吉野の歴史

吉野地区の歴史・伝承についての資料です。

吉野の歴史その1

概要

大昔のできごとについては正確な資料、文献もなく、詳しく知ることはできないが、第三十代敏達天皇の頃(西暦580年)には既に小部落があったことと思われます。

中古以来、大分郡が九郷二白六十村から成っていたことから察して、吉野の地は戸次郷の一部であったことが想像されます。建久七年(1196年)三月、頼朝の庶子大友能直が頼朝の命を受けて、豊前豊後の守兼鎮西奉行に任ぜられ豊後に入国、国内平定後、居館を府内の古国府に設けて以来、豊後は大友氏の統治下になりました。

文禄二年(1593年)朝鮮の役で能直より二十二代の養統が秀吉の怒を受けて国除されると、秀吉は豊後の国を分割して早川、福原、中川、竹中、日野根の諸氏を封じました。其の内、福原氏は臼杵城を賜わり以後吉野の地は臼杵領であったらしい。

これより先、元亀元年(1570年)織田信長は、近江の浅井、浅倉氏と一戦を交えたが、伊豆の下田城に居た稲葉長通は信長のため奮戦して戦功があり、以後信長の重臣として仕えました。

稲葉長通は信長が亡ぶと秀吉に属して功多く七十三才で死去しました。その長子貞通は家康に属して関ヶ原の役(1600年)に従って功があり、その賞として豊後臼杵城に封ぜられ五万三千石を賜わりました。以後吉野の地は稲葉氏の統治下にあってしだいに開発が進みました。部落の集合も大きくなり、農業も徐々に進歩しました。溜池の本地区内の総反別は五町二反十一歩で、その内大きいものが二十箇所あり、記録がないので詳細について知ることはできないが、口碑伝説によれば文化年中(1810年前後)からそれ以後に新築されたものが多いようです。

安政元年(1854年)に至って稲葉伊豆守が城主となりました。当時城主の命をうけて庄屋が吉野村を支配していました。勿論庄屋制度が当時に始ったものではありません。然し何時頃から吉野の地に庄屋制度が実施されたか確かな記録はありません。吉野全体の米産額を三千石と見て、之を庄屋の扶持としたのです。

吉野の歴史その2

庄屋組織

当時の庄屋組織を示せば、

大庄屋 扶持 所在地
釘宮清蔵 800石 宮尾
釘宮源左衛門 1000石
釘宮森左衛門 1200石 長小野

小庄屋は大庄屋の命によりその部落を支配しました。

大庄屋 小庄屋 人数
宮尾 宮尾 2名
宮尾 福良 2名
月形 2名
2名
2名
長小野 2名
長小野 杉原 2名
長小野 萩尾 2名
長小野 志津留 2名

※大庄屋三名、小庄屋十八名である。

明治になって豊後と豊前の一部は大分県に、そして郡がおかれ、新しい村制がしかれ大分郡吉野村に村長、村議会ができました。昭和二十九年吉野村は戸次町、竹中村、判田村と合併して大南町となり、更に昭和三十八年大分市と合併になって今日に至りました。

吉野の歴史その3

臥龍梅(がりゅうばい)

大分から国道10号線を臼杵方面へ曲がり、いくつかのカーブを曲がって行くと左側に高い石段があります。

その石段を上ると、そこが名高い臥龍梅。老木が左ねじりにねざってたくさん地上に出ていますが、株は一つなのです。一本の梅の木が垂れ下がり地中に入って、それから芽を出して梅の木を形造ったものです。それに後年多くの梅の木を植えたして現代の「梅の木天神」の梅園となりました。祭神は言うまでもなく菅原道真公です。

第八十四代順徳天皇御守、建久三年(1192年)より藤原信近という人が吉野に住みつきました。この子の近里は親孝行で天満宮を信仰し、朝と夕方の参拝を怠りませんでした。

ある日、近里は山に薪を採りに行きましたが、あやまって古木の枝から落ちて右の足を折って寝起が不自由になり困っていました。何日かして近里は見なれない人に合い、この人の教えにより太宰府に行き十七日間足のけががなおることを祈願し続けました。そして十七日目の夜神様が現われ梅の木をさずかる夢を見ました。目が覚めてみると目の前に梅の木の枝がありました。近里は小踊りして喜びました。そして、ていねいにお礼をするとその枝を紙に包んで吉野に帰り、清くけがれのない地を選んで土にさし、毎日立派な木になるようにと祈念し続けました。一生懸命育てたので、彼が植えた梅に葉ができ、幹が伸び日に日に大きく育っていきました。近里の病気も木が大きくなるにつれだんだんとよくなり、以前にも増して健康な身体となりました。これは孝行と神への祈願が天に通じたためでした。

近里が紙に包んだ時左にねじたため、この幹が左にねじ曲がって龍が臥した形状をしているため、いつの日にか臥龍梅といわれるようになりました。

この梅の木のことがひろまり参詣に来る人が日に日に増えました。中には信人深い婦人がいて梅の葉を水で飲んで難産をまぬがれたり、また、祈願により伝染病を治したりしていろいろな難病苦行に大きな効果がありました。

永禄三年(1560年)正月、豊後の国主大友養鎮(よししげ)が臼杵の亀城より梅を見に来られました。その時の接待投は戸次鶴ヶ城主利光越前守でした。

観梅の宴の最中、義鎮公は生花にしようと御用人の油布弥太郎に梅一枝を折らせました。そのとたん、弥太郎は気絶して意識を失いました。まもなく意識をとりもどして言うことには「われは天満大自在天神である。尋常の者と心得るが、この梅の枝を生花にするとは不都合千萬である。なんじはこの地主であるから、今度だけは命を助けてやるが、今後一枝たりとも再び折ることがあれば命をもらう」と……。

養鎮公はたいそう恐れて、自分の罪を謝罪し切った枝で天神の御身体を刻み、お宮の二町四方を免租とし、そして神殿を作り、供養のための米を献上することを怠たりませんでした。

吉野の歴史その4

高尾神社

大字宮尾の小野に高尾神社があります。吉野地区ただ一つの郷社でした。祭神はいざなぎの命、いざなみの命、上筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命、底筒男命、息長足姫命で建久五年(1194年)の建立です。このお宮には次のような面白い不思議な伝説があります。

大字福良に高尾山という小さい山があって、その近くに古い道が通っていました。その道を牛馬に乗って通る人は必ず転び落ちたそうです。里の人々が不思議に思って何か神のたたりでもあるのだろうかと思い、山を探したところ高尾山の中腹に大きな穴があって、その中から光明がさしていたということです。命の玉だという人もあれば、金のご幣(へい)だという人もいました。とにかく神の現れだと信じ神官に願っておうかがいを立てたところ、神が現れて「杉の木を逆さに植えてそれがついた所に安置せよ。そうすればたたりはたちどころに消え失せるであろう」とおつげがあったということです。そこで村人がどこやわここやら数ヶ所に植えてまわったところ、つくはずもないのに現在の宮尾の小野の地に植えたのがついたので、この地に祀って高尾神社としてあがめることになりました。ただ今神殿に向って左側に高々とそびえている御神木の杉の木がその時に植えた木です。

吉野の歴史その5

高尾神社のお面

宮尾の高尾神社に深い朱色の漆塗りのお面が伝えられています。

その昔、吉野原の東津留に大変技術のすぐれた立派な宮大工がいました。この大工さんは二十社のお宮のご造営をなしとげればいつ死んでもよいのでお仕事をお与え下さい」と、氏神様の高尾神社にご願をかけました。するとその願いがかなってか、次々に神社造営の注文がきて、ご願をかけた数だけのお宮を立派に造り上げ村の内外の評判になっていました。予定通りの仕事を無事なしとげたので「もういつ死んでもよい。最後の仕事にお面を彫って高尾神社にお礼として奉納しよう」と決心した大工さんは命をかけて一つのお面を彫り上げて奉納しました。現在伝わっているのはそのお面です。

昭和三年、今の天皇陛下ご即位の大典を記念して高尾神社は大修復をし、屋根も銅ぶきにし、獅子頭(ししがしら)も新調しました。その時このお面が大変立派だからもう一つ同じものを彫刻して一対にしておきたいと、時の神官釘宮喜内さんは宮総代と相談して京都の専門店に送って依頼しました。ところが京都の専門店から「この様な立派なお面は現代の職人では作れないのでお宮の宝として大切にするように」といって返送してきたということです。大変彫りがよく、しかも軽く、誰がかぶっても顔に密着した感じがするそうです。

なお、このお面を彫った大エさんは吉野原東津留の島田直さんのご祖先で、この方はお面を彫りあげて間もなくおなくなりになったそうです。しかし、その死因は同僚の大工さんのねたみによる毒殺だったということです。

それ以来、この島田さんの家では家訓として大工には絶対にならないようにとの言い伝えがあるので今でもこれを守っています。

吉野の歴史その6

鞍馬(くらま)流棒術の由来

この棒術の正しい名称は、兵法(へいほう)鞍馬流忍術(基法鞍馬流源義経忍流)といい「木剣(ぼっけん)」「柔術(じゅうじゅつ)」「合気道」「棒術」などそれぞれの目録に分けられています。

鞍馬流棒術は元和三年(1617年)薩摩の自見流の達人、東江長門守があみだし本田隼人、本田大四郎によって後世に伝えられました。

吉野地区には釘宮滝蔵、源義人が伝え幕末の時代から農民武芸として広まったものです。(中津留藤四良、源行親といった武芸者が臼杵で免許を受け文化十三年、当地に伝えたともいう)。

臼杵藩五万石の領地で幕末の時代から明治の初期にかけて他流との試合には吉野地区から数多くの名人、達人を出しています。

現在は昔の試合型式ではなく農民娯楽的な面を多分に取り入れ本質と異ったものになっていますが武術的な面もかなり残しています。

この棒術は二人一組となり、白のけいこ着、袴のももを立ち、六尺の樫棒を持って登場。じりじりとつめよって棒を生き物のように空を走らせ、見る人も手に汗を握るほど気合いの入ったものです。

主なものとして、「五輪(ごりん)」、「薄雲(うすぐも)」、「奥ノ無双(おくのむそう)」、「大構(おおがまえ)」、「稲妻(いなづま)」など表(構え)裏(受)三十三手あります。このほかに小道具といい、十手、カマ、クサリガマ、半棒、ナギナタの術などもあります。

吉野の歴史その7

山田雅次郎

奥部落の道ばたに山田雅次郎氏の碑が建っていたことはご存知だと思いますが、現在その碑は吉野公民館の入口に移設しました。

雅次郎氏は文久元年(1861年)四月十八日、吉野奥地区の山口寛蔵氏の長男として生まれました。当時、彼の家は酒屋業を家業として、近所でも有名を資産家であり、彼は生まれながらにして豊かな生活環境で育ちました。

後に彼は家業を継ぎ、明治二十二年八月から吉野地区の初代村長として就任、明治二十九年四月まで二期六年八ヶ月の長い間、部落発展に努め多くの業績をあげました。中でも吉野の幹線道である上戸次から臼杵に通じる現在の旧県道を施行したこと。また村人の寄附により村役場を建設した事。また杉原地区、梅ノ木天満社の境内を拡張して周囲の石垣を建造し、孝女久子の記念碑を建て、各道路に路標を立てたことなどは今も村人にその余恵を与えることが多く深く村人より感謝されています。