今、『山開き』は必要か? その廃止論    加藤 英彦
 今年もまた、各地から『山開き』と称する行事が新聞紙上を賑わす季節となった。県下の主要な山開きを調べてみると、次のようになった。

 傾山   4月29日   主催団体・・・・宇目町、緒方町、三重町、日之影町 
 祖母山  5月 3日    〃  ・・・・竹田市、緒方町、高千穂町
 由布岳  5月 8日    〃  ・・・・別府市、湯布院町
 万年山  5月29日    〃  ・・・・九重町、玖珠町
 くじゅう 6月4−5日   〃  ・・・・九重町、久住町、直入町

 そして、その内容を見ると殆どが山頂祭と称して山の安全を祈願し、神事、主催者の挨拶、来賓の祝辞等があり、最高齢者、最年少者に記念品を贈呈、参加者に記念のペナントを配るといった決まりきったものとなっている。

 特にくじゅう山開きは今年で42回目を迎え、歴史も古く大分県の観光行事の一つとしてとらえられており、目玉的な行事となっている。そこで敢えて言わしてもらえば、果たしてこの「山開き」という行事が、今本当に必要なものであるかどうかということである。
 そもそも山開き本来の姿は何であったか、それは往時、わが国の霊山が山岳信仰の徒によって守られていた頃、山々は「結界」され一般人の立ち入りを禁じられていた。そこで俗人の信徒に毎年夏の一時期に山を開放して登山を許す慣例が起こり、これを「山開き」と称した。特に有名なものは、富士山(7月1日)や大和大峰などがある。(世界山岳百科辞典より)

 そういう意味から発展して、これから夏山のシーズンに入るが、登山に必要な施設がもう完備されて、いつ入山されてもいいですよという、地元からのメッセージの意味である。山小屋などの登山施設が一斉に営業を開始し、登山者のためのバス路線も整備され、冬の間痛めつけられた登山路も修復され、いつでも夏山の装備で登れるということである。

 しかるに九州の山では南国でもあり、高度からいってもシーズンオフがなく年中登れる。ことさら山開きの必要もないと思うのだが、世の為政者たちにはそうはいかないらしい。山開きの当日、安全祈願の神事を終え、山に登った者が、転倒して負傷したという笑えない記事が出ていた。昨年の祖母山の山開きでは参加した家族連れうち子供2名が道を誤り、大がかりな捜索の上、2日後に無事発見されるといったアクシデントも記憶に新しい。また、今年のくじゅう山開きの当日、高校県体の登山部門に参加中の生徒が倒れ、救助のヘリが定期点検中で飛べずに尊い命を落とすといったことも起きている。これでは本当に安全祈願の神事が形骸化してしまったといっても仕方のない事だ。

 要は『山開き』は一過性の行事としての価値しかないということなのである。ただ単に毎年行っている行事だからと言って、地方自治体の予算を使って、形式どおりの山開きをやっているだけでは、全く無意味な行事と言われても仕方のないところである。わざわざ山開きの行事をしなくても、ミヤマキリシマの咲く頃にはくじゅうには大勢の登山者が集まってくるのである。それよりも町や村がしなければならない事は他にありはしないだろうか。山開きと称するお祭り行事が果たして今、登山者にとって本当に必要なものであるのだろうか。既に山開きの行事自体の価値は薄らいでおり、役割は終わってしまったと云っても過言ではないと思う。

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