9万年前化噴火阿蘇山溶岩凝灰岩の使用古墳、石棺一覧

  
   氷川産    
  菊池川産       
  宇土産    
  宇土産ピンク石  
4世紀後半 山背八幡茶臼山
(舟形)
     _     _ 石室使用例
肥後天草長砂連(なが
され)
5世紀初頭
播磨中島朝臣
(舟形)
     _
    _
     _
5世紀前半      _ 讃岐長崎鼻
讃岐観音寺丸山
(ともに長持型)
    _      _
450年 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・
5世紀後半     _ 讃岐青塚
河内唐櫃山
伊予蓮華寺石棺底部
(すべて長持型)
備中造山前方部      _
5世紀末 紀伊大谷(南肥後
型家型)
河内長持山二号石棺(フタ)
備前赤磐郡小山
(長持型)
備前築山
河内長持山二号石棺(身)
峯ヶ塚(石材)
5〜6     _      _     _ 石室使用・肥後井寺、
ヤンボシ、千金甲、鴨籠など
6世紀前半     _      _     _ 大和野神
摂津今城塚(石材
二上山白石との
組み合わせか?)
大和ミロク
近江野洲円山
大和慶雲寺
大和鑵子塚
近江野洲甲塚
大和東乗鞍
大和兜塚
6世紀後半
約60年間空白
    _      _     _       _
7世紀     _      _     _ 大和植山東
摂津四天王寺礼拝石(年代用途不詳)

板橋旺爾『大王の柩』所収の一覧図から誤りを訂正しかわかつ作成。


熊本県宇土市のピンク石石切場2008年4月かわかつ撮影


これまで主にかわかつワールドブログに展開してきた阿蘇ピンク石石棺と倭王権の関わり、そこから導き出されるはずの北部九州と日本王権国家との深い結びつきについての考察であるが、今後、さらに詳細な分析と文献資料との照合をこの書庫を借りていっそう細かく展開してみたいと思う。

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●16章とこの17章はもちろん密接な関連がある。
もっとも歴史はつながっているわけだから、どんな細切れの考察も、すべていつかはつながるものだけれど。
要するに細分化されたこまぎれの考察をどうつないでいくか・・・・星の数ほどのミッシング・リング解明を積み重ね、コラージュし、切れ切れの細い糸をつなぎ合わせてゆき、結果光り輝くネックレスに仕上げることこそが歴史という学問なのかも知れない。ちょうど首飾りに小さなビーズを足して行くのにとても似ている。邪馬台国究明が赤く輝くルビーの玉ならば、阿蘇ピンク石はまさにピンク色の珊瑚の玉。けれどいずれも、歴史という永遠の輪環の一部にしか過ぎないのは確かなこと。ただ、それはバラバラに存在するときよりも、つながって輪になった時に一段と輝きを増すのではないだろうか。

赤く輝く玉が見つからないとき、わたしたちはひとまずその前後のパーツを作ればいい。そしてあとからすべてのパーツをつないでやればいいのだ。だって輝く玉たちをつなぐのは一本の細い糸(歴史)でしかないのだから。

3世紀にあった卑弥呼の国のあとには4世紀の河内倭王政権が始まっている。
そして大動乱時代を経て欽明、敏達が来て、氏族の攻防を繰り返しながら壬申の乱という青い龍の宝珠が現れ、ちょうどトランプのページ・ワンゲームのように色彩が一転する。けれどそれは一瞬にしてあだ花となり、女帝という黄色の宝珠に差し替えられる。

ビーズ玉は次々とカラフルに組み合わされて行く。ならば、倭王権が大和王権に変わっていったように、邪馬台国王権が本当にあったのならば、当然、そのあとの王権に変わっていったと考えるのが正当なのではなかろうか?ただそれがこれまで言われてきたように急速にだったか緩慢にだったかはこの国の外の事情に大きく影響されたことだろう。

ネックレスは一本とは限らない。女たちはいくつもの首飾りを組み合わせて身を飾るものだ。そしてその複数のネックレスの玉と玉は、彼女のしなやかなうなじとたおやかな胸の間でたゆとうように触れ合うのだ。学究する男どもは、ただ離れたところからうっとりと眺めているしかすべはないのである。
触れようとすると歴史の悠久の流れという白い手がわれわれの差し出す手を払いのけてしまう。
かくして歴史の真実は不確実な男たちのあこがれ、夢想の対象となってしまうのである。
触れたいならば彼女を手中に収めるしかない。これらの考察ははあまたいる専門家という男たちの手と手の間の、それもまるで映画の背景でかすんだように最も遠い場所からおずおずとのばされた私の手。門外漢の手なのである。

そして現代、今その長い完成間近の輪環をつなぐ細い永遠のはずだった人類の歴史の糸が終わろうとしている。
だから今の内に、過去を知っておかなくてはならない。
共有するべきすべての過去を。
それがわたしたちの唯一の「思い出」になるように。

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●○●阿蘇凝灰岩製石棺と倭王権
ピンク石が使われる継体大王前後の時代〜欽明時代までのもっと以前から、はるかな阿蘇から運ばれた石棺が存在する。いわゆる阿蘇凝灰岩灰色石石棺である。
灰色石には熊本県氷川産のものと、阿蘇山北部に位置する菊池川産のものの二種がある。

大和や河内の王権が石棺の石を選ぶなら、遠く離れた九州の、しかも瀬戸内航路で比較的往来しやすい北部九州よりもさらに奥地にある八代海経由や、九州島の中央部にある菊池川流域から、わざわざ凝灰岩を取り寄せる行為はとてつもないリスクと経費がかかったはずである。

@阿蘇の石以前には近郊の二上山、あるいは兵庫県函南竜山(たつやま)などから運ばれた「ブランド石」が使われている。また東国、筑波山の花崗岩や安山岩、あるいは緑泥岩も使われていることもある。凝灰岩がよいとするならば火山列島日本ならば溶岩が固まった凝灰岩は場所を選ばずたくさんあったはずである。なぜ阿蘇からなのか。
Aそしてなぜ旧推古、竹田陵であった大野の陵(推定現植山古墳)がこの石を使い、さらに後年、ここから遺骸を志長の現推古・竹田陵へと移したのか。
B阿蘇ピンク石の成分は?これを知ればほかにもピンク石が使われた遺跡、遺物、遺構が見つかる可能性がある。
などの疑問をすこしづつ考察してみよう。

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阿蘇凝灰岩製石棺の分布図(高木恭二)



すべての始まりは4世紀から。
京都府八幡市にある八幡茶臼山古墳に使われた氷川産阿蘇灰色石から始まる。
阿蘇と畿内との石でつながる相関関係は、倭の五王の時代にすでに開始されていた。
それが文献に反映されたと思われるのが、日本書紀神功皇后紀の記事である。
神功皇后は倭五王に比定される応神王朝の産みの親とされ、応神を生む前に吉備に立ち寄る。
そこにいた吉備の大王的人物の親族であった鴨分という人物に火の国造となって有明海沿岸を管理するように指示したと書かれている。

八幡市の八幡茶臼山から世紀をわずかにこえた5世紀初頭、次に兵庫県に灰色石が現れる。
竜山石の産地である兵庫県たつの市御津にある朝臣一号墳の石棺に氷川産灰色石が使われた。

つづいて五世紀後半の讃岐。
香川県高松市長崎鼻石棺と観音寺丸山古墳石棺。
ほとんど同じ頃、同じ讃岐青塚石棺、伊予蓮華寺石棺。そして五世紀末には灰色石石棺は吉備に近い備前岡山赤磐郡の小山古墳に出現する。これらのすべてが今度は熊本県菊池川産灰色石で作られていた。
しかも形式は熊本県江田舩山古墳と同じ舟形石棺である。
江田船山は倭王武(雄略大王に比定)=ワカタケル銘の刻まれた鉄剣を持っていた。

ピンク石が発見されるまで、阿蘇の灰色石は雄略をはじめとする倭王の一族を代表する石だったと考えられるのである。

この流れが、やがて倭王の血脈と名乗る継体大王の氏族へと引き継がれ、ピンク石石棺へと至るのである。

岡山まで広がった阿蘇石の流れと、在地吉備の鴨分が火の国造になったことは、あきらかに関連しているだろう。そしてそれが雄略の倭王の王権でのことだったことは古墳の年代を考えればはっきりとしている。少なくとも雄略の数代前の倭王の時代から阿蘇と畿内は灰色石で結ばれていた。

●すなわち阿蘇凝灰岩は「大和王朝のひとつ前の王朝」の象徴だったのである。
言い換えると応神王朝と九州八代海沿岸地域は強力な協力関係を結んでいたと考えていいことになる。

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予備考察
●大和王権の完成と倭人種族の統合
「五世紀後半、長い形成史を持つヤマト王権は完成した。(筆者かわかつ・この「第一次王権」=大王の時代をいきなり「ヤマト王権」と呼んでいいかについては疑問もある。従ってかわかつは「列島の王権」と表現しておく。)雄略の時代だった。葛城、吉備上道(かみつみち)(その一部が王権中枢に進出していた)の族長の力がにわかに衰え、和爾、大伴の族長たちを臣下として従えた王権の絶対優位が確立した。大王の対外的権能に列島各地の諸豪族を依存させるに至ったのである。九州の大豪族が宮廷の護衛に従事することもこのころから始まっていた。
五世紀における王権の確立には歴史的要因がある。」

として、山尾幸久は要因として4つあげている。以下それを要約する。

1、列島の王権が当時の大国である宋に対して遣使し、冊封(階位を受けること)を受けようとしていたこと。倭王武の安東大将軍授受がこれにあたる。
2、列島の王権の百済復興への支援。東城王(「末多王=めたおう)の熊津での百済復興に筑紫軍士500人が護衛」記事がこれにあたる。
3、加耶諸国のうち大加羅(慶尚北道高霊)王が倭王に結びついたこと。
4,五世紀、今来の百済移住民が大挙して列島に入り、王直属の官人集団ができ、彼らの主導で宮廷の職務分掌が整備し、王直属のマニュファクチュア集団(工人を中心とする部)が編成されたこと。

山尾による解説要約。
1は、当時倭は加耶と「鉄の交易」で結びついていたが、高句麗からの軍事的圧力が加わり、窮した倭は、なんとか事態打開しようとする。半島へ出兵を四,五回行った。これらの外交・軍事に主に従事したのは九州の豪族だろうと山尾は推測している。

2であるが、475年百済は高句麗に王都を落とされ広大な支配地を失い、百済王権は数年間滅亡状態だった。461年から、殺された蓋鹵王(がいろおう)の弟・昆支(こんき)は倭の軍事力に頼り復興をめざして列島の王権のなかに滞在した(近近でも政権奪取のために日本に滞在した党首の例があるからわかりやすい)。昆支の子供である東城王(末多王)は九州の軍勢の助けを借りて帰国し、熊津(ゆうしん・スサノウ伝で記紀が言う「くまなり」のことか?忠清南道公州)で王権を復興した。

3加耶はこのころ、3つ4つかの首長連合があって加耶統一ができないままであった。6世紀には結局新興国・新羅の支配下に入ってしまう。しかしそれ以前の5世紀後半〜6世紀前半頃、大加羅王は列島の王権と結んで百済・新羅に対抗する大加羅の統一加耶国家を建設しようともくろんでいた。

4政治的組織構成と工業の成立が王権の力をより効率化し、実力がついていった。

その後、パワーアップした列島王権(河内王朝後の王朝と言い換えてもいいか?)は人種統合に着手した。
まず吉備である。5世紀末葉、吉備政権は解体させられる。
吉備窪屋臣の娘・稚姫(わかひめ)が雄略の妃となり帰順化がある。この子供が星川王である。
星川王はその後、雄略没後(490頃)王権から排除されようとする反乱にあう。
結果、吉備の力は失墜。製鉄集団「山部」は雄略後の王権に接収(これもまた「鬼退治」か?)。その後は王権から派遣された「山官(やまのつかさ)が管理した。この山官がのちの「山部連」となるのである。
人種の一元化、このときの国家統一こそがのちのヤマト王朝確立への第一歩であった。

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●大和盆地に最初にいたのは葛城、それと最初に手を結んだのが吉備の王族。
吉備は出雲と手を結んでいた(掌握、あるいは平定か)。これが大和最初の連合体・出雲王権だったと考えられる。
葛城の祭る八重事代主の祭祀が大和笠縫へ入っていることから、倭王の前に大和にすでに出雲連合という蝦夷をとりまとめる勢力があったはずである。倭王が大和盆地に入るのは済の頃だろう。

だとすれば盆地東側の物部勢力はいつからあったのか?ひとつの疑問。
物部が出雲連合との共栄と反発を繰り返していた痕跡はないのだから、少なくとも倭王済が入るまでは大和には東西に二つの無血共栄圏的勢力の並立時代があったことになるのか?

だとすれば出雲神話は物部氏と中臣氏の象徴的神が降りたち平定するのであるから矛盾する。この矛盾を解くためには物部連合を先に、それも無血で帰順させる新勢力が大和に来ていなければならない。済の前後に物部を帰順させた痕跡があるだろうか?ないとすれば記紀の崇神は実在したことになるし、なければ倭王権の中でなにがしかの政権交代があったかと考えつくことになる。つまり済を応神に置き換えれば、その前までが崇神。これはもちろん想像に過ぎない。ただ、倭五王政権がひとつだったと考える必要はべつにないわけだ。
話が脱線した。

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●倭王権の「石棺同盟」

阿蘇凝灰岩灰色石の石棺は五世紀末には和歌山県にまで達する。
紀ノ川河口の和歌山市大谷古墳には氷川産灰色石が使われていた。
しかしここの石棺は舟形ではなく組み合わせ式家型石棺である。

熊本から考えれば、最初氷川地域の豪族が倭王とえにしを結んでいたが、五世紀にはそれが菊池川流域の豪族が割り込み、奪ったと見て取れる。
和歌山の灰色石は氷川豪族独自の関係で、倭王とは関係なかったのかも知れない。

菊池豪族は次第に力を増したのだろうか、やがて四国北岸地域に三つの菊池川産灰色石が出現し、ついには中央の允恭大王墓に使われる。大坂市野山古墳培塚である長持山一号石棺、および唐櫃山石棺がそれである。五世紀半ば、菊池の豪族は河内王朝との信頼関係を完全に手に入れたことになる。


それは逆に言えば、河内王権の勢力範囲を特定可能にすることになるだろう。
五世紀の瀬戸内を牛耳ったのは河内王朝、すなわち倭の五王だったのである。
河内の巨大大王墓の存在は、倭王河内王朝が大和から九州南部までの西日本のすべてを統一していた証明なのだ。それは文献的には、倭王武の上奏文に書かれた雄略の言葉とまったく一致する。

八代海氷川から菊池川へと、東北へ上がって行く九州の大勢力は考古学的にはやがて筑後川上流域まで拡大したと考えられる。それが「装飾古墳拡大の道」のひとつであることが想定できる。
では菊池の豪族とはいったい何者だったのか?
そして菊池は氷川を席巻したのち、氷川流域も手にいれたのだろうか?
あるいはそうではなく、両者は協力し、火の君となって大氏族を形成するのだろうか?
少なくとも菊池豪族は吉備勢力へ灰色石を供給し、氷川は和歌山の紀氏一族とえにしを結ぶ。
これがずっとのちの蘇我氏と紀氏の出自を解く鍵となるかも知れない。
いずれにせよ菊池には吉備造山の葬られた大氏族・吉備津彦という強い味方があるのだから、畿内の中央に入り込めたのだろう。いずれは対立か協力の道をあゆむしかなくなるだろう。

ところがそこへ割り込んでくるのが氷川に近い宇土の豪族である。

紀州は氷川、吉備は菊池の構図に、突如として宇土半島の灰色石が割り込んでくる。
新たな勢力が出てきたのだろうか?
いや、どうやらそうではなさそうである。

藤井寺市長持山二号墳のピンク(身)・灰色(フタ)組み合わせ石棺

17 阿蘇熔結凝灰岩製石棺と倭王権
  阿蘇ピンク石と宇土葦北、火の国造の躍進
    飛鳥時代推古と額田部、そして聖徳太子と物部守屋まで

注目は宇土灰色石と菊池川灰色石を組み合わせた藤井寺市長持山石棺である。
肥後のふたつの地域の石材を組み合わせている。
京都八幡茶臼山、播磨朝臣は同じ型式。頭部が広く、足下へ行くほど狭くなる台形をした舟形石棺。
菊池川石棺様式はだいたいみな蓋は家型で縄をかける出っ張りがなく、前後に駕籠のような突出を持つ長持ち型石棺。
宇土産石棺はすべてよっつの縄掛け用出っ張りを持ち、前後の突出のない家型石棺だと思って良い。

大まかに言って氷川産灰色石を使った石棺は南肥後型で長持型、菊池川産は北肥後型で舟形が多い。
宇土産は中肥後型で造山古墳のみに使用した家型石棺。宇土のピンクになると完全に家型石棺。(小山のような例外もある)

また時代を追って組み合わせ式の移行期もあるし、最後はくり抜き型という高度なものになってゆき、7世紀になると最新の鋭利な切石くり抜き型へと進化していく。





滋賀県野洲市の円山古墳のくり抜き組み合わせ家型石棺。赤く見える蓋が阿蘇ピンク石製。
2007年12月かわかつ撮影

●石棺石材と型式からわかる有力氏族の変動・そして中央とのえにし
さて、阿蘇凝灰岩使用古墳一覧をご覧になれば、一目瞭然で氷川、菊池川産の石にとってかわってゆく宇土産凝灰岩石棺の動向がおわかりになったことと思う。

宇土の灰色石が最初に使われたのはご覧の通り、吉備王の巨大古墳、350メートルの造山古墳前方部である。当初、備前に入っていたのは菊池川産石棺だった。それが時代を少ししか異にしないお隣の備中造山古墳の、しかも吉備王という最大氏族に錐もみのように宇土の石が。

宇土と氷川は隣接する。
読売新聞の板橋旺爾は、だから宇土の石を持ち込んで吉備王と深くえにしを結んだのは氷川の豪族の起死回生の逆襲だととらえた。それはにわかに断定はできないが、ヒントになるのが大坂藤井寺の長持山古墳二号石棺だと感じる。

ここは菊池川の石を身にし、新参の宇土の石を蓋にしており、河内の苦肉の策と見て取れる。造山への売り込みからまだ二、三十年では、畿内にまでえにしが深まっていなかった可能性がある宇土豪族は、しかしこれを契機に完全に倭王権に浸透して行く。6世紀にはもう大和、摂津、近江の大王クラスの石棺のすべてが宇土産へ移行している。それをさらに決定的にしたのが言うまでもない宇土の赤い石棺であろう。

これによって氷川宇土は逆転さよならホームランを放った。
こうして火の国造は倭王によって宇土半島そばの葦北へ決定する。
そして吉備王の弟であった葦北国造・吉備の鴨分子孫たちは一大勢力を持ったことになるだろう。
もちろん河内の倭王権にとって、吉備王は「鉄の大王」。もともと発言力が強大で捨て置けるはずもない。そもそも河内王朝の創始こそがこの吉備なしではありえなかったと考えられる。

だからこそ、河内、大和の前方後円墳の様式に吉備は非常に影響したと見る。
楯築式突出、楯築式土器、直弧文の採用・・・。
すべて納得がいく。
そしてその背後にいた肥後熊本の氷川・宇土の豪族たち・・・。
彼らの中央でのバックアップを引き受けたのは、間違いなく、葦北国造から「我が君」と呼ばれた大和大伴大連一族であろう。

河内王権下で、大伴大連は絶大な力を持つ宰相であった。
大連の位は大臣を凌駕するものである。
それは大和在住勢力だった出雲にえにしの深い銅鐸氏族・物部大連よりもさらに上。
なぜなら大伴大連は最初から河内王朝の親衛隊として、すでに半島、九州から五王たちを助けてきた経緯があるからではあるまいか。

大伴氏は西から来た、最古の氏族ではないか。

とりもなおさず、こうして宇土半島という北部九州と南部九州のはざまにある辺境の地にゆるぎなき在地豪族「火の君」が誕生する。しかしやがて実権を持ちすぎた彼らに「別の国造」という人物がやってきて管理を始める。火の葦北国造の登場。
国造が出雲、尾張などで行う事績は、強すぎる在地豪族の監視と管理であろうと思われる。

おそらく葦北国造もそうした指命を負ってやってきたのだろう。それは彼が瀬戸内の吉備王の血を引く大豪族で、河内王朝に発言力があったことからわかる。すなわちこの国造は大和大伴大連の肝いりでやってくるのだ。ここに大伴=倭王の可能性が見え隠れしていると言う者すらある。


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●五王時代の終焉と継体大王の登場・ピンク石の時代
畿内に入った石棺はやがて大きく技術を向上させ、切石組み合わせから進化して原石くり抜き式の格調高い石棺へと変わって行くのである。
そして型式は二つの方向へ。
在地豪族クラスが用いるものと、王家が用いるものに格差がはっきりと現れる。
畿内の様式である長持型石棺の様式は中央の周辺実力者へと下賜され、王家はすべて家型くり抜き式に変わるのである。その最初の古墳が継体大王の今城塚だ。
丸みを帯びた以前の長持ち型石棺は継体大王の父方である近江三尾の一族や、藤井寺など周辺諸国で使用される。これは継体の地盤が地方豪族からという文献記事にフィットする。

阿蘇ピンク石の登場はまさにその継体大王登場の時代、6世紀の出来事なのである。
だから赤い石棺は、同じ阿蘇凝灰岩の中でも、特に重要な政治的意味合いを持っていることになる。
それは「倭五王王権との区別」でもあろうか?
つまり継体の登場は河内王朝の終焉を意味した、そうかんがえられるのである。
ということは灰色石の舟形石棺で、直弧文を持っていた、大王の印である魚を使い、鉄剣に雄略大王とのえにしを刻むことができた東西の氏族・・・さきたまの王と筑紫の王は・・・ここにきて別の氏族にのっとられてしまう可能性が出てきたことになるだろう。

雄略の石棺。
倭王、河内王朝最後の大王・ワカタケルの石棺。灰色石。

さてその前王・允恭・・・すなわち倭王済について語ろう。
彼の元に付き従ったはずの火の靫負部のことを。

●菊池川凝灰岩と倭王済と大伴・久米部

5世紀後半、阿蘇凝灰岩灰色石石棺によって河内の古市古墳群に埋葬された人物たちは、大伴氏が仕えた河内の大王=倭五王たちの中の、倭王済=允恭大王の古墳群であると板橋旺爾は書いている。
古市でひときわ目立つ市野山古墳はその允恭の墳墓であるとされている。

唐櫃山(からとやま)、長持山古墳。

允恭からずっとさがった6世紀、日本書紀につぎの人物名が登場する。

「火葦北国造刑部靫部 阿利斯登」
「ひのあしきたの、おしさかべ(おさかべ)のゆげいべ ありしと」

まずその長い肩書きのうち、刑部というのが允恭大王に大いに関係する。
というのも、刑部とは允恭大王の后であった忍坂大中媛(おしさかの・おおなかつ・ひめ)のために制定された名代部なのである。
名代部とは大王や王族の経済的まかないを専門にとり行うための所領、すなわち大王の台所とも言える重要な職掌なのであった。
その重要な所領を管轄し、軍事的防衛を行っていたのが実は靫部である。
肥後南部、氷川や宇土半島からやや南下した葦北の国造(くにのみやっこ)が、どうして同時に中央の靫部なのか?
もともと中央の靫負を管理していたのは、軍事力で大連となっていた大伴大連氏だった。

  大伴の名に負う靫帯びて 万代に恃み(よろずにたのみ)し心いづくか寄せむ   大伴家持・万葉集

大伴の末裔である歌人・大伴家持は自らの氏族の過去の事績をよく知っていた。
大伴氏の中には海の民である久米部があり、また鉱山管理者で多氏 とも血縁があるらしき佐伯部もあった。いちがいに決めつけられないが本家大伴、配下久米、佐伯の構図がある。
ここから出た大連・金村の時代まで、大伴氏は名にし負う大豪族であったが、継体大王の時代、筑紫の磐井の乱で遠征に失敗し、格下の物部大連アラカイによって座をあやうくしてゆくようになる。軍人がいくさにしくじれば、信頼はがた落ちとなるのは当然である。
それでもまだ金村は蘇我氏の政権に一目置かれていた。
なにしろ伝統ある最初の王権・倭王の宰相だった生え抜きだからだ。
磐井はひしひしと火の君を従えた火の国造家の北上にいらついていたのだろう。
機会さえあれば半島の新羅と結ぼうと考えていたに違いない。
一方、下から追い上げて勢力を広げようとする火の国造家は息子を百済へ留学させていた。
火の葦北国造は大和の靫大伴部に栄達のために出仕していた関係上。上司である大伴金村の命で、当時風前の灯火であった任那救援軍に加わったのである。そのえにしで百済で生まれた息子はそのまま百済官僚となってスパイ的役目を負っていたと見られる。

筑紫の君たちは両側から挟み込まれ、立ちゆかなくなっていた可能性が非常に大きい。

すなわち火の葦北国造は大伴氏と運命共同体だったと考えられる。つまりやがて大伴氏が衰亡すると彼らも衰え、阿蘇凝灰岩は次第にブランド的価値をなくしていったのである。

さて、允恭の后だった忍坂の媛であるが、彼女の兄は誰か?
淀川で住之江から近江の琵琶湖までを牛耳っていた地方豪族・オオホド王なのである。

文献ではその後の大王・安康、雄略の妻もオオホド王の一族から出ている。
彼らは水運の雄と言われていた。
そのオオホド王から分かれた七つの氏族がある。
近江の息長をはじめとする近江、古志の氏族たちである。
ところがこの中にひとつだけ九州に縁のある一族があった。
それは筑紫の末多君である。

末多は記録違いで、本当の名は未多。「まった」ではなく「めた」が正しいと言われている。佐賀県上峰郡三田川町・・・・・・・・すなわち今の神埼郡吉野ヶ里町!
ここの氏族は目達原(めたばる)古墳群の被葬者たち、すなわち筑紫米多氏と名乗っていた。この古墳群は允恭の五世紀のものである。正確には筑紫のはおかしい。ここは佐賀県、肥前の君が正確な表現だろうが、当時筑紫は九州すべての呼称だからそう呼ばれている。
彼らが吉野ヶ里の1世紀、すでにここにいたかどうかは知らない。
しかし允恭の5世紀にはここにいて、なぜか近江の息長氏と血縁関係にある。

さて、息長氏と来れば継体大王のスポンサーであり、福井の三尾氏とも姻戚関係。なによりも彼らは神功皇后の出身氏族。九州と神功皇后、息長氏・・・ひいては倭王権から継体大王とも関わる理由がここにある。

この筑紫の末多・・・いや、米多君こそがおそらく佐賀県の「肥の君」ではないかという説がある。すなわち、熊本県肥後にいた火の君とは別の肥の君。これは空想に過ぎない。

さて肥前のことはさておき、オオホド王に嫁いだ姫の中には越前の豪族の娘がいた。その娘と近江の豪族、彦主人王との間に一人の皇子が生まれる。ヲホドの命・・・継体大王である。
こうして見ると、継体大王と倭王・允恭との血縁は非常に薄いことがわかる。いや血縁はなきに等しい。
允恭の妃の子供というだけで、妃同士にはまず血縁はあろうはずもなく、さらにその娘と地方豪族の間の子供と、というだけでは允恭のひ孫とはちと、無理がある。だから倭王との血筋としてはあまりにも遠い。腹違いよりもさらに遠いのである。

そんな継体が九州で頼れるものは、ひとりだけ、すなわちそれが米多君。

いや、実は今一人、なんと和歌山隅田八幡の人物画像鏡にその名前がある。

その名は「斯麻」。

しま・・・・。

摂津三島の豪族である。
人物画像鏡は彼が作らせたと書かれていたのである。
それも大王が忍坂の宮で政務をとっていた御代にとある。
だから画像鏡に書かれている忍坂にいた大王とは允恭にほかならない。
しかし異説がある。
大王は允恭ではなく、仁賢だとするものだ。
そして斯麻の本名を百済武寧王=斯麻王のことだとするのだ。
????
確かに継体と武寧王は親しい友人であった。
この説だと継体は允恭のひ孫などではなく、雄略〜仁賢に取り立てられた三島の豪族に過ぎないとされてしまうのである。(山尾、平野説)
となると息長や三尾、彦主人王、オオホド王とのえにしもでっちあげ(大伴氏の?)となってしまうから大変である。さらには斯麻王・武寧自体が筑紫の島で生まれた伝承を持つことから、米多君こそが武寧だという、まさかの珍説さえ出てきかねなくなる。

以上、参考文献・板橋旺爾『大王の柩』海鳥社 2007
        大王のひつぎ実権航海実行委員会・読売西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社


大阪府高槻市(旧摂津三島郡)の継体大王陵墓とされた今城塚古墳石室

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●石材から産地特定ができるのか?
阿蘇ピンク石石棺の分布と畿内倭王権のつながりを実証的に考える上で、一番問題なのは、はたしてそれらが本当に阿蘇の凝灰岩なのかという素朴な疑問ではなかろうか?そこでこのサイトにお伺いしてみたところ・・・。

「阿蘇山の火砕流噴火」
「地質学の研究から阿蘇火砕流の噴火は約30万年前〜7万年前までそれぞれ間の時期をおいて、4回あったことが明らかになっています。これらを古い順にAso-1,Aso-2,Aso-3,Aso-4火砕流と呼んでいます。火砕流というのは、火山噴火の時にマグマとともに火口付近にあった岩石などを含んで一挙に流れ出すものです。
●阿蘇山の最後のAso-4(推定9万年前・かわかつ加筆)と呼ばれる火砕流は、中九州のみに留まらず一部は瀬戸内海を渡って、山口県の宇部にまで到達しているものがあり、その規模の大きさと量は驚くべきものです。
●これらの火砕流が堆積したとき、層が厚い場合、堆積してすぐに冷却することはなく、高温を保っている部分は、火砕流に含まれる鉱物などが溶け出します。これを溶結と呼んでいます。
●ガラスを高温で熱した時、真っ赤な液状になり、ガラスどうしがくっつきあうのと同じような現象です。
実際には、軽石やスコリアが溶けて球体になり、さらに層の重みが加わるために、扁平の円盤状になります。このような状態のものを溶結凝灰岩と呼んでいます。
●阿蘇ピンク石と呼ばれる岩石は、Aso-4火砕流堆積物の中にあるもので、弱い溶結部分とその下層にある強い溶結部分の脱ガラス化している部分です。
●脱ガラス化とは、火砕流堆積物に含まれる天然ガラスが冷却中に結晶質になり、溶結凝灰岩ではこの作用を受けると、基質(鉱物や岩石以外の全体部分)が明灰色〜白色〜ピンク色などに変化することがわかっています。
●阿蘇ピンク石は、通常の阿蘇溶結凝灰岩が灰色〜黒色をしているのに対して、かなり限定された特殊な条件で生まれた石であることがわかっています。
同じような条件があるところでは、阿蘇ピンク石があるのですが、石棺に使われる阿蘇ピンク石は熊本県の宇土半島の付け根にある馬門(まかど)という地域で採石されたものです。馬門には現在でも赤石神社とよばれる小さな丘があり、この丘の壁面には今でも真っ赤な露頭を見ることができます。これは石棺などを削りだした痕だと考えられています。」(恐縮ですが紙面の規定のため実際の行間を縮めてあります。作者の方にはご容赦願います。●、加筆かわかつ)
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/43286139.html
というきわめてわかりやすい説明記事を見つけ、さらに・・・

「高木恭二・渡辺一徳「二上山ピンク石製石棺への疑問ー九州系舟形石棺か畿内系家形石棺への推移ー」(乙益重隆先生古希記念『九州上代文化論集』1990年)
渡辺一徳による実体顕微鏡による分析、ならびに斜方輝石と火山ガラスの屈折率の測定結果が表示されています。
石棺もしくは石室石材14例ですが、馬門の2つの露頭と大分臼杵の露頭との比較がなされ、Asoー4火砕流堆積物いわゆる阿蘇ピンク石のものであるというデータが示されています。」
ちょっと考古学ブログ運営者Nさんからの情報
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24

この貴重な情報によって今回の阿蘇ピンク石石棺の分布と倭王との関係は、考古理化学的にも一貫性があるだろうことがほぼ確実であると自信を持って考察してゆけるようになったわけだ。
近畿における14例の石棺部材のすべてが同じ宇土馬門の阿蘇ピンク石製であることは検証の基本事項だった。これが実証できなければすべての流れはただの推定となり雲散霧消してしまうからである。(ただし大阪四天王寺から発掘された「礼拝石」だけは分析されていないようだ。これもおそらく石棺の一部であるはずだが・・・きわめて妄想を繰り広げるならばひょっとすると物部守屋、あるいは聖徳太子の柩?^^; ・・・学術的裏付けが一切なされていないためにほとんど学究から除外状態。もったいない話だが、谷川健一のような民俗学的視点から今後なにかでてくるかも知れない。)



こうした疑念を持ったきっかけはこの古田学会会員の詳細な考察の中にも「ピンク石の分析」への疑問の一文があったためだ。
http://ambiente.eco.coocan.jp/ss0242/03/03_01/ss0242_3_01.htm
私はすべてを九州から的な古田学会的九州王朝の考察方法を好んではいないが、部分的な調査や考察には肯首してあまりあるもの、人物も多々あるとは感じている。各論においてはためになるところは山ほどあるから、「すべてが九州から」という大前提は許容しがたくともまったく無視してしまう学会的な動向はもったいないと感じている。それは他の在野研究者についても同様で、一事が万事で追いやってしまうような研究姿勢では学究者としては失格かと思う。それでは在野の研究家なのか学会の権威礼拝主義者なのか区別がつかなくなる。既存のイデオロギーから自由に切り込んでいけるのがわれわれの強みなのだから。

さてもうひとつ。
継体大王とその二人皇子たちの大古墳である今城塚の昨年2007年に実施された石室実態調査結果が最近出ている。
http://www.gensetsu.com/070304imasiro/doc1.htm

これによれば石室内外にちらばった石材破片の中には阿蘇ピンク石以外に兵庫県の竜山石(たつやまいし)、奈良・大阪の境にある二上山(ふたかみやま・大坂山)の二上山白石などの破片も混在していることがわかった。
この古墳は盗掘以前に江戸期の地震などですでに倒壊しており、昨年、実際に見に行ったけれど中は見られなかった。そういう状態なのでもちろん石室も石棺も形がわからないのだが、かつて阿蘇ピンク石の石棺石材と断定できる部分が採集されており、結論としては今のところ阿蘇ピンク石と二上山白石との組み合わせ式石棺だったのではないかと調査団は書いている。
しかしながら今城塚の石棺は三基あったわけだから、どれが誰のとも特定できないだろうし、長年の放置状態もあって破片が混在してしまっているとも考えられ、この結論も推定の域を出ない可能性もあるだろう。

二種の組み合わせだったとすれば、肥後だけでなく、二上山近隣の氏族(葛城氏や蘇我氏など)と継体の関わりにも大いに影響してくる。また阿蘇ピンク石一種類だった可能性もまだ捨てがたく、二上山の石や竜山の石が石室用だったか、石棺用だったかの分析はできないものか気にかかるところだ。

もしもそれで確定したならば、われわれも蘇我氏と継体王家の血脈を知っているだけに、60年後の竹田皇子石棺が阿蘇ピンクだったことの謎が非常に分析しやすくなることは否めない。さらには同じ蘇我「王家」の一員であった聖徳太子ゆかりの四天王寺礼拝石がピンク石らしきこととも相まって、大いに妄想を拡大できそうである。
しかし、それにしても継体の家族の石棺はピンク一色の方がインパクトがあるのも確かである。ちょっと惜しい気がした。

とにかく石棺石材から産地特定は可能なのだとわかった。
これで以後、こころおきなく飛鳥時代のピンクの謎に入ってゆけそうだ。

●阿蘇ピンクは継体大王氏族の石

さて今城塚古墳石室にあったとされる組み合わせ式石棺以後、阿蘇ピンク石製石棺時代が彼の出身地候補の近江の琵琶湖東岸野洲町や、大和の各所に出現し始める。宇土の葦北国造家は菊池の火の中の君を上回る発展をとげてゆく。

おわかりのように継体大王は枚方楠葉から大和へ入ろうとした。
奈良街道ぞいに田辺町あたりまでは大和から見ると鬼門の方角で、ここに南九州の阿多隼人が入って警護の役目をさせられている。その田辺町の車塚古墳は隼人の族長の墓だと言われている。ここの大隅神社は継体の中継点として仮宮があったところだ。

しかし大和の勢力は彼をなかなか受け入れず、ついに一度淀川沿いの摂津三島へ退陣し、さらにはもっと離れた山背の乙訓にまで引かされてしまう。
だから継体の主たる活動地域は淀川〜父親の在所である近江と言える。
実はこれこそが畿内と百済を結ぶ交易ルートの開始地点なのである。
だから継体自身は別段、雄略の故知であった大和に入る必要は感じなかったのではないかというふしが感じられるのだ。
大和川は大和の学者が言うほどには交通路としては欠陥が多いのである。途中に非常に段差のある地形があって、船の航行には実は不向きだったという説が強い。
その点淀川なら琵琶湖へ一本で近づけた。

その今城塚のある高槻市、茨木市周辺は旧三嶋郡で、そこに筑紫津という故地が今もある。
ここは枚方市に対面する港があったところで、筑紫津という地名は九州からはるか交易のために使われた陸揚げ地なのである。おそらく今城塚の阿蘇ピンク石石棺部材もここに水揚げされたことだろう。
芥川を遡ったところに今城塚がある。

今城塚には三つの石棺があったことがわかっているが、古墳の自然破壊、地震、盗掘破壊がはげしく、石棺もかなり損傷している。
ピンク石石棺はすでに復元されていて、これらと併せて三つの石棺が、今秋完成する史跡公園の展示室を飾ることになると言う。楽しみなことだ。
今城塚の三つの石棺は継体にまつわる三人の縁者の同時埋葬があったことをわれわれに教えており、それは朝鮮の史書の記述にある「二人の皇子も同時に死んだ」という伝聞にぴったり一致している。
これは「日本」が成立する直前の、非常にデリケートな政治動向と、国家建設の時代の一大事業だったはずで、まさしく対外交渉が旧倭国から大和(倭国ヤマトからオオヤマトヒノモト)へ移動する第一歩的な対外的大セレモニーだったはずである。
継体とその皇子たちの死が、大和盆地宮城への第一歩だったと考えてもいいだろう。
もちろん国内的には多くの隠匿と虚構のオブラートはあっただろうが、奈良盆地が真の王城となるための画期であったことは間違いあるまい。
王城としての大和成立が継体以降の6世紀であったことはまず間違いない。
先に入った鉄の大王・雄略でさえ、最後は大和の旧態勢力によって悪の権化にされている。
河内王朝と筑紫の陰をすべて消し去る真実の日本同盟成立はこの古墳以後に実現されはじめ、聖徳太子の時代にようやく確定する。大和国家が完全に安定し、外国に認められるにはさらに年月がかかり、持統のあとになる。
継体を知ること、それは現代の日本の始まりを知ることである。

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●磐井の乱の国家形成における重要性

「五世紀後半には、筑紫君一族と火君一族との結合を核にして、有明海、八代海でつながる地域の豪族は、地域の人民を統治する権力の集中と統一を進めていたようである。それは、ヤマト王権の対外的な代表権・軍事権に協力し結託し、これを地域支配に利用するものであった。」
「六世紀の初葉の筑紫君磐井は、事実上ツクシ政権の盟主であった。彼が統治する地域は広域にわたり、その政治的独自性は成熟しつつあった。513、4年ごろからは百済政権とヤマト王権との直接の交流関係がり強まり、次第にツクシ政権の盟主は阻害され始めたと思われる。」
記紀で磐井の乱の年が違っているのは「私見では、ひとたび決まっていた継体天皇の没年(534)を、『百済本紀』に書かれていた「辛亥(531)の変」(継体とその後継者・安閑の死)によって三年繰り上げた『日本書紀』編者が、磐井の乱、辛亥の変、南加羅の滅亡の三つに関連を認め、ほかも三年繰り上げたのではないかと思う。」

おそらく「五二九年、興隆中の新羅が、加耶東部南地区(金海・昌原など)に軍事攻勢をかけ始めた。加耶地域に盟主たらんとしていた大加羅(高霊)の異脳王(いのまたかんき)は、みずから倭国にやってきて、直接継体に救援を要請した。そこで530年、ヤマト王権は、ツクシ政権の港湾「香椎潟」を、大王直属の国家施設(糟屋の屯倉)として提供させ、まず九州で徴兵して、加耶支援に派遣しようとしたらしい。」

以上、「」内は山尾幸久説

筑紫君は従来は継体に協力的であったが、百済武寧王との直結が気に入らないでいた。そんな中で新羅が救援を磐井に求めてきた。もともと新羅とのえにしがあったのかどうか、磐井はここぞとばかりに反百済、反継体王朝へと切り替える。
このとき、実はヤマトも政変が始まっている。
最初に継体が送り込んだ部隊の戦況がはかばかしむないことで、大王が欽明に変わってしまう。このときのようすを日本書紀は継体がただ没したためとしたかった。ところが継体ばかりか安閑までもが死んでしまった記事が「百済本紀」に載ってしまう。
欽明が送り込んだ物部アラカヒは見事にこれを制覇し、王朝は欽明に決定。
物部残留部隊はその後、九州に残留し、企救郡あたりに居住。次第に大伴大連の南九州方面まで牛耳るようになっていったのだろう。

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●継体が滅んで60年後、飛鳥時代に今度は推古天皇の皇子・竹田の墓に阿蘇ピンク石が突然登場する。
植山古墳東石棺である。すでに継体が亡くなり、欽明から敏達の新しいラインが大和に展開されていたのに、いまさら継体の赤い石棺をどうして?

その前に推古女帝とその乳母だった氏族、額田部氏について調べてみよう。そこに宇土となんらかの関わりはあるのだろうか?

●額田部と宇土と馬
●額田部について著名な資料は国宝『額田寺伽藍並条理図』があって奈良時代に大和国平群(へぐり)に荘園を持っていたことがわかっている。
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/nukata/index.html
●研究書としては『[共同研究] 古代荘園絵図と在地社会についての史的研究』仁藤敦史、その中に「額田寺伽藍並条里図」の分析『額田部氏の系譜と職掌』仁藤敦史、『額田部氏の研究』森公章などがある。
http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/kankoo/ronbun4.html

●額田部の語源は?
 「大言海」・・・額=直日(ヒタヒ)。日が当たるところを意味する。
とあるが、それだけではないと思うのは「ぬか」には「ぬかるみ」=湿地帯、あるいは「糠」=砂金や砂鉄の鍛冶・山師の隠語、かつ地形が人間のひたいに似た絶壁としての意味もあるからだ。今回は馬に関わるかどうかを調査したい。


 ●「古代地名語源辞典によりますと、昔の備中国哲多郡(現在の新見市)、長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)、上野国甘楽郡(かんらぐん)(現在の群馬県藤岡あたり)に「額部(ぬかたべ)」という地名があったそうです。ここは明らかに古代の氏姓の一つである「額田部」にまつわるところのようです。」
 ●「万葉歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)でよく知られている「額田部」氏は、推古天皇の時代には外交で活躍した一族です。応神天皇の子であった額田大中彦の名代であるという説や天津彦根命の末裔だという説などいろいろありますが、まあ古代大和の豪族で朝廷を支えた一族であったことは間違いないでしょう。彼らの居城がぬかるんで湿った土地、つまり額田にあったので、「額田」という氏になったというのが正しいようです。」
http://asahi.co.jp/call/diary/yamaken/chimei_26.html
ぬかるんだ場所にいたから・・・という考察はやや早計に思えた。

●額田神社
   【延喜式神名帳】額田神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】額田神社
   【住所】三重県桑名市額田 711
       北緯35度3分50秒,東経136度38分33秒
   【祭神】意富伊我都命 天照大御神 天津彦根命
   【例祭】10月16日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】允恭天皇の代に創立
       文政8年(1825)分祀
       明治14年10月28日 郷社

   【関係氏族】額田部氏
   【鎮座地】旧地は増田村中央で「旧宮跡」の標あり

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所
   
由緒
◆祭神
意冨伊我都命
天津彦根命ノ御孫ニシテ額田部連ノ御祖神デアリ第十九代(允恭天皇:西暦440年)ノ御世ニ御奉斎セラル。延喜式神名帳ニ桑名郡(郷)額田神社也トアル。
明治14年10月28日 郷社ニ列セラレル
◆合殿
天照皇大神
天津彦根命
◆例祭
十月十六日
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081309-01.html
●額田部の祖はアマツヒコネでよいようだが、三重県の額田神社を見るとオウノイガツノミコトという神が祭神になっていて、この神はアマツヒコネの孫となっていて、ここから額田部連が出たことになっている。ところが近江では琵琶湖東岸の三上の山(ここは阿蘇阿ピンク石棺が二つあり継体の父とも息長や三尾氏と関係が深い)の神が三上山の天御影神で、その後裔というのが額田部氏とされていたりする。おしなべて古代の氏族名は官職名であることが多いようだから、額田部も允恭天皇時代に制定された部のひとつだと推定できそう?氏姓制度の盲点と言えようか。
●オウノイガツヒコという神の名前は「おう」が多氏 であり「いがつ」は「伊賀津」だろうからいずれも三重県の氏族名と地名であきあがっており、在地の氏族神だろう。この神社はもともとが伊勢にあったので、場所を移したときにそこにいた多氏 が額田部に土地を譲る格好で同化したのではないか?
●こうしたことから額田部は、まず鉱物にも関わると思えるから当初、糠田語源からと考えられる。

また穴門ではこうなっている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02135.htm
伊勢も近江も穴門ももともとあった国造家の系譜にあとから入り込んでいると判断できる。
国造は允恭〜雄略の倭王時代に在地の君たちを管轄した官職名であろうから、その後入ってきた氏族は国造家とは姻戚関係を結ぶ例は多い。これは額田部も日下部などと同じく全国に配置されたことを表すのだろう。あくまで額田や日下は官職名だと把握しておきたい。姓名ではない。

氏、姓、地名名などがいくつも重なってしまうところへ、あとになってさらに婚姻による同族化も加わるし、平安以降にはさらに系図、氏族名の売買もあるからわかりにくい。
ひとつ言えることは額田部は渡来系の、それも漢氏系の可能性があることか。



●額田王(ぬかだのおおきみ)
この歌人は九州と伊予に縁がある鏡王の娘。
伊予松山にあったとされる港・熱田津を歌っている。

熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな 額田王

これは斉明女帝の半島進出の際の船出を歌ったもので、松山のいくつかの場所が熱田津港に比定されている。
熱田津石湯という記録がある。これは松山の道後温泉だとされている。
伊予はかつて今の愛媛県とのちの讃岐国・今の香川県までを含む、四国島の北半分すべてだった。伊予の古い氏族は越智氏で、彼らの構成人員の多くは四国河野氏。
河野氏は海賊であり海人族であり貿易の民。
ゆえに畿内から半島へ行くときは彼らの船が海外渡航のかてとなる。
聖徳太子が道後の湯に来たという記録がある。
これについて梅原猛は「筑紫に軍を出すための視察」だったと考察している。
伊予の河野氏が祭る大三島神社は宇佐八幡と強いつながりを持つ。
宇佐大神氏が強い出世欲を持った頃、厭忌事件をおこし、八幡神は一時、大三島神社に移されたことがる。

母である鏡王もまた歌を多く残しており、中に豊前の鏡山を詠み込んだものがある。

●額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
これは推古女帝の名。
大和の額田部湯坐連(ぬかたべのゆえの・むらじ)に育てられたからだとされる。
蘇我氏の娘。湯坐とは大和国郡山(大和郡山市額田)あたりの氏族。
額田部湯坐連・・・現在の奈良県大和郡山市額田に本拠地をもっていた皇子養育のためにおかれた湯坐連につながる皇族部民。額田姫王の祖先、もしくはこの一族が皇后を輩出したり、また額田姫王を養育したと伝えられる。
http://www.kotabe.e-naka.jp/cgi-local/news/news.cgi?id=667&userid=44

●『正倉院文書』天平時代(8世紀頃)
「宇土郡大宅郷戸主額田部君得万呂 戸口額田部真嶋」

宇土の大宅と言うと馬門に近く、野津には野津古墳群がある。
その中で重要な前方後円墳は125bの大野巌古墳(おおのいわや・こふん)。出土物がまったくないため築造年代時代は不明だが、6世紀中〜末とされている。ちょうど敏達天皇の時代。その敏達の后が推古である。推古の皇子だった竹田の墓も大野陵の大野だ。「おう・の」とは「多野」だろうか。

●敏達は火の葦北国造の息子である達率日羅(だちそち・にちら)上人を招聘している。
葦北国造は允恭大王(倭王済に比定)の時代に対クマソ監視者として熊本中央部八代海をのぞむ氷川に入れられている。
達率とは百済高官名で、敏達は彼を呼んで何事か「相計らむ」としている。
日羅はこの時、百済王の、内密の策を持っていた。それは葦北を百済の前哨基地にしたいというものだったという。
これは対新羅政策だと言われる。
新羅はこれ以前の562年頃に加耶へ進行し、任那日本府を簒奪しており、このとき日本軍は援護むなしく敗退した。その遺恨をはらうため、今度は590年(崇峻時代)と602年に、筑紫那の津(博多湾)へ軍を送り込んでいる。当時の河内住之江からの航路は、吉備高梁川〜安芸鞆の浦〜伊予熱田津〜穴門〜岡〜那の津港と相場が決まっていた。この各港で援軍を要請することになる。
それで歴代海外遠征のさいの氏族はだいたい一定している。
水先案内は伊予の河野や安芸佐伯、熊野の九鬼、吉備の朝氏、さらに筑紫の阿曇、宗像水軍などであろう。
そして筑紫の後衛となるのが背振山やいくつもの河川や山塊と複雑な天草諸島でさえぎられた遠隔の入り江葦北である。八代一帯は古くから中国との直接交易の歴史があり、いざとなれば中国古南朝の援助や避難も期待できたのかも知れない。

呉、越、魏、宋、隋、唐と長い中国の歴史の中で、倭国はつねに南北どちらかに援助を求める。当時の新羅は唐と結ばれていた。百済はそれに対抗して唐の南にある古南朝と結ぶしかなく、その中継点として葦北を基地にしようとしたのではあるまいか?
一方の新羅はすでにそれより前の継体時代に、同じ有明海に面した筑後の筑紫君国造家と結ぼうとした経緯がある。

●600年頃に額田部連比羅夫が高向玄理、僧旻、南淵請安などを隋におくるのに飾り馬でこれを迎えたとある。
あるいは、
「推古天皇16(608)年、前年に日本から遣隋使を派遣したことに対する唐の返礼使である裴世清を海石榴市の衢において
出迎え。この時比羅夫は、歓迎儀式用に飾り立てた騎馬隊75頭を率いて、『禮の辞を告す』(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)と言う大役を果たしている。
『隋書』には、裴世清が、飛鳥に足を踏み入れた際の様子について書かれてあり、この中で「哥多比(田へんに「比」)」とあるのが、ヌカタベのカタベで比羅夫のことを指すと考えられている。
その時の飾馬の数は、200であったと書かれてあり裴世清が感動して驚くほどに比羅夫の歓迎の辞はその心を掴んだのである。
なお『隋書』の記述から当時の比羅夫が大礼(冠位十二階)の位にあったことが伺える。
推古天皇18(610)年には新羅と任那から来朝した外交使節を迎えて、比羅夫は新羅使の饗応を命じられている。
以後、正史からは、その名が消える。(中略)
かつて額田部氏は、欽明天皇22(561)年に、新羅使を饗応したことが正史に記録されており、比羅夫も推古天皇朝において外交実務官人として活躍していたのはないだろうか。」
(紙面の都合で編集)http://www.kotabe.e-naka.jp/cgi-local/news/news.cgi?id=667&userid=44

とある。

この馬を管轄できた大和郡山の額田部比羅夫は馬牧管理者であったと思える。
馬牧管理者氏族を養育者とする風習は、奈良時代直前の持統女帝にも見られるから、割合ポピュラーだったようだ。
「比羅夫」がどんな役職かはよくわからないが、武官と外交官、船団管理者の3種類役職にこの役職名を持つ人物が多いようだ。
(阿倍引田臣比羅夫、阿曇比羅夫、阿曇山背連比羅夫、荒田井直比羅夫などなどいずれも将軍らしき人物?)

●従って熊本県宇土の大野巌古墳などの野津古墳群の被葬者も馬牧に関わった国衙?額田部の官職を持った一族で、これが推古の皇子竹田の石棺に阿蘇ピンク石が使われた理由のひとつと考えられる。
ただ、植山古墳の竹田の石棺は推古崩御後に陵を植山に作り、大野の陵から移つされたものであると記述がある。大野の石棺のまま移されたかどうか不明だ。つまり石棺を植山では作り直した可能性も考えられなくはない。もちろん推古が望んでピンク石を指定した可能性もあるが、埋葬するのは蘇我氏以後のえにしの親族であろうから、藤原氏が執り行えばそのピンク石の意味はまったく変わってくるだろう。そういう可能性もあるということ。



画像は大野巌古墳石室。残念ながらここの装飾はほとんどすすけている。

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守屋との勢力争いで竹田はあえなく矢に倒れたのだろうか?実は彼の死はいまだに謎のままなのである。
「かしぎや姫と竹田皇子のなきがらを大野の御廟に移し奉る」日本書紀は簡単にそう記述するのみである。

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ところで「播磨は「石棺の国」といわれるが、東部の加古川河口域には阿蘇ピンク石の時期を除いて「大王家のひつぎ」となった竜山石(たつやまいし)の産地があり、竜山石石棺があふれているからだ。・・・牛窓をふくめ西の吉備には竜山石棺が多くはいっているのに、ここ(兵庫県たつの市御津 みつ)だけ異質だ。」

肥後南部、かつての熊襲の領域だった葦北地方を治めた火の葦北国造・阿利斯登(アリシト)は「国造本紀」に「景行の御代に吉備津彦命の児・三井根子命に賜い定める」とあり、その祖が吉備津彦の子供だとされる。
この記事は「旧事紀・国造本紀」の記述ゆえに、信憑性を問われてきたが、少なくともアリシトが吉備地方にが縁があったことは確かであろう。火の君と火の葦北国造は別系統であったと考えておいた方がいいのかもしれない。

加古川は竜山石のメッカである。
なのに、御津の朝臣1号墳からなぜか阿蘇産灰色石でできた九州式舟形石棺が出ている。
そもそも加古川の「かこ」とは「水児」と表記し、海人のことである。

継体大王の今城塚古墳から淀川沿岸部に降りたところに三嶋鴨神社があり、近くに川岸があるが、そこを「筑紫津」と呼んでいる。鴨とは吉備の鴨分から派生した「鴨別」のことであろうか?いずれにせよ、加古川と吉備は隣接し、瀬戸内航路では隣同士の港となる。御津(みつ)とは天皇が立ち寄った港という意味である。九州阿蘇から石や文化を運ぶ船も、これまで書いてきた港に立ち寄って休息した。そして目的地河内の住之江から淀川をさかのぼって筑紫津でピンク石を水揚げしたはずである。

摂津になぜ神功皇后をまつる疣水神社があるかいう謎の答えはここにあるだろう。
それは加古川水系、揖保川の「いぼ」とも大いに関わるはずである。応神河内王朝の生みの親となる神功皇后なのだから、それは実は「異母」?などと書くとお笑いだが、あながちそれも笑えないと思えるのは、応神と継体の血脈の切れ目を埋めるためのなにがしかの作為が見て取れなくもない。

九州で火の君一族は何度か朝廷からの国造を迎え入れたのだろう。当初、大伴大連金村を「大君」と呼んでいた葦北国造も、磐井の乱以降衰退する大伴氏とともに消えたのだろうか?あるいはその後の百済滅亡によって完全にとどめをさされたのか?
国造家が葦北に入ったのはやはり石棺に用いる阿蘇凝灰岩があったからだろうが、その前に少し南の八代にいた火の君一族はカヤ系倭の五王滅びたあと、継体の親百済外交に影響された葦北国造にとってかわられたのだろうか?

鴨分一族の古墳と言われているのが熊本県宇土市にあった鴨籠古墳で、その石棺には直弧文が彫られている。


熊本県宇土市、氷川の岸辺にある鴨分の古墳?鴨籠古墳の石棺には江田船山など筑後地方に近い有明北部八女周辺とおなじ直弧紋が刻まれている。
これはなにを象ったデザインだろうか?
松本清張は鏡を割って配布したことの形象であり、それだけこの人物が勢力があった証拠と喝破した。
しかし、本当に鏡なのだろうか?
古代、船のヘリに並べられていた魔よけの鏡・・・。この石棺は黄泉に旅立つ死者の船旅を守ろうとして作られたのか?
倭の五王と同時代人だった江田船山の豪族と火の国造は血縁なのだろうか?

火の君一族はやがて磐井の乱で、筑紫君一族が衰退したあと、筑後から筑前へ進出し、出雲から糸島に入っていた土師氏一族と血族となる。そこから肥の君猪手(ひのきみいので)が生まれ、継体天皇陵の築造に関わるようになる。ピンク石は九州と河内、摂津、大和を結ぶ架け橋である。この灰色石もまた継体以前からの畿内と九州をつないできた。それは熊襲が北部九州を牛耳った伝承となって今、私のすむ九州東部の海人たちのあいだに残されている。
そこに邪馬台国の名前など一切出てはこない。女王はやはり熊襲と新羅の狗奴国連合によって消滅していたのだろうか?!

大和の植山古墳にふたりの遺骸はなかった・・・。竹田の遺骸はどこに消えたのか。それは盗掘のためだったのだろうか?
謎におぼれてしまいそうになる研究家たちに、新たな解答はいつ出現するのだろうか?
われわれしろうとはその謎の中をたゆとう旅人に過ぎない。
答えは我々の死後でもまだわかっていないかも知れない。歴史とはそういうものなのである。
私など、その中の小さな小さな「やから」のひとりに過ぎない。そこまでふみいっていいのかどうか私にはまったくわからない。ただ路頭に迷うだけなのである。

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鴨分君(かものわけのきみ)と出身地が同じ人物が景行天皇のクマソ征伐に登場している。

朝勝見だ。


『肥後国風土記』に現れる吉備のかじ取り。景行天皇がクマソ征伐で熊本県玉名に立ち寄ったとき、その船のかじ取りの名が吉備の朝勝見だったとある。その後景行は彼の舵取りで葦北に向かっている。
この人物は火の国造の祖・鴨分と出身地が同じ吉備の浅口である。浅口郡には鴨方町がある(現在浅口市)。<BR>鴨分の名前から鴨方と呼ばれてきた。
この地域にいた豪族は『旧事紀』「国造本紀」にある「葦北国造・・・景行の御代に吉備津彦命の児・三井根子命に賜い定める」とあるから、吉備津彦の子孫である三井根子とはおそらく鴨分の兄である御友分命のことではないかと思われる。

その後、景行の次の王朝である河内王朝の始祖・応神が現れるのだが、景行天皇と応神王朝の間にワンクッション置くように書き込まれるのが応神の母である神功皇后・息長帯姫なのである。
彼女の先祖は近江の野洲からはるか北方の伊吹山の麓にいた息長氏だ。

神功皇后は九州の宇佐八幡に祭られており、九州とは非常に縁が深い。応神を生んだのも福岡県宇美市である。
その彼女が三韓に赴くときまず吉備に寄って鴨分にクマソ征伐に葦北へゆくよう指示したのである。

あまりにもできすぎた「あとづけ」ではあるまいか?
応神に始まる河内王朝=すなわち倭五王たちにクマソ征伐という過去を押しつけたと見えまいか?ついでに神功皇后をあたかも3世紀の卑弥呼のように書くことで、倭五王政権が九州・筑紫の蛮族、原始的シャーマン糸族であるかのように仕立てたとは思えないか?
それはあとの政権が古来からの倭王を引き継ぐ正当の王家なのだと、無理矢理につなぐためではなかったか?これは空想に過ぎない。

しかし実際には卑弥呼と応神王朝にはなんのつながりもないし、まして大和王朝と河内王朝にもまったく血縁がなかった可能性の方が高い。

考古学的には九州も大和も、これらのつながりを証明するものはまったくなく、むしろ、王朝は交代してきたとしか思えない事物ばかりが出てくるのではないか。


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●番外・四天王寺礼拝石と聖徳太子と物部守屋。そして蘇我氏と大化の改新。
最後は天武天皇と天智天皇の壬申の乱における政権交代。結語は天武から持統への後戻り変革。
へと話は発展していくだろうが、それはまた今度。



2008年6月10日かわかつ


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