間の文化の最高傑作である「言葉」を元にした「お笑い」は、本来それほどに完成されたもののはずだ。
そして、それを常に目標にして客の前に立っているのが、ダウンタウンだと僕は思う。
下品だから」とか「もう終わり」とか言ってダウンタウンへの思考を閉ざしているあなた!

二人はそれほど気長ではありませんよ。「あかん。お前ら、まだまだやわ!」と言いながら、
目の前から姿を消した時、後悔しても知りませんよ。
僕は、後悔したくないですから。


「とんねるず」という、冒険。(1998.9/23)

若手のお笑いコンビで、「僕らとんねるずさんが目標です!」と
本人たちの前で宣言してた奴がいる。
そいつらはおそらく大物にはなれないだろう。
今の時点で、とんねるずの面白さが彼ら一代のものと気がついていないのならば、という意味でだ。

とんねるずが一所懸命上に這い上がろうとしていた頃、そう「一気!」の頃ぐらいか。
自分たちを狙うTVカメラを要以上にニラミつけ、誰も知らない自分たちをアピールしていた。
カメラの前では、けして動きを止めることはない。カメラの向こうの視聴者に確信的に自己主張する。
そんな芸人は、とんねるずの前には誰一人いなかった。
カメラの前でじっと自分の芸を見せるか、スタッフの指示どおりにネタを提供するか、
その2タイプしかいなかったはずだ。
とんねるずのまえにとんねるずなし」である。

そして今、とんねるずの二人はお笑いを卒業し(あえてこう書こう)、
最高の芸達者」を目指しているように思える。
石橋貴明は強烈なリーダーシップと、男が惚れるカッコよさでさまざまな交友関係を構築している。
木梨憲武も、他の芸人が望んでも手に入れられない恐ろしいまでの器用さで笑いのジャンルを広げていく。

芸人ふぜいが、なにができる」。こんな言葉に真っ向から反発してきたのがとんねるずだ。
誰も通ったことのない険しい道を、たった二人で進んできたのがとんねるずだ。
現在、間違いなくトップに君臨しているのに、二人は険しい道の行進を止めようとしない。
まるで世紀の発見を宿命づけられた探険家のように、「とんねるず」という冒険を繰り返すのだ。


そろそろナイナイを助けてやるべきだ。(1998.10/10)

僕には、ある自信がある。「ナインティナインの番組を見ても笑わない」、これだ。
実際それを何度か実験して、そのたびにやり遂げた。
僕はヒネた性格をしてはいるが、面白いものを笑うぐらいの素直さは持っている。
でも、ナイナイのバラエティ番組は笑えない。この程度で笑うと、ナイナイの二人に失礼だと思えるからだ。

原因はただ一つ。彼らが彼ら自身の言葉で勝負していないからだ。
「めちゃイケ」や「ナイナイナ」を見ていると、確かに絵面は楽しそうに見える。
極楽とんぼ、よゐこ、光浦靖子、そして鈴木紗里奈や雛形あきこたちと
楽しそうにはしゃぐ岡村隆史、それをツッコむ矢部浩之
おそらく大勢の視聴者には、この光景が「笑える」のだろう。しかし、僕は笑わない。
逆にナイナイの二人、特に岡村が楽しそうにすればするほど、僕は悲しくなってしまう。
その笑い全てが、メインでなければならないナイナイの二人を差し置いて構築された「作られた笑い」だからだ。

特に「めちゃイケ」で顕著だが、ナイナイ以外のメンバーが自分のキャラ通りに行動し、
笑いが生まれる場面がある。そして、悲しいことにそこにはナイナイは必要ない
よゐこの濱口が「素」で笑いをとっても、極楽とんぼの加藤が逆上して見せても、
そこにナイナイは必要ないのだ。必要なのは、適度にツッコミが出来る人間でいい。
事実、笑いには素人であるである鈴木や雛形がツッコむ場面も少なくない。
そしてそんな場面でも岡村は楽しそうに笑い、相方の矢部はなぜか冷めたように笑う。

岡村は人がいい。見ていればすぐに分かる。だからこそあんな場面でも素直に笑っていられるのだ。
そしてここからは憶測だが、矢部は心のどこかで納得していない自分を感じながらも、
やはり今の状態に一応満足しているように見える。
そう、満足しているのだ。たくさん仲間がいて、楽しくやれて、そしてお金がもらえる。そんな状況に。

しかし、やはりかわいそうだと思う。ときどきかいま見える二人のセンスの良さ
(これはなぜか二人がメインでないジャングルTVなどでよく見られる)、
そして今年から始めた衛星・CS放送向けであるライブの実現など、
本来ナイナイが持っている才能を見せてくれる場が増えているからだ。
お笑いの世界は人がいいだけで上に上がれるほど甘くない。
そしてナイナイはその甘くないお笑い界の上位にいるのだ。
今こそ「他の芸人」や「構成作家」の呪縛から逃れ、
僕のようなヒネた視聴者に目にものを見せてはくれないだろうか。


ウッチャンナンチャンの才能と矛盾(1998.11/2)

ずっと、ウッチャンナンチャンのことを誤解していた。今深く反省しているところだ。
とんねるず2世」。つい2年前までの僕のウンナンに対する評価だった。
お笑いのコンビは、人気がある程度に達するとフジテレビの
ゴールデンタイム進出の機会が与えられる。とんねるずなら「みなさんのおかげです」、
ダウンタウンなら「ごっつええ感じ」、ナイナイなら「めちゃめちゃイケてる」。
そしてウッチャンナンチャンは「だれかがやらねば!」だったか。
タイトルは何度か変わったが、内容はおおかた一緒だった。
人気ドラマのパロディコント、ゲストを迎えてのゲーム、レギュラーとの掛け合い……
まるで「みなさんのおかげです」を見ているように思えた。

確かに面白かったかもしれない。南原清隆の大げさな演技、内村光良のメイク&コントの演技力。
しかし、内容があまりに「みなさんのおかげです」に似かより過ぎていた。
いちばん驚いたのが、ほぼ同時期にまったく同じドラマをパロディコントにしていた事だ。
個性を売る「お笑い」が、切り口は違うこそすれライバルと同じことをやる。
そんなウンナンの姿を見ていて、僕の中の彼らのランクは下がるばかりだった。

さらに追い討ちをかけるように、彼らはお笑いの本流から少しずつ離れて行く。
普通のバラエティ番組での司会という役が、ある時期増えてきたのだ。
少々のアクを残しながらも、二人はその場で「人あたりのいい」キャラクターに徹していた。
ゲストタレント事故死による番組打ち切りという不幸があったにしても、
彼らの変化が僕には許せなかった。
ああ、ウンナンはもう終わりだな」、そう思いながらチャンネルを変える日が続いた。

ウンナンの二人は、本来お笑い志向ではなかった。
南原は俳優、内村は映画監督を目指し専門学校に進み、
たまたまそこに「お笑い」の授業があっただけなのだ。
だが、ここで断言できる。二人には、俳優や監督の才能は無く
そしてたまたま進んだ「お笑い」のほうに、驚くほどの才能がある、と。

僕の彼らに対する評価を180度転換させたのは、
ある雑誌に掲載された二人のインタビュー記事だったと思う。
内村「ほんとはねぇ、カツラかぶって濃いメイクして
                       とぼけた事をするのがいちばん楽しいんですよ

南原「自分たちが考えたコントのネタで、仲間やお客さんが大笑いしてくれる
               時が『ああ、この世界入ってよかった』って思える瞬間ですね

まるで人気が出たばかりの若手コンビのようなセリフを、二人は語っていた。
なるほど、内村は突飛なキャラを演じているときのほうが活き活きしているし、
南原もシュールなネタのコントをやっている時、いつもより光って見える
その二人の才能に気がついたからこそ、だからこそここで言いたい。
あの「ウリナリ」の感動シリーズ、もうやめないか?
実は不覚にも泣いてしまったが……。


日本最後の「コメディアン」。(1998.11/12)

非常に大きな意味を持ったタイトルをつけてしまった。大丈夫か?
ま、話を始めよう。現在、生粋の「コメディアン」は絶滅寸前である。
生粋のコメディアン=コメディを生業にしている人間。僕はそう考える。
じゃあテレビによく出ている芸人たちはコメディアンじゃないのか?
答えは「YES」だ
ダウンタウンは「漫才師」、ウンナンやナイナイ・昔のとんねるずなどは「コント芸人」だ。
他の芸人は、はっきり言おう。「バラエティー・タレント」だ。
ダチョウ倶楽部のように図らずも「バラタレ」に籍を置く「コント芸人」もいるが、
まあおおかたそういう括りだろう。

前置きが長かったか。つまり「コメディアン」は探さなければいけないほど少なくなっているのだ。

そしてまずはっきりと思い出される生粋の「コメディアン」は、萩本欽一・欽ちゃんだ。
彼は自分の職業を「コメディアン」と言い切る。笑いの頭脳は衰える、というのは哀しい現実だが、
しかし彼は間違いなくコメディに生きコメディに死ぬであろう「コメディアン」だ。
そして次に、伊東四郎。今は俳優として確固たる地位を築いているが、
彼もまた「自分の帰る場所は舞台だ」と公言するコメディアンである。

さあ、ここまで書いて、欽ちゃんや伊東四郎さん以上のコメディアンを紹介しなければいけない。
「コメディアン」という近いうちに絶滅するであろう動物。その日本最後の個体
その名は「志村けん」だ。

下品で、いやらしくて、下ネタを連発するあの志村けんだ。
なぜ彼が最後のコメディアンか?何度も言うようだが、「コメディアン」は
コメディに生きてコメディに死ななければならない。
他の道を経ようが、必ずそこに戻る運命の道。
その最後の求道者が「志村けん」なのだ。

「下品だ」とバッシングされ、ドリフ解散騒動で世間が騒いでいたころ。
本来マジメでクールな彼は、漠然とした気持ちでアフリカへの旅に出かけた。
べつになんの目的も無い、ただの旅行であるはずのその先で、
彼は「コメディ」の本質に辿りついた。
その村では、動物の糞を見てははしゃいでいた。現地語で「」を意味する単語を
村人たちは叫び合い、そして皆で笑っていた。
テレビも無い村で、その「笑い」は確かに存在し、突き詰めると志村本人の芸とも繋がっていた

志村けんはいまだ志村けんのままだ
人間が、心から笑えるものは数少ない。その真実に辿りつき自ら実践する「コメディアン」。
今日も彼は顔を真っ白に塗り、馬鹿を演じながら「コメディ」を生きるだろう。


1998年 お笑い総括してみよう。(1998.12/25)

色々書かないといけないから駆け足で行こう。
お笑い界で、今年「ブレイク」したと思えるのは二組か。
芸を突き詰め続けてきた「遅れてきた才能」 爆笑問題と、
「コントに不条理を」をモットーにしている ネプチューンだ。
爆笑問題は、未だに田中裕二のツッコミに荒削りさがあるが、才能はピカイチだし、
ネプチューンは3人全員、全く個性が違いその個性がほとんどプラスに転じている稀有な例だ。
しかし二組とも悲しきかな、TVレギュラー番組を持つという「弊害」に犯されつつある。
自分たちの芸を見せることでここまで生き残った二組だからこそ、
こんなことで、潰れぬよう願う。さて、次。

傾向としては、「劇場形お笑い」の変化である。
吉本興業太田プロなどが劇場を舞台にした若手お笑いの育成を進め、
新しい「お笑い」の発信地となっていた。
しかし、ここにきてその弊害が生まれ始めている。
劇場で生まれてきた芸人たちが、見事に立ち止まり始めているのだ。
つぶやきシローふかわりょうは、鋭い観察眼とシニカルな視点で、
劇場独特の雰囲気をそのままテレビに持ちこんだ。
だが、その勢いは「テレビ」の壁に阻まれ、
今や二人は「いたって普通の」芸人になってしまった。誰が悪いわけでもない。
もう1つの傾向は、テレビ的笑いに慣れることが出来ず、
非常につらそうに画面に登場している芸人もいる。その代表がロンドンブーツ1号2号だ。
彼らは常に「劇場でネタをやりたい」と公言しているが、
劇場側(=事務所側)は、すでにテレビ的に名を上げたロンブーにけしてネタをやらせず、
あろうことか劇場での司会をやらせたりする。彼ら二人がそこにいるだけで、
客席は彼ら目当ての客で満員になる。彼らのネタ目当てでなく、だ。

つまるところ、テレビの「お笑いシステム」と、芸人たちが望む「やりたいお笑い」に著しいギャップがあるのだ。
1998年を総括しようと思ったが、この問題はすでにここ何年かの問題であるし、
来年もまた「システム」と「お笑い」のせめぎあいは続くだろう。

あ、あと一つ思い出した、「パイレーツ」、消えろ。




明石家さんまのポジション(1999.2/26)

NHKが毎年行っている「好きなタレント」アンケートの、男性タレント部門1位に
あの明石家さんまが選ばれた。正直なところ、非常にやばいんじゃないのか、と思う。

トークの天才』と、人はさんまを褒め称える。これには、僕も異論はない。
おそらく天性のものであろうセンス鋭いボケと、
またこれも天から授かった微妙な切り口のツッコミ
この2つの才能を、ただ浪費するだけでなく、
どんな相手にでも対応できるよう、微妙に力を加減して、その上笑いを取る。
これは、他の誰にも真似できない
個人における『トーク』の力量は、間違いなくお笑い界No.1だと断言できる。

最近のさんまは、どんなに「おもしろくない」相手とでも、
確実に笑いを取る。彼のMAXを100とするならば、こういう場合は
60〜80ぐらいか。これでも充分「おもしろい」のだ。
だから、「誰と絡んでもおもしろい」イコール「好きなタレント」となったのだ。

非常によくない。彼がそういう技術を駆使するたびに、
彼本来の「キツイ」笑いが薄まっているように思える。、というのだろうか。
常識論から逸脱した、しかし不条理ではない毒。

「好きなタレント」になってはいけない芸人なのだ。
そんなキツイことを、よう平気な顔して言えまんなぁ!
それが明石家さんまの真骨頂なのだ。
相手に合わせる芸が、彼本来の芸ではない。


コントの再認識(1999.3/25)

ゴールデンタイムのバラエティ番組に初めて苦言を呈したのは松本人志だった。
ごっつええ感じ」番組内のセットに注文をつけ、「納得するまで番組やらない」と言った。
スポンサーの財力と、こ慣れた専門スタッフたちの技術。
しかし、それは『お笑いの本質』とは何の関係ない、ということに気がついたようだ。
そして松本は、ゴールデンを「捨てた」。
ごっつは、あのように非常に衝撃的な終了を迎えることになったのだ。

彼が「ごっつ」以降、「一人ごっつ」や「松ごっつ」を経て始めたのが、
ヴィジュアルバムシリーズ』、純粋なコントの製作だ。
制約の少ない、しかしその代わりにリスクの多いビデオという媒体で、
松本はコントを始めた。
ネタ振りも、オチもあやふやだが、
恐ろしく「笑える」コントを作り上げた。
松本純度の高い作品だった。

そしてもう一人、コントの再認識を行った芸人がいる。
内村光良だ。彼は至極当然のように深夜枠の番組で、
若きコント芸人ネプチューンと共にコント番組を始めた。
そして内村は、彼特有の『いびつなキャラ』で、
シュールなコントの世界を構築している。

ダウンタウンとウッチャンナンチャンという笑いの両巨頭から、
生まれ出でた「コントの再認識」というムーブメント。
笑いを突き詰めることをやめない芸人たちは、
少しずつその匂いに気がついているようだ。
とんねるずの木梨憲武も、ナインティナインの岡村隆史も、
コントにこだわりをもっている。
輪はさらに広がって行くらしい。

実はこの動きには、大きな弊害がある。
ここで語るのは恐ろしいほどの、大きな弊害
その話は、また今度。


お笑い人物模様(1999.4/27)

今回は、現在のお笑い界で目につく人物を老若問わず取り上げます。

その1、シュールの塊 ネプチューンの堀内健
この男はとにかく恐ろしい。やることなすこと「シュール」としかいいようがない。
コントのなかでも、一人だけ激しく浮いている
浮いているという点では同じコンビの原田泰造も特異ではあるが、
堀内はさらに上を行くシュールさで驀進している。
だからこそネプチューンというトリオは恐ろしい。
堀内と原田という個性の塊を名倉巧みにコントロールしている。
この先恐ろしいことである。
でも、あまり激しすぎるシュールさは、見ている人の「?」を誘う。
3人がうまく機能して欲しいものである。

その2、最近あえて関根勤
関根は自分自身のこれまたシュールなボケと、
相手の出方を見てする柔らかできついツッコミを武器にしている。
じつはあの柔らかで掴み所のないキャラクターでありながら、
常にどんな場所でも自分のキャラを押し通している
そしてだれもを笑わせる。そして皆に好かれる。
残る」芸人だと断言する。

その3、案外いいぞ雨上がり決死隊
コントは他の有力コンビとほぼ同じなのはしかたがない。
しかし、彼ら二人には意外な長所があった。
トーク」が案外いいのだ。
その機会自身があまり多くないのが玉にキズだが、
蛍原徹宮迫博之の合っているのか合っていないのか分からない
絶妙なトークが面白い。今までにないタイプだ。
まあしかし、その機会を増やすも減らすも彼ら自身の実力次第

その4、懸賞からの生還 なすび
彼に関しては非常に判断に困っている
「電波少年」内の懸賞生活で彼が見せた数々の行動&言動は、
心から素直に笑える面白さだった。
あの面白さは企画の面白さではなく、彼自身の面白さだったと思う。
他の人間ではああはいかなかったであろう。
しかし「電波少年」自体が企画度が非常に高い番組であるため、
あの番組から出た人気者はハズレが多い。
しかしなすびの評価が難しいのは、
猿岩石みたいに「はじめから面白くない!」と断言できないことにある。
あのキャラは貴重だ。もしかしたら、今まで以上に化ける可能性もある。

以上。


吉本新喜劇(1999.6/13)

吉本興業が満を持してTBSで「超よしもと新喜劇」を始めた時、
僕はその笑いに満足しながらも、
『これではまだ全国レギュラーはむずかしいだろう』と感じた。
新喜劇の若手四天王のうち三人を東京に呼び寄せ、
そのうえ脚本や構成を若者向けにアレンジした、
東京進出の切り札、としての番組だった。が、
やはり僕はこの船出に不安を感じていた

僕も「吉本の笑い」を大方許容できる関西以西の人間である。
しかしチャーリー浜池野めだか島木譲ニと同時期やそれ以前の新喜劇芸人、
間寛平岡八郎ONLYの劇は、やはり笑いを躊躇してしまう。
レギュラー放送は時間があれば欠かさず見るが、
やはり内場勝則辻本茂雄吉田ヒロを筆頭に石田靖山田花子藤井隆らの繰り広げる
若さ溢れる新喜劇が好きだ。

もちろん新喜劇の良さはベテランと若手との『力のせめぎあい』がなければ
単なる予定調和のお笑い劇に過ぎない。
だからこそいま若手に奮起してもらいたいのだ。
このTV時代に藤井隆のように、舞台での知名度以上に
TVで人気者になった者もいる。
しかし、そのキャラは舞台上で演じる役の特殊さを、
ほんの少しずつ小出しにしているだけのように思える。
彼らが実力を発揮し、最高に輝いていられるのは
やはり新喜劇の舞台上なのだ。

『超よしもと新喜劇』『超コメディ30!』が短命に終わったのも
器だけ新しくして、肝心なところで桑原和男らの
実力派の「客を持っていける芸」に、若手が頼っていたからとも思える。
吉本は先の2番組を糧として、
こんどはCSで新たな新喜劇を見せたいと意気込む。
今度こそ、若手の本当の奮起を期待しよう。


プロの笑い、素人の笑い(1999.8/4)

テレビのバラエティ番組を見ていて、自分がいちばん腹が立つことから話を始める。
それはブラウン管に『ニセ素人』が出てきた時だ。
奴らが作りに作った話題でその場が盛り上がったりした時などは
思わず虫唾が走る。そして、その機会は最近段々増えてきている

今更テレビのヤラセをどうこう言うつもりはない。
ヤラセだと分かっていても「T´」や「Gへ行こう!」は毎週見て楽しんでいる。
問題はそこではない。「プロ」を「素人」として出演させ、それで笑いを取ろうとする魂胆が、だ。
昨日地方CMで普通のオバさんだった人が、今日はダメ夫を叱る猛妻になっている。
昨日さえないサラリーマンだった人が、今日は激しいダンスで芸人たちを笑わせる。
彼らはプロの役者さんだ。「素人を演じる」プロの役者さんだ。
番組制作者の意図を的確に汲み取り、「面白い素人」を完璧に演じ切る

しかし、逆説を用いれば「素人を演じていなければ、プロでいられない」立場の人間なのだ。
彼らが自ら「僕らはプロだったんです。これからも変わらずよろしく!」と公表すれば、
たちまち彼らのプロとしての立場は崩れ去ってしまうだろう。
だからこそ、制作者は彼らの正体をあえて明かさず、お茶の間の笑いに結びつけようとする。

素人の笑い自体は決して否定されるものではない。
超一流の芸人でさえ、素人のボケに翻弄される場合だってある。
しかし、その面白さをクローズアップするあまり、つまるところの「用意された笑い」に行きついてしまう。
天然ボケふう」のセリフを「プロが演じる素人」に言わせるという、滑稽な場面が生まれる。

視聴率、というものがいびつに幅を利かせているTV界で、
この「素人ふうの笑い」が視聴率を稼ぎ、一流のプロが練りに練った笑いが評価されずに終わる。
そして一流のプロはその状況に悲観し、深夜枠やビデオで鬱憤をささやかに晴らす。
それではいけないと分かっている者たちから、ブレイクスルーも起きつつある。
だからこそ『ニセ素人』が許せないのだ。
笑いが笑いとして評価される風潮が欲しい。


笑え、いや笑うな(1999.10/8)

客席から大爆笑が起きる。芸人たちにとって、これほど至福な瞬間は無いだろう。
しかし、その客席の笑いに対して彼は、いつも薄ら笑いを浮かべて応える。
その冷笑の意味を知りたい、と彼をブラウン管で見てからずっと思っている。

彼の芸は至宝だ、と思う。
その芸を見せる機会が少ないのが難点だが、見るたびにいつも感心させられる。
彼個人でも面白いし、引き合う相手がいればさらに面白くなる。
細かく、限りなく細分化された着眼点から生み出されるその芸は、
シュール」とか「ものまね」などというジャンルという物を越えて存在している。

しかし彼は自分の身を、進んで下らないバラエティ番組の場に置いている。
その番組の出演者たちは、どんな芸人よりも恵まれている。
他の場所では決して起きない笑いが、
その番組ではディレクターの手振り一つで起きるからだ。
それも些細な笑いではない、大爆笑が。

「どんなにつまらなくても起きる笑い」。それがいやで番組を降りた芸人が数人いる。
道を極めようとする者たちには、そこは余りにつらい場所なのだ。
だが、卓越した技術を持つ彼は、活動のほとんどをその番組に置いている。
それはそうだ。その番組は彼の名を冠している、彼の番組だからだ。

もしかして、彼は舞台の上から客を蔑んでいるのだろうか。
「こんなに面白くない芸で笑うなんて、俺のレベルには追いつけないな」と。
いや、客どころか出演者も嘲笑しているのかも知れない。

天才を自称し、周囲からもそう称される芸人は何人かいる。
しかし、その筆頭であるビートたけしと松本人志が口を揃えていうことがある。
「本当の天才になりたいからこそ、自分に天才だ天才だと言い聞かせている」と。
本当の天才は、芸をひけらかしたりせず、ただ達観しているのみだ。
もしかして彼、タモリのみが本当の天才なのかも知れない。
そう、赤塚不二雄という天才が、彼に惹かれたように。


出たがり=才能(1999.11/9)

今更ながら、という気がしないでもないが、今内村光良が素晴らしい。
彼が「ウリナリ」や「笑う犬の生活」などで見せるキャラクターは、
現時点で最高に完成された『コント』の文法だと思われる。
また番組内のプロデュースにも才能を発揮し、「笑う犬」では
何度も言うが「シュールの塊」ネプチューンや、
コンビを離れ当初不安視されていた「オセロの黒い方」、中島知子
そしてお笑いでもなんでもない女優遠山景織子を、見事にコント役者に仕立て、
それを見事なリーダーシップを持ってまとめあげている。

で、「笑う犬の生活」である。
コントに特化された番組というのはもはやこの番組のみではないか。
作者はそういう理由で細かいところまで見てしまう。
続き物の末期では少し調子がへたれるように感じられるが、
そんな時は新たなキャラが生まれ、すぐに新コントへとシフトできる。
そして気づく。「内村光良は出たがりだ」と。

原田や堀内がシュール過ぎた時に出てきて中和する。
遠山や中島の演技が上滑りしている時に引き締める。
他のバラエティでやってるコントなら、中核である芸人が出る場面でないのに、
わざわざ内村が出て行かなくてもいいのに出て行く。
コント大好きな芸人内村が「ただ出たい」がために出てるコントなのだ。

しかし、上手く機能している反面、ちょっと残念な面がある。
せっかく内村がまさしく「はしゃぎながら」コントを作っているのに、
他の出演者、特にネプチューンの3人が明らかに「遠慮している」のだ。
遠慮してはいけない。一緒にはしゃぐべきだ。
同じような問題に、ゲストを招いた時の状況がある。
ゲストがただ一人来るだけで、「笑う犬」の世界観が歪むように思える。
これ自体は現場の事情があるので仕方がないが。


字幕(2000.1/4)

年末に、半年ほど録りためておいたバラエティーのビデオを見た。
なるほど、涙が出るほど笑えるものや
腹の立つほどクソ面白くない番組もあった。
最近、悲しいことにどうもその腹の立つ番組の方が多くなっている
気がするが、それはまた別の機会に書きたい。
今回は、見ながら気がついた事をあげる。
それは、字幕だ。芸人がボケた時に画面に出る字幕だ。

自分の記憶が確かなら、この字幕を始めたのは日本テレビだったようだ。
お笑いの人間が多く出るクイズ番組だったか。
はっきりとした声でボケる芸人に対し、
一般芸能人は天然であれ小さな声でボケてしまう。
それを対比して引き立たせるために
どちらともの発言に字幕をかぶせたのが始まりではなかったか。

目に余る物がある。
実力もテクニックもない芸人をフォローするために
使われてることが多すぎる。
全てとは言わない。そのスタッフが芸人のボケを昇華させて
笑いを倍化させている場合もあるのだ。
しかし、なんだあのひどいのは
ボケたわごとかわからない(おそらくそのどちらでもない)、
どうでもいい言葉をただ無理矢理ボケにしているだけだ。
あれで「ウケた!」、いや「救われた!」と思っている
芸人がいるのなら、即刻芸能界から引退すべきだ。
自分の言葉で勝負しない芸人が、
スタッフの力量で救われるなど、
芸人でも何でもない


F君の悲劇(2000.2/10)

今日もまた、ブラウン管の中でF君が困った顔をしている。
皆にはやし立てられて、照れ笑いを浮かべながら、
「何でこうなるかなあ……」と心の中で思っている。
そんな場面を見るたびに、このままF君がダメになってしまわないか
心配になっていく。
このようなパターンでフェードアウトして行った芸人たちを、
何人も知っているからである。

F君は関西出身である。
一念発起して吉本興業に入り、主によしもと新喜劇の舞台に上がって来た。
一昨年、昨年頃から吉本が新喜劇を東京市場に乗せようと、
新喜劇の番組をゴールデンタイムに放映した。
その番組内で、F君は座長級の先輩芸人たちを相手に、
激しいオリジナルダンスと弾けたオカマキャラで舞台を駆けまわった。
彼のそのキャラは、新しいモノ好きの東京番組制作者の目に止まり、
さまざまなTV番組でF君の姿を見る機会が増えた。

「だって、彼ホントのオカマじゃないんでしょ?だからそれ考えちゃうと笑えない」
「だって舞台の袖に行っちゃうと、F君全然面白くないんだもん」
「お前が実力あるんなら、素のキャラで笑わせてみろよ〜」
上記の発言は全て芸能人がF君について言ったことである。
最初の発言の女優は、普段からドラマで演じる女性そのままで
生活しているのだろうか?
2番目の女性タレントは、部屋に一人でいる時も甲高い声
笑っているのだろうか?
3番目の発言をした芸人は、自分の普段の会話で
客から金をとれると思っているのだろうか?

つぶやきシローがそうだった。
舞台上で見せていたシニカルでシュールなキャラは、
ライトが煌々と照らし出すスタジオの上では完全に浮いてしまい、
最後には「普段はつまらない人」というレッテルを貼られ、
挙句の果てには死亡騒動である。

F君は必死に踏ん張っている。
本来真面目気の小さな彼は、普段の自分が思わず出てしまい、
その面を共演者にツッコまれるが、
そんな時はさらにハイテンションなオカマとなり激しく叫んで見せる。
彼を理解している人たちは、まさにそのキャラを待っているのだ。

頑張れF君。いや、藤井隆
君を初めてTVで見て
大笑いしたのを、自分はいつまでも覚えている。


神出鬼没!タケシムケン(2000.3/31)

もう終わってしまった番組について書く。
そこに自分の感情を、少しだが込めてみたいからだ。

初放映前のTV番宣で、自分は慌ててしまった。
『組んではいけない2人が組んでしまった!』と言っている。
まさしくその通りだと思った。
ビートたけしという芸人は「内封した破壊衝動」によって
お笑いの枠を取り去って来た男だし、
志村けんという芸人は「笑いの枠」を徹底的に掘り下げ、
TVコントにおいて最高の人物となった男だ。
たけしは革命家、志村は学者である。
たけしはドリフの論法を事あるごとに批判し、
志村は我関せずのスタンスで研究に没頭してきた。

面白かったのである、結論から言うと。
実力の無い若手が跋扈するバラエティとは全く違う、
極めて良質な番組となっていたのである。
爆笑ではないが、決して不愉快になることの無い
笑える番組が、そこにあった。

思えば、二人とも最大限に歩み寄っていたのである。
たけしがしがらみを嫌がって「オレやだよ〜」などと
言い出した時、志村がきっちりとコントで締め、
企画ものの際志村が生来の真面目さを出して照れ始めると、
たけしははちゃめちゃに振る舞い笑いを取る。

本当は悲しいのである。
ビートたけしという天才が尖っていなかった事に。
彼は今まで誰かを食うことで天才の名を欲しいままにして来た。
もし彼が今「その場の雰囲気」で笑いを作ることを良しと
しているのならば、もう彼は天才ではない
その代わり、志村けんは光っていた。
ある時コントの展開をダチョウ倶楽部となぞっていた時、
たけしが必死にコントから逃れようとしている中、
志村は視聴者の予想を遥かに越えるボケを見舞った。
あの番組で初めて「爆笑」した瞬間だった。

くだらないバラエティだった、という声も聞く。
否定もしないが、決して肯定などしない。
だが、ビートたけしはどこに行くのだろう


わらいのじかん(2000.5/18)

我慢することはよくない。自分はいつもそう思っていた。
だからこそ、このコラムの中で言いたい放題言っていたのである。
しかし、確かに我慢していた。その番組を見ている時は。

わらいのじかん」である。
自分が尊敬している芸人、松本人志がそこにいた。
いた、だけである。
ツッコミもボケも一流の今田耕司もいた。
いた、だけである。
吉本が売り出したがっている若手実力派も多数いた。
いた、だけである。
笑う。確かに笑う。
しかし何も残らない。空しさだけ残った。
「わらいのじかん」というのだから、さらに空しい。

いるだけで面白いなんて、望んでいなかった。
好きな芸人が出ている、というだけで番組を見たくなかった。
たまに今田と松本がまるでいつか見た光景のように
二人で、二人だけで笑い合っていた場面だけ記憶に残る。
二人だけ楽しんでいるのだ。
そして、スタッフは二人と関係無く番組を進行する。
本人たちは楽しいのだろう。
しかし、信じていた視聴者は置いてけぼりだった。
最後の最後まで。

わらいのじかん2」である。
これはもう問題外だ。
テコ入れ、という方法論を全く間違った方向でやっている。
何処かで見た事のある企画ばかり。
そして極めつけなのが、以前「松風」というライブでやった
ネタと同じ事を、松本人志にやらせたのである。

今回は非常に歯切れが悪い。自覚している。
伝説の教師」でも見ることとする。
あれはいいぞ、コントみたいで。


お笑いでない人の「お笑い」(2000.6/25)

以前、SMAPの中居・草g・香取の三人が劇場で初お笑いライブを行った時、
ネット上のお笑い系HPに「どう思います!?」という質問が多く見られた。
「どう思う」もないのである。彼らは楽しみでやってるのだ。
仕事でやってる本職とは根本的に違うのである。
SMAPの行為は決してお笑いの領域を侵してはいない。
殊更取り上げるほうが、お笑いの人たちに失礼だと思うが。
で、今回はそういう意味でない「お笑いでない人のお笑い」。

筆頭に上げなければいけないのはやはりジャニーズか?
SMAP・TOKIO・V6・Jrなどなど、まあ恐ろしいぐらいに視聴者を笑わせている。
(タッキー&嵐はまだ未確定 笑)
誰が教えてんの?個人の資質ならばジャニーズはすごい。
違うんだろうけど。また無責任な批判をさせて頂く。
○○○。
殊更取り上げる気はない。筆者はそんな事達観して
大笑いしてるし。
誉めるべきはお笑いを最上級に演じる力量だ。
その点だけでもジャニーズ勢は素晴らしい

一番語りたかったのは、所ジョージ氏だ。
今まで取り上げなかったのは、彼がお笑いではないから。
判断に迷ってしまうのだ。
彼はボケもツッコミもしない。
面白いと思えば笑い、バカバカしいと思えば異を唱える。
気のいい近所の兄貴が酒の席ではしゃいでいるようなものだ。
しかし共演者たちは(若手芸人も多い)、そのはしゃぎを待っている。
思えば、テレビで顔を見るようになってから
彼はずっとそのスタンスを変えていない。
何を考えているか分からない。
しかしそのスタンスからは、必ず「笑い」が発生する。

これも少し前の話だが、以前知人が
「お笑い御三家って、たけしもタモリももうやばいけど、
少なくとも片方は所ジョージに代わるべきだね」
と言っていた。
これには断固として反対し、切々と理論展開した。
「彼は本職ではない。彼の本職は歌手あるいはタレントで、
お笑いを楽しみでやっているのだ」と。
今もそう思っている。
しかし、ジャニーズ勢とは微妙に違うニュアンスを、筆者自身感じている。


「ツッコミ」とフィクション(2000.7/22)

長文失礼。

今回の件に関して、やはり浜田雅功弾劾したい。
最近彼は、普段から「それ、パクリやろ?」を多用していた。
客席は確かに盛り上がる。それが的確な使い方だったからだ。
相方に向かって「そのメロディ、パクリやん」といえば、
相方は恥ずかしそうにしながら「パクってへんちゅうねん!」と叫ぶ。
そして二人は、何事もなかったようにトークを続ける。
しかしその度に、筆者は笑いと共に、空虚感を感じていた。
パクリ」って言葉、最後の手段じゃない?
相手が松本人志だからこそ、消化できる言葉だと思うのだ。
それを宇多田ヒカルの前で力説して、
浜ちゃんに何の得があるというのだ?
筆者も友人に、
「○○○○って宇多田ヒカルがいなきゃ出て来れなかったよな」
力説する。ああ、今でもそうよ。心に響かんもん。倉木の詞
だが、それは自分が責任のない素人だから許されるのだ。
浜田雅功が超一流のツッコミだと認めるからこそ弾劾する。
ツッコむ相手を選ぶことも、ツッコミの資質なのだから。

ここまででも長いが、実はここからが本題

で、超一流のツッコミ、浜田雅功。
「HEY!HEY!HEY!」のソファートークで。
松本「何で〜?浜田もだいぶお前らの事ハタいてるやん!」
ゲストの一人「でも、浜田さんは叩いたあと、ちゃんと謝ってくれますもん
筆者「……」
女のホンネを語る、という形式の番組で。
人気芸人の妻「ある日買い物していたら、知らないおばさんが寄って来て」
司会者「ほうほう、それで?」
妻「私に言うんですよ。『あなたの主人はいいわねぇ。
人の頭を叩いてお金になるんですから』って。
ひどいと思いません?主人だって番組の前にゲストの方に、
『すみません、今日は都合でツッコませてもらいます。どうか
勘弁してください』って挨拶に回るんですよ。
主人だって、そういう配慮があって頑張ってるんですよ」
他のゲスト「はあ〜、タイヘンねえ……」
筆者「……」

無論、二つの話は浜田雅功について語られたものである。
二人ともまるでバカ
ツッコミとは大いなるフィクションなのだ。
ツッコミの前に、あるいはツッコミの後にゲストに謝る浜ちゃん。
そんなもんは何の価値もないものではないか。
相手がボケて、それに対して硬軟使い分けツッコむ。
客が引くほど激しかったり、突き放すように冷めて見せたり。
相手が憎いからではなく、笑いに昇華させるためにツッコむのだ。

もちろん語られたように、浜ちゃんは見えないところで
他の芸能人たちに気を遣い、
だからこそダウンタウンは笑いの頂点にいるのである。
傍若無人でのし上がれるほど芸能界は甘くない。
SPEED(当時)の今井恵理子は許そう。
だが、自分の苦労を語るために、
夫の大事なフィクションをバラす妻 小川菜摘は、
最低の芸能人ではなかろうか?

こんな事はわざわざここに書かぬとも、皆理解してしかるべきなのだ。
安易に芸能人の裏側を探り、笑いにするのを避けるべきだ。
倉木麻衣パクリ騒動も、今回の本題も、
浜田雅功が当事者となった事象だ。
当人は、どう思っているのだろうか?


先駆者(2000.8/6)

子供のころ憧れていた。実際面白かったのだから。
笑いの総量が秤で計れるのなら、
彼のおかげで笑った量が一番多いだろう。無論ダウンタウンよりも。
「この人のように人を笑わせることができたら」と、
テレビの前でそう思ったものだ。
残念ながらその憧れは叶わず、
筆者はシニカルに世の中を見つめるようになり、
ほぼ同時に彼はブラウン管から姿を消した。

若い芸人たちは、自分たちがテレビの中で出世しようとする時、
他の芸人たちがやらない企画で勝負しようとする。
例を挙げるならば、
「一日テレビジャック」における番宣などだ。
とんねるずやダウンタウンも経験した企画である。
しかしそれすらも、前者二組がやる何年も前に、
彼がテレビ史上初めてやったものだ。
それも、生放送だけにしか出演しない、とかではなく
開始から終了まで、それこそドラマにまで出演した。
徹底していたのである。お笑いに関して。

テレビ創生とほぼ同じくして彼は居たのだ。
初期は舞台にも革新を起こそうとしていたが、
次第に新しく先鋭的なメディア『テレビ』に、全身全霊を賭けて
挑んでいった。
それまで舞台中継しかできなかったテレビのお笑い番組に、
今のような「コント」や「ゲストを呼んでのライブ的番組」を
持ち込んだのは、間違いなく彼だ。
「テレビのお笑い」を作った、といっても過言ではない。

原点。少しそれを意識して書いてみた。
彼に敬意を表して、装飾もあえて外した。
名も語らずにおこう。誰もが、知っている彼。


爆笑……?(2000.9/11)

テレビ欄を眺めてみる。いやあ、『爆笑』が多いねえ。
そんなに毎時間爆笑してたら、あごが疲れますよ。いや実際。
おかしいなあ、俺はワイドショーなんかで爆笑したことないけどなぁ?
で、その事とは全く関係なく『爆笑オンエアバトル』のお話。

妙にハイテンションな司会者が売りのオンエアバトルだが、
まあ、面白い切り口だとは思う。
普段見ることのない若い芸人たちの新鮮な芸が、
劇場に足を運ばなくても見ることが出来る。

毎回出場する芸人たちは、会場の観客によって採点され
10組のうち半分の5組がテレビの電波に乗ることが出来る。
個人的には皆の芸を見てみたい気がするが、
それはテレビ番組として成り立たないし、
ふるい落とされるからこそ実力も出せる、らしいのである。

見ていて気がつく事、二点を挙げる。
まず一つ。観客の採点というシビアな選び方のため、
芸人側が観客におもねる事が見受けられる。
ネタに観客いじりのような部分を挿入したり、
敗戦の弁で「今日の観客に合わなかった」などと話す。
観客に合わないから受けないネタなんてやめちまえ
二点目。ああいう芸人が多く出演する番組に必ず起きるのだが、
自分たちがやる芸やネタ以外で笑わせようとする奴が出てくる事だ。
ご丁寧に仕込みの小道具まで用意して、
あのムリヤリハイテンション司会者アナをこき下ろしたりする。
小道具仕込むヒマがあったら、
ネタを作り込んできて欲しいものだが。

毎週見てる番組である。
まあ理由は「ダーマ&グレッグ」の後だからだが。
そっちのほうに『爆笑』をつけて欲しいのが正直な気持ち。


相方。(2000.11/7)

おさるが悲壮感を漂わせながら仕事している。
きっと、一生添い遂げると決めていた相方に、
ああもあっさりと去られてしまえば、
無理矢理にでもキャラを立たせるしかない。

どうしてテレビというのは、目先の事しか考えられないのだろう?
ちょっと露出し始めたお笑いコンビがいたとする。
二人のうち、例えばボケの方が(最近はほとんどボケだが)、
ちょっと相方より目立っていたとすると、
テレビの連中はすぐその目立っている方一人を引っ張って、
テレビに登場させる。
本人はコンビのため、と思い一所懸命に振舞い、
相方は「よし、頑張れよ!」などと言いながら
少し後ろ向きの気持ちになってしまう。
TIM、アリとキリギリス、ジョーダンズ、
雨上がり決死隊、DonDokoDon……
挙げればきりが無い。

実はダウンタウンがそうだった。初めに注目されたのは
大物相手でも遠慮なく大声でつっこむ浜田雅功のほうで、
意味も良く分からないことをボソボソとしゃべる相方のほうは
少し後ろに追いやられていた覚えがある。
今でこそ彼らは「わざとやってた」などと強がっているが、
互いに色々と思い悩んだに違いない。
しかし、ダウンタウンはそれを打破してみせた。
若手全員がこの苦労に耐え、乗り越えられるのだろうか?

理想はダチョウ倶楽部なのだ。
彼らはピンで仕事をこなしても、ギャラは三等分らしい。
仲間を信頼していないと分けられないし、受け取れない。
しかしそれも、若手に真似することは難しい。

次にテレビに勝つのは、どのコンビなのだろうか?


クール(2000.12/27)

予想以上に長いキャリアは、ほとんどが報われない月日だった。
舞台では「若手最強の漫才」と謳われながら、
好事家たちの楽しみ」程度の評価で終わろうとしていた。
彼らをよく知っていたベテランお笑いの一人が、
勝ち抜きシステムの番組を紹介しなかったら、
彼らの漫才は一生陽が当たらなかったかも知れない。

爆笑問題である。
今やレギュラー番組を多く抱えさらに、
先輩芸人たちからその才能を高く評価されている、
太田光田中裕二だ。
太田のあの無愛想な風貌から飛び出すボケ。
田中の必死さと的確さを備えたツッコミ。
人気が出始めた当初は、ボケが他のコンビと毛色が違ったため、
そのボケを巧みに操る太田ばかりが注目され
田中の素直すぎる(実際ストレートだった)ツッコミはあまり評価されなかった。
しかし二人は、決して流されはしなかった。
現在、田中はツッコミに少々のボケ的語りを入れて、立場を確保している。
太田が未だ目立つのは仕方のないことだが、
それは純粋にキャラの違いに他ならない。

しかし、たまにゾッとする時がある。
太田も田中も、なぜあれほどにクールなのだろうか?
話が盛り上がっているときでも、太田は急にボケをやめ
田中もツッコミそっちのけで太田とケンカ腰になったり、
ボソボソと場の雰囲気と関係のない話を続ける。
見ている側は、「爆笑問題特有の笑い」として、
そんなシーンでも笑っているのだが、
筆者には、二人がまるで周囲を意識していないように見える。
二人はいまだに小劇場の舞台上のような世界を纏っているのだ。
報われなかった時期にも貫き通した「二人の世界」に、
まだ囚われているのだろうか?

相方のなんでもないツッコミに、「うん、うん」と相槌を打つボケなど、
太田以外にはいない。


永遠のテーマ「お笑いとテレビ」(2001.2/1)

昨年の夏頃だったか、休日の昼下がりに大変衝撃的な映像を見た。
レギュラー枠でも何でもない、ある演芸中継番組。
そこそこキャパシティのありそうな劇場で、お笑いが1組ずつ、
15分間持ちネタを披露していた。それが2週続いた。というか
たまたま見た。
第1週は森羅万象を「
中途半端やな〜!」と斬りまくる「ちゃらんぽらん」。
自分たちのキャラと自信満々のネタで勝負し、
会場は大ウケし、テレビの前の筆者も大ウケした。
で、次の週である。ビックネームと言っていいコンビ「
のりお・よしお」だ。
壮絶だった。
全然面白くないのである。
しかし、筆者が興味を持ったのはそこではない。
会場の客もまた、誰も笑っていなかったのである。
おそらく、前の週の10分の1も。
当事者でない筆者でさえ「こんな状態でテレビに流していいんかいな?」
とオロオロしたほどだ。
関西のお笑いがそれほど秀でているとは思わないのだが、
少なくとも「
面白くないもの」でさえ客にそのままさらけ出すという、
ある種の
潔さは感じた。しかし、これは大阪のテレビ制作者にである。

NHK新春恒例の「初笑い特選寄席」(正式タイトル失念)を見た。
中継地の一つに大阪の劇場があって、そこの司会進行を
若手コンビ「
ますだおかだ」が任されていた。
その前に爆笑問題が東京の進行をそつなくこなしていたので、
筆者は不安を感じていた。
そして
不安は的中する
「ますだおかだ」は若手では組み立ての上手い方だと思う。
「爆笑オンエアバトル」では常に上位に位置し、
いずれは表舞台に出てくるのではと期待させる逸材だ。
しかし、あの番組では
徹底的に上ずっていた
自分たちを知らないであろう客に「オンエアバトル」ネタ。
アシスタントの女性をまったく顧みない
無理な進行
最後にはお互い相方に対しても上ずっていたように見えた。
ネタでなく

「面白かろうがなかろうが、そのまま流して視聴者に判断を仰ぐ」
という前者の姿勢。
「登り調子だから出してみよう。上手くいったら御の字」
という姿勢で見事に裏目に出た後者。
テレビで見るお笑い」は、まだまだ多くの問題を
筆者に与えてくれるようだ。


何様?(2001.4/12)

去年の話である。
ある番組を見ていて、筆者は大人気なく憤った。
お前ら何様だ!」と。
怒りを向けたタレント二人は、
平素なら好きなほうの部類に入るはずなのに、
しかしその時はやはり怒りを感じた。
草g剛ユースケサンタマリア
無論『
ぷっすま!』でのことである。

その日の企画は、何組かの芸人に
様々なシチュエーションの場面でボケてもらおうという、
昔『ごっつ』でやってた「
ボケましょう」のようなものだった。
無論今さら
パクリだ何だといって怒ったわけではない。
山崎邦正・光浦靖子・雨上がり決死隊・ふかわりょうの四組が、
さあ、公園にある池のようなところで皆がボケている。

それ以前に司会の二人が山崎邦正の
素を装ったボケや、
雨上がり蛍原の
見事に滑ったボケに、
ツッコミを入れていた。
そしていざ、
ふかわりょうの出番。ふかわは池のほとりで
彼の
持ち味通り一言ネタでボケて、まあそれなりにウケた
ロケバスに帰ってきたふかわに、ユースケは皆がそれなりに
ウケたことを告げ、そして次の一言を吐いた。

ふかわくんもさあ、一言ネタに逃げてばかりなくてさあ、
次はもっと別のパターンでボケましょうよ



「いっこく堂さんもさあ、腹話術に逃げてばかりなくてさあ、
次は落語で笑わせてみましょうよ」
「夢路いとし・こいしさんもさあ、漫才に逃げてばかりなくてさあ、
次はシュールなコントで笑わせてみましょうよ」
ほら、
おかしいでしょ?
台本通りのツッコミしかできない司会者と、
まあ完璧にナメられている芸人。
いつから『
芸人なら何でもやれ』などという狂った論理
まかり通っているのだろうか?


胃痛(2001.6/23)

予測はしていたのである。一応は。各人のキャラクターから考えれば、無難に収まることが御の字だからだ。
だがしかし、やはり筆者は期待した。あの二人が売れてから出会うのはほぼ初めてだからだ。
もしかしたら、そこから何か生まれるかも知れない、と。
夕食さえ中断した筆者は、ブラウン管の前に座った。
そこには、いた。人気一級の芸人、勢い一級のトリオ、売り出し中のコンビ、口だけ一級の素人、
そして、芸の枯れ果てたロートルの芸人が。

1位 名倉。キレて見せるしかないという状況は、場の雰囲気が低い証拠だ。
しかし、名倉はそれを選択し、一番ウケた。日頃からアドリブ馴れしてるとはいえ、辛かったろう。
2位 大木。普段のキャラ作りが、いい保険となった。司会者二人に適度に振られ、
適度にウケた。つまりは、普通の振りしかできない司会者の未熟に助けられたのだ。
3位 大内。これも大木と同様のことが起こった。番組の最後で「地味キャラ」と振られ、
流れとして「寒いオチ」として使われた。それまでの無理矢理な場のテンションから、仕方がなかった。
4位 堀内。あの石橋貴明が勢いのある芸人たちを相手に、取っ掛かりとして使った。
そのおかげで、彼は全員の中で唯一、いつもどおりのキャラを演じる事が出来た。
5位 南原。選択肢がなかった。石橋に冒頭「先輩・後輩」などと振られた時点で、彼は終わった。
しかしキャラを押し通す意思さえあれば出来たはずだ。
そうすればそれすら出来なくなった石橋を圧倒でき、他の芸人たちも救われたはずだからだ。
6位 原田。あの素の弱さは何とかならんのか。名倉は素を装い、原田は本当に素だった。
名倉にネタで乗っかっても、空回りするばかり。出来ないはずはないのに。
7位 石橋。もはや芸人のレベルではなかった。芸人を相手にしているのに「うたばん」特有の振りしか
出来ずにいた。それどころか、南原を敵に回すのを怖がり、冒頭で仲間に引き込んだ挙句、
若手に不条理なボケをさせ、空転させるばかり。それでも笑っていられる。ダメだ。
俺が期待し、信じた石橋貴明は、少なくともあの日、どこにもいなかった。
番外 中居。彼は素人だ。芸人を罵っても、デタラメな振りをしても彼は素人だ。
彼にはああいうふうにしか出来ない。その点、立派だった。石橋に、そのフォローは許されない。

やはり、はっぱ隊のキャラで押し通すべきだった。きっと当初、南原以下そのつもりだったのだろう。
しかし石橋は、芸人であったはずの石橋は、彼らのボケを初っ端から先輩トークで封じ、
もはやたいした実もない「格」を惨めに守り通した。一番惨めだったのは、
石橋が南原に遠慮していたことだ。

混乱を引きずりつつ「YATTA!」を歌うはっぱ隊を眺めながら、石橋は無邪気に笑っていた。
もしかしたら、うらやましかったのかもしれない。


タイトル通りだ、ありがとう(2001.10/14)

ごっつええ感じ」が復活した。実は、冷静ではいられない。
ダウンタウンの本筋である「舞台での掛け合い」は「ガキの使い」で
満たされてはいたが、それとは別に7年間も高度なコントを
見せられて来たダウンタウンファンにとっては、
突如終わってしまったあの番組への渇望は、
かなり大きな物になっていた。それが、復活した。
皮肉にも、あの日のように
ヤクルトが優勝を決めた時期に。

しかし期待が大きい分、不安もあった。
それはそうだ。環境はあの日とまるで違う。
コント」は珍しい物ではなくなった。
無論、ずっとコントにこだわり続けていたウンナンによって。
そして、唐突な復活であった分、
無理に盛り上げようとして、ゲストを呼んだり、芸人たちがはしゃぎ回ったり
することも考えられたのである。
少し前に、
24時間テレビでどうしようもない気分にさせられた事も
大きく影響していた。そして、
おそらくそうなるのでは、と予想した。

そして予想は裏切られた。
舞台には
ダウンタウン二人しかいなかった。
そして、淡々と進む番組。
しかしメインであるコントは、我々ダウンタウンファンが(少なくとも私が)
求め待ちつづけたものだった。
昔のコントのリメイクでは当時並みのクオリティーがあったし、
何より嬉しかったのが、この長いタイムラグの間に、
レギュラーみなの成長が見られた事である。
ヤクザコントの
今田耕治の演技は、けして昔には見られなかったものだし、
「野生の王国」というコント、あれ自体「ビジュアルバム」や「一人ごっつ」を
松本が経ていなければ生み出されなかったであろうコントだと思う。

もちろん不満点もあった。期待された
新規加入組
藤井隆やDonDokoDon、雨上がり決死隊や千原兄弟などは、
正直
見せ場を作れぬままだった。「笑う犬」の初期のような
明らかに
遠慮し緊張している雰囲気が大きかった。
これは、今後に期待したい。
また、一番気になったのは「振られてもしゃべらない女性タレント」。
吹石とやらはともかく、怪談のコントに出てた
あれ、誰

しかし、よかった。『
笑いすぎて息が出来ない』のを久々に味わった。
毎週レギュラーとは言わない。毎週ならあのどうでもいい企画モノが
増えそうだから。しかし、やはりまた見てみたい。
今田が振り、ホンコンが顔を出し、板尾が歌い、東野がすべり、
松本がボケて、浜田がツっこむ「
ごっつええ感じ」を。


キーワードは「ボケの浜田雅功」(2002.1/14)

あの時、浜田雅功はずっと、ボケていた。
「ほらこい、もっと俺をツッコめ、そして俺以上にボケてみろ!」と。
何度もビデオを見直して、そう確信した。
リアルタイムで見ていて、よりにもよってあのシーンだけ見忘れ、
やっと地元の再放送を録画して見た筆者が言うのも何だが、
とにかく、浜田雅功はボケ続けていた。
岡村隆史や他の3人を光らせるために。
「めちゃイケ」の年末スペシャル内、フジテレビ警察の事だ。

思えば、最近ずっと浜ちゃんはボケ続けている。
自分が進行を任されている番組ではずっと。
口下手なスポーツ選手に対しては軽い前フリで
発言を引き出した後、一言ボソッとボケてみる。
若手芸人が笑いの出口が見えずただはしゃいでごまかしている時は、
適度に軽いボケで若手たちにツッコませ笑いを生み出す。
最高のボケができる相手と共に20年歩み続けてきた浜ちゃんは、
「ダウンタウンのツッコミのほう」というキャラクターで、
ボケることが出来るようになっていた。
それこそあのスペシャルで「ヤクザっぽい」と表現されていた、
あのキャラクターで。

岡村隆史は、本当に必死だった。
あの場面にかかるプレッシャーは、とんでもなく大きかったはずだ。
スタジオで面と向かい、何度か真面目な顔をして戸惑っていた時、
筆者はまた、嫌な予感を抱き始めていた。
このまま岡村が極度に遠慮し、結局何も起こらないのでは、と。
しかし、岡村はそこで踏み止まり、頑張った。
熱烈なファンだったなどと告白しなければならないほど
追い詰められてはいたが、しかし岡村はボケた。
浜ちゃんが「ガキ」の舞台の上で見せる、素の笑いを
何度も浮かべさせていた。
その代わり、矢部はやはり、一歩下がっていた。
相手がツッコミのスペシャリストだから、と遠慮していたのなら、
それは誤りだったに違いない。
まだ加藤や濱口のほうが一言なりともツッコミができていた。
しかし、一歩下がる事で岡村を光らせようとしていたのなら、
それはきちんと評価してやるべきだと思う。

周りが煽り立て、期待したほどあの場面は
「ダウンタウンVSナインティナイン」ではなかった。
浜田雅功がボケることで、岡村が必死にそれ以上ボケようと
努力する、ただそれだけの事だった。

矢部浩之は静かに佇み、松本人志は姿さえ現さなかった。
今は、それでよかったのかも知れない。


プレイヤーとしての明石家さんま(2002.3/21)

以前、あるお笑い評論家が、明石家さんまをサッカープレイヤーに例え、
「お笑い界には自分でシュートを決めたがる
フォワードタイプはよくいるが、
見事なパスやアシストをもって笑いを生む
ミッドフィルダータイプの芸人は少ない」と書き、
その筆頭にさんまを挙げた。さらに自らも素晴らしい得点力を持つ
攻撃的ミッドフィルダーだと。その例えに、当時の筆者も非常に納得した。

その
お笑い界最高の攻撃的ミッドフィルダー、明石家さんま
確かに見事なパスを出す。「踊る!さんま御殿」ではあまたの芸能人に対して
的確なアシストボールを出し、その度に
新鮮な笑いを生み出してきた。
さんまのおかげで「あの人、
意外と面白いじゃん」と思われた芸能人は
何人もいる。
「明石家マンション物語」の初期でも、名前も知られていない芸人たちに
何度も素晴らしいパスを回し、その度に
初得点を挙げさせた。

「明石家ウケんねん物語」が、昨日終わった。
最近筆者がずっと
懸念してきた事が、また行われていた。
そこには「
さんまワールド」しかなかった。
さんまがボケ、他の出演者にそこそこ振り、笑いが起きる。
安定している、と言えば聞こえはいいが、
それはさんまが確固として君臨している
ワンマンチームのような
イメージだ。「ウケんねん〜」に変わってから特に思う。

さんまを慕う
ナイナイも、自分達の番組でさんまと絡んだ時、
「え、
そんなパス出すんっスか?」というような
戸惑いの笑顔を浮かべることがよく見られる。
「ウケんねん〜」に出ている芸人も、同様の愛想笑いを
浮かべてるように見受けられる。
「さんま御殿」でですら、最近のさんまがよく使う
そんなボケいりません!』という言葉で、相手のシュートチャンスを
確実に削っているように思える。

現実のサッカー界で、こんな事があったという。
W杯予選、日本代表のあるスタープレイヤーが試合中フリーキックを蹴った。
チームの方針として試合前「フリーキックは別の選手が蹴る」と
決めていたにも関わらず、だ。
そのプレイヤーは、永らく日本代表に選ばれ続け『キング』とまで呼ばれていた。
「フリーキックは俺が蹴って当たり前」という過信が、
その大事な試合でチームの不和を呼んだ。

もしかして、明石家さんまはそのプレイヤーのように『
裸の王様』に
なっているのではないだろうか?自分で出した
素晴らしいパスを、
シュートを打つべき選手から「そんなシュートはつまらん」とまた
奪い取り
自分で「
得点が入るだけ」のシュートを打つプレイヤー。
明石家さんまに、少なくとも筆者はそんな事を望んでいない。


無題(2002.6/10)

一夜限り復活した「ごっつええ感じ!」で受けた衝撃は、
昨年10月4日のコラムで書いた。そこには、数だけ増えてレベルの下がりつつある
TVコントを凌駕した、高度なコントがあった。
世間もそう評価していた、と思い込んでいた。

「9%」だそうである。
笑うしかない。
ずっとその事実に気づかなかった自分に腹が立ち、
その事実を知らしめた本「哲学」での、
松本人志の言い分にも腹が立った。

「こんなに作り込んで9%なんだぞ、と。
お前たちなら20%取ってしまうだろう、と」
強がりだ。松本人志がよく言う論法だ。
きっと、ほんの少しの事実は突いているのだろう。
冒頭に述べた通り、低調なコント番組がウケているのだから。

「ごっつ」のレベルは、決して落ちていない。
むしろ上がっていたと断言できる。
しかし、あの強がりは解せない。自分が例えそう思ったとしても、
それを言ってはいけない。
筆者は低視聴率の理由を、告知不足だと思っている。
ファンである自分が気づいたのも、放映直前のHEY!×3だったからだ。
しかしそれは制作側の原因であって、
言い訳がましく自分が強がるほど、
最近よく聞く「松本人志は落ちた」という輩への追い風となってしまう。

今はただ、待つしかない。
少しの胃痛を感じながら、待つしかないのだ。


お笑い専業とコメディ俳優のせめぎ合い(2003.3/16)

誤解を与える覚悟であえて言うのだが、
ココリコ ミラクルタイプ」の出演者で一番面白いのは八嶋智人だ。
次点として実力派女優三人(松下・坂井・小日向)と田中直樹、
その次に遠藤章造、その下はまったく意味無し。
品庄に到っては幕間トークに小ボケをかます程度でしかない。
しかし今回の本題はそこではない。あの番組における
八嶋の奮闘が、
現在のバラエティ全盛期におけるお笑い専業と彼のような劇団系コメディ俳優の
それぞれのポジションを如実に表しているように思えるからだ。

「ミラクルタイプ」が始まる前、「笑っていいとも!」の出演した八嶋は、
コント番組にレギュラー出演する不安を隠さずに語っていた。
彼曰く「舞台での喜劇と、コントは
根本的に違う」と。
その発言を聞き筆者は、「ミラクルタイプ」の
早期終了を予想した。
コントに慣れたお笑い専業芸人が奮闘し、実力を持つ俳優陣(松下由樹や坂井真紀が
コントを演じてくれるなど「ごっつ」時代には考えられないありがたい話だ)が
その
コントの文法に慣れぬまま違和感を生み出していく。
そんな番組の未来像を予想してしまったのだ。
しかしそれは、見事に裏切られる事となった。無論、
いい意味でだ。

実は「
負けてなるものか」と思っているのだ。八嶋を筆頭に実力派俳優陣は。
さらに運がいい事に、この番組は「
自己主張しない人気芸人」という稀有の存在、
ココリコの番組だったのだ。田中は奇妙な人物を演じる事で充分笑いを生み出し、
遠藤は自分の職業が「司会」であるかのように淡々と進行する。
しかしそれでも、普通に振舞っていればアクの強さで芸人たちに呑まれてしまうはずだ。
だからこそ、俳優陣は異常なまでの思い入れを持って取り組んでいるのだ。

以前、こういう光景を見た事がある。
吉本芸人と実力派俳優がタッグを組んだ(
はずの)ドラマ「明日があるさ」の最終回総集編。
進行はもちろん浜田雅功。しかし、このときは
異常な雰囲気であった。
まず、浜田がツッコむ相手がいない。
誰も、何もしゃべらないのだ。
東野もココリコも藤井も、俳優陣たちも。
俳優たちはフリートークを怖がり、芸人たちはスベる事を極端に恐れていた。
そして、その状況に浜田は明らかに
イラついていた。
そんな時浜田は何気なく、ドラマでクールな男を演じていた俳優
吹越満に話題を振った。
吹越は迷う事無く、ドラマ内の役柄そのままのキャラで浜田を突き放した。
その口調に、浜田はケンカ腰になる。しばらく続く
丁丁発止
しかしその険悪な時間は、浜田の信頼する相方、松本が登場するまでの間を埋めた。
この時、筆者は吹越を
素晴らしいと思った。それこそ拍手物で。
吹越は役柄を忠実に守る事で「浜田には負けない」という意地を見せたのだ。
「ワハハ本舗」やその後の舞台・俳優活動で培った実力を用いて。
バラエティは、
お笑い専業芸人だけが作っているわけではないのだ。
不確定要素を含んだ芸人と俳優の
せめぎ合いから、新たな笑いが生まれる事を期待して。


不誠実とでたらめ。(2004.3/27)

芸風などを問わず、キャラクターに限って言えばだが、
今テレビ界でウケているのは「
不誠実」な男たちである。
代表する二人にスポットを当ててみたい。
元々地力があり、今最も風潮に合っているコンビ 
さまぁ〜ず
ボケ(という事になってるが、実際は違う)担当 
大竹一樹
そしてほぼ同期で、やはり同じようなムーブののち「中堅」から
脱却しようとしている
くりいむしちゅー 有田哲平

大竹は、完全に周囲と
隔絶した芸風である。
周囲に「大竹ワールド」と評される、聞き手の反応を必要としない
ような)ボケかたをする。くだらない駄洒落であっても、
さっぱりポイントが掴めないシュールネタであっても、
大竹は構わず吐き散らし、独特の世界を構築する。

有田はさらに「
不誠実」に特化した芸風だ。
愛想よく輪に入って来つつ、トーンや盛り上がりを無視した
ような)ボケでギャップを際立たせている。銭型金太郎で
見せる掴みや、オチ近く特有のぼそぼそ喋りなどは、
いわゆる「誠実な」ボケとはかけ離れている。

お気づきだろうか。(
ような)に。
実はこの二人、実際は不誠実でもなんでもない。
芯から不誠実な人間であり、そのまま芸に反映されるのなら
おそらく笑いなど起きはしないし、今のポジションにはいない。
大竹は長くコンビを組んでいる
三村マサカズ
非常にいい
バランスを持ってここまで来た。
コントでは互いにボケあい、そのボケかたの違いで実力をつけてきた。
有田も然り。不誠実に振る舞い、それが
嫌味にならず
しっかりとした評価を得ているのは、相方 
上田晋也
的確な(そしてやはり
突き放した風の)ツッコミのためだ。
誠実ではないキャラクターを売りにできるのは、
それをしっかりと受けとめる
技量のある相手がいるからなのである。

しかしお笑い界に、本当の「
不誠実」な男が一人存在する。
爆笑問題 
大田光だ。彼は相手を必要としない。
自分で考え、自分で演じ、自分で完結させる。
その独特な雰囲気は、例え
暴走しても許されてしまう。
落ち着いて聞いても、深読みしようにもさっぱり意味が分からない、
はっきり言ってしまえば「
でたらめ」をやっている時でも、
彼は勝手にオチをつけ、いや時にはオチさえも
放棄してそこにいる。
周囲は「多分太田が面白がってるから面白いんだろう」という感じで笑う。
爆笑問題の番組に
雰囲気を読むのが上手いゲストが多いのがその証拠だ。
(関根勤、伊集院光、名倉潤等……)
逆説ならば、全て自分で完結させるストイックさを「誠実」と評価できるのだが。
しかしやはり「でたらめ」は許せない。
自覚してるだろうからなおさらだ。

あともう1人。別の意味で「不誠実な男」。
前述二人を表舞台に引き上げた男 
内村光良
芸のためなら」的古風な芸人。これはぜひ推奨していきたい。
フェミニスト的な観点はとりあえず横に置いて。


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