【書評】 剱沢幻視行 山恋いの記 和田城志著 東京新聞発行368P 2014年

 本書の帯封には「冬剱 雪黒部を縦横無尽に駆け巡り、ヒマラヤの高峰群で奮闘! 日本土着の登山とアルピニズムを融合させた最後の”怪物登山家”が語る風雪の峰々への限りない憧れと、数々の闘いの記録」とある。

 もう半年ほど前のこと、久しぶりに会った古くからの岳友から一冊の分厚い本を手渡された。

 このところの自分には分厚い書物などというものを読了する根気もエネルギーも持ち合わせていない、とお断りしたのに「いいからまあ読んでみて」と。その後しばらくは””積ん読””していたのだが気持ちに余裕ができ改めて何気なく目を通しているうちに、いつしかこの書の持つ精神世界にひきずりこまれていた。

 一度でも冬の北アルプスに入れば、無雪期や残雪期とは違った雪と氷の急峻な岩場が立ちはだかるし、それに加えて強烈な寒気がいやがうえにも襲いかかり、その厳しさを身をもって思い知らされることになるだろう。…穂高や槍ヶ岳でさえそれだから、剱岳・立山から後立山となると、もう手に負えない。

 かつて4月の剱岳と立山に登ろうと残雪の美女平に降り立った時、その圧倒的な豪雪のスケールに、それこそ手も足も出ずに退散した苦い思い出がある。日本海に面した厳冬の北アルプス北部の山々に、それも少人数で入るということが、いかに困難なことか。

 この書の著者・和田城志は、そんな北アルプス北部後立山〜剱岳とりわけ剱沢大滝周辺を厳冬の時期に、信じられないほどのパワーと根気さをもって数々のパイオニアワークを実践し、ヒマラヤジャイアント峰の縦走やビッグウォールにも繋げていった。そして晩年は活動の原点である”冬剱・雪黒部”へと回帰していった。

 大学山岳部出身でありながら旧態然とした大学山岳部のあり方には一石を投じつつ結果的にはパートナーを大学山岳部に求めざるを得ないのは確かだが、彼の実践してきたことは、大学山岳部の極地法から社会人山岳会のアルパインスタイル、すなわち集団から個への回帰だろう。

 冬剱岳・雪黒部の滞山日数は半端ではない。のちに続く8000m級の高峰縦走はこれがあってのことと言える。そして、和田が語り綴る言葉の一つひとつが重い。一度読んだだけでは消化しきれないだろうから、文章の一つひとつを噛みしめながらの精読が読者には要求される。

 アルピニズムとは、パイオニアワークとは、登山とはいかにあるべきか…実践する・しない、力がある・ない、できる・できないはともかく、本物を志向する個々人にとって正に、和田城志は追い求めて評価できる対象の登山を実践した来た登山家…この人はまさしく本物だ、と思う。

 登山はスポーツとしての要素に加え高度に幅広い精神性を内包する。時にむしろ後者すなわち精神世界をこそ重要と感じることの方が多い。従って高名な登山家の条件として調査研究、実践力、優れた文章力を兼ね備えることが求められる。戦前戦後を通じて高名な山や(登山家)には無類の読書家や文筆家が多いし、その意味で本書の著者の優れた文章力が読者を惹きつけてやまないだろう。

 この本はまぎれもなく山岳古典的名著に劣らない現代の名著と言えるだろう。否、これはまさしく現代の山岳名著だ。そして、店頭に数多く並ぶ山岳書から本書を見逃さなかった岳友には、その感性と眼力に敬意と感謝の気持ちを表さねばなるまい。ことほど左様な名著との出遭いであったということだ。

 以下に本文から印象に残った文面を、筆者自身のこれからの登山のためもあって、備忘録として記しておきたい。( )内以外は原文のまま。

・デュプラの「いつか或る日」あれは「内なる他者の死」を詠った生者の詩 私は内なる死者の生を想う

・山の本当の怖さがなんでもないところになんでもなく存在していて、我々を試していることを気付かせてくれた

・(大学山岳会について)目標の枯渇が決定付離れている対象への組織登山には、優秀なアルピニストが育つ下地はなかったと言えるのではないだろうか

・力のあるアルピニストによるアルパインスタイルこそが古くて新しい課題であり、次世代へのビジョンを提示することになるのだ

・私は、辺境の名もない未踏岩壁に独りで挑む山野井泰史のような登山家に憧れる

・(鵬翔山岳会の積雪期剱沢大滝登攀にかける意気込みについて)彼らはヒマラヤやアルプスなどの海外の高山と日本の低山を対等に見ている登山、ということだ

・(剱沢大滝積雪期初登攀に際して)疲労感は恐怖心を和らげる

・(最高齢登頂や清掃登山について)アルピニズムの深淵は一般の人にはなかなか理解しにくいものである。派手なパフォーマンスばかりに目がいって、肝心のエッセンスが見落とされる。…山登りはもっと利己的で過激で文学的だ。

・私はセクショナリズムが大嫌いだが、

・日本の山での積雪期登山(ここでは主として剱岳、後立山)の合計日数はまちがいなく私が一番多い

・私はトレーニングをしない。山へ登ること自体がトレーニングだ。

・(ブロード・ピークで放置された遺体をみて)西洋人には遺体への執着があまりないのかもしれない

・(山の審美眼)目立たないことが大切だ。驚異的なクライミングを実践し、知る人ぞ知るの評価を受けて、独り頂上でほほえむほうが様になっている

・(ナンガ・パルバット)チームワークは基本的にはボトムアップだが、真にリーダーシップが発揮されるときは常にトップダウンだ。

・死んだからといって、自分の能力を悔やむ必要がないように、生き延びたからといって、自分を過信してはいけない。

・(剱沢大滝もナンガ・パルバットの圧倒的迫力の前に)「みる」とは、見るだけではなく、観る、視る、診る、瞰る、試みる、省みる、ということであり、つまり五感の役割があってこそ、人はそれを本当に「みた」といえるのではないだろう

・決断は思考の結果ではない。思い悩んでいる刹那、恐怖が決める。

・(ナンガ・パルバットのラストアタック)つまり自分が頂上に立たなければ意味はないのだ。きわめて自己的なのだ

・(雪黒部単独行)冠松次郎が言った言葉「人を相手にして登るよりも、山を相手にして登りたい」、そのことの難しさを知るばかりだ。…私は彼ら(冠松次郎や加藤文太郎)に近づけるだろうか

・不足を嘆き出来ぬを憂うより、足るに満ち、あるを楽しむ方が良いに決まっている

・冬山には暗く静謐で内省的な精神性を感じる

・(尾形好雄のことにふれて)彼もまた私と同様に下界に居場所がないのかもしれない

・山には何か駆り立てるものがある

・私はエベレストや百名山などには登らない。登山は静寂と独創が命だ。

・私は、登山の黎明期に活躍した文人たちにも憧れを持っている。…間違いなく、彼らと同じ景色を、冬剱、雪黒部の中に見ている。…西欧アルピニズムから土着の静観的山岳逍遥に回帰しているように感じている。

・学士エリートが持つ歪んだプライドを脱ぎ捨てて、西欧に追いつき追い越そうとした社会人クライマーの素直さに限りない愛着を感じている

・生きのびたのか死んでしまったのかは単なる偶然にすぎない

・登山はやっぱり「登って、ナンボ」なのだから、(郷愁にまどろむ快楽には)宴の後のような寂しさがいつも付きまとう。

・ガストン・レビュファだったか、「ぼくは思い出よりも憧れが好きだ」と言った


最後に。挿絵もなかなかのものだし、処々に挿入された詩がまた素晴らしい。以下その一部。

・「山は、激しいほうがいい 求められ、応え、燃え尽きて 憧れと諦めの間で私は爪を噛む… …」

(2017.5.19 挾間記)