館内のご案内

@書  斎

Aステンドグラス

B貝がらコーナー

C著作コーナー

D赤い鳥コーナー

Eこどもペン

F色紙

G生原稿

H佐藤義美のうた音楽会のコーナー

Iビデオコーナー


J絵

Kバルコニーからの風景


L未完の長編童話

M年  譜


N居間の窓ぎわのコーナー
@ここが、ぼくの仕事場。ぼくの仕事は、童謡や童話を作ることだけど、ぼくは大人の結構むづかしい本を読んで、そして童謡や童話を作っていたんだよ。
大人だって子どもだって、ほんとに大切なこと、考えなきゃならないことは同じなんだからね。この部屋にある本はもちろん、ベッドも、ステレオも、ストーブもみんなぼくが生きてたとき使ってたもの。書斎に置いてあるもので、ちょっと恥かしいものは、松葉杖かな。交通事故のときと、スキーでころんだときと、二度お世話になった松葉杖だけど、なぜここに置いてあるかは、説明書を読んどくれ。

Aぼくが仲人をした、高山和夫・公子夫婦が作ってくれたの。彼らの目には、ぼくはこんなに細く見えてたのかねえ。でも、ぼくは、身長1メーター77センチで、体重は50キロになったことがなかったんだよね。

Bこれ全部日本の貝がら。記念館へぼくの荷物を運ぶ整理をしていたとき、引出しや箱の隅から出てきたの。
ほとんど貰ったもの。少しだけ買ったものや、拾ったものもあるけどね。この記念館が海のそばにあった家の再現だから、気分が出るように、貝がらを置いてみたんだと思うよ。

C昭和7年(1932)発行の『雀の木』から、亡くなるまでの童謡、童話の絶版の初版本が50冊。見つかってない本もまだあるけれど、まあよく残っていた。よくさがしたと思うよ。

D美しい表紙でしょ。まさに大正ロマン、北原白秋選の詩・童謡欄に投稿したぼくの作品が掲載されている『赤い鳥』が21冊。「昔はよかった。」「あの頃はよかった。」なんて、ぼくは云わない。それを云うほど、ぼくはじいさんじゃないんだ。

E戦後すぐの昭和22年。ぼくと柴野民三くん、奈街三郎くんとで、はじめた幼年雑誌。当時、本を印刷する紙は、配給で、本によって割当枚数が定められていたんだよ。
でもね、『こどもペン』は、講談社の『幼年クラブ』と同じ量の紙の配給をうけられた。『こどもペン』は、たくさんの名作を世に送り出した、画期的な幼年雑誌だったのさ。

Fぼくが死んでからも、ずっと、つきあってくれている、大事なともだちが書いてくれた色紙が30枚。みんな、しっかり、いい仕事をしてきた人たち。ぼくも、あのとき、死んだりしないで、みんなといっしょに、ずっと、仕事をしていたかったな。

Gもっと上等の生原稿があるはずなんだよなあ。見つけてよ。さがしてよ。

Hぼくのうたで、聴いてみたいうたがあったら、このコーナーで聴いてください。

Iぼくの絵本童話を4篇、あさい・あいさんが読んでくれてるの。子どもに向けてのサービスだろうね。

Jぼくの油絵1枚と、クロッキー2枚を飾ってくれていて、うれしいね。
ぼくは、父が絵かきだったし、竹田はすぐれた画人がたくさん出たところだし、中学生の頃までは画家志望だったんだ。ぼくの絵?わるくないと思うよ。でも、まあ、好きずきだからね
別に、ほめてくれなくてもいいよ。

Kこれは、ほめてもらっていいと思うな。「竹田に、こんないい風景があるとは知らなかった」と、現に竹田に住んでいる人が云ってるからね。

L原爆否定の長編童話を書きかけていて、死ぬまでに書き上げられなかった心残りの作品の部分のいくつか。テーマは「死者の発言」です。

M特につけ加えることなし。年譜を作成してくれた人に対しても、ぼくの63年に対しても、
「ご苦労様でした。おつかれさまでした。」

Nぼくは、逗子では、2階の書斎で
仕事をしているか、ヨットに乗ってる以外は、ほとんど、この居間の窓ぎわで、原爆関係と、死にかかわりのある本を読んでた。
原爆否定の長編童話を書くために、死者の発言を書くために。

付設ミニホール「このこのおうち」ここでは、子どもを対象とした絵本の読み聞かせや、ホールの装備されたピアノを使って、童謡を楽しく歌う会などが催されます。 また、ミニコンサートの開催など、多目的の利用が可能です。

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