森田勝に観る、ある確信

パートナーが転落、宙吊りになった時どうするか。「俺なら迷わずザイルを切るね。そのために(登攀中は)いつもこうしてナイフをポケットに持っているよ」という、後世までの森田評を決定づけた印象深いやりとりがある。この一言で冷徹なイメージが決定づけられたであろう彼は随分と損をしている、と僕は思う。

 

人はとかく本心と裏腹なことを言う。例えば、本当は好きなのに、正反対の嫌いなポーズをとったりとかは、よくある話だ。

 

森田は、アルプス三大北壁の冬季一シーズンでの完登を目指した昭和42年、グランドジョラスウォーカー側稜で、完登直前で墜落したパートナー木村憲司を見捨てるに忍びず、泣きながら「木村を見捨てるくらいなら俺もここで死ぬ」と言っている。感情豊かな、人情味のある人間像が、このひとコマから窺い知れるのだが・・・。

 

その翌年、彼の最後の登攀となった、前年と同じウォーカー稜では、パートナーとともに墜死している。

 

墜死の瞬間、当事者の両人以外には誰もその現場に居合わせておらず、真相は不明だが、目撃情報から判断して、パートナー村上文裕が先に墜落したらしい。その刹那もしかしたら、森田にはザイルを切る選択肢があったかもしれない。それにもかかわらず切らなかった。もしかしたら切れる状況になかったのかもしれない。状況からの総合判断として、切らない選択肢を採ったためその結果としての墜死ではなかったか。

 

冒頭の「俺だったらザイルを切るね」を深読みすると「俺だったらザイルを切るね。…中略…(当然のことながら、切られる立場になった時は、パートナーに切らせず、自ら切るという選択肢も含めてね)

 

冷徹に「俺だったら切るね」と言い放しつつも現実場面のグランドジョラスで墜落・宙吊りのパートナーのザイルを切るよりも、瞬時「生」に執着しつつも敢えて死を選択したのではないか、もし彼がパートナーと逆の立場であったなら、迷わず手元からザイルを切ったかもしれないであろうに。

 

森田の「俺だったら迷わずザイルを切るね」の逆説「自分が宙吊りになった時も同じだよ」については、森田本人の言葉不足・説明不足により、心の奥底に秘められてしまい、前項のみが独り歩きし、森田の人物評を形作ったような気がする。

 「狼は帰らず」を読み返しながら、ふとそんなことを考えた。(2012.3.16)