或る谷を攀じる      加藤英彦
 それは里では晩秋をすぎた、山ではもう冬をむかえようとする頃のある日、その谷の入り口を3人の登山者が丁度登りかかっていた。その日の天気はあいにくと霧がかかり今にも泣きだしそうな空模様であった。その谷はわざわざそこを登らなくても谷添いの左側の山の手には直登するルートが山頂へと通じており、やや急な登りではあるが山頂へはそれをたどれば登れるのだが、今日の3人はそのいわゆる登山道はとらずに、わざわざその谷へと入っていったのである。

 最初は霧にぬれたカヤの中を一気に登りつめたところで小休止をとる。そこより直登ルートをわかれて左へ谷の取付きへとブッシュをたどる。天気は相変わらずの霧でどうやらポツポツと落ちてきたようだ。それでも3人はもうやめようとは言い出せない。いや誰もせっかくここまできてこの谷を登ろうという意欲の方が天候の悪さよりもまさっているとでもいおうか、そしてもう一つこの山の山頂より次の東側にあるピークまでのルートを確かめたいためにも、この谷に3人取りついたのである。

 谷はほとんど通る人がない状態でまず一つの滝になった岩があらわれる。慎重に先頭をいくトップが足場を確かめていく。木の枯れたのが倒れかかって行く手をふさいだかっこうで木を払いのけて登っていく。岩と草付との境目を右手の上にある木の根をひっぱったかっこうで攀じて行く。第1の滝はなんとかこすと次に岩場が続いて出てくる。谷は狭くなった感じで晴れていても視界のきかないとこに入り込んでしまったという感じの状態になってくる。やがて行く手に次の滝があらわれる。天気はさきほどからいよいよ本格的なふり方にかわってきた。さてこの滝をどうやってこえるか、そうだ一人初心者がいることを考えてザイルを用意していたのだ。早速ザイルを取り出す。滝の下に取り付いて草の中をみると、なんと雪がある。この何日か前にきた最初の寒波で降った雪が残っているのだ。寒いはずだ。だんだん寒さと雨で不安になってくるがもう引き返すわけにはいかない。

 さて第2の滝をザイルを付けてトップがどうやら乗越したようだ。高さもさほどなく下からみたほどの難しさでもなさそうだ。初めてザイルをつけるという初心者をミドルであげる。最後の乗越しではもう上から引っ張るように滝にはいつくばって登ってきた。もうこのあたりまでくると誰も黙ってしまって声もない。みな濡れてきて寒さで手が凍えそうだ。ラストが登る間に待っていることが苦痛と感じだす。体を常に動かしておかないと寒い。続いて第3の滝があらわれる。高度はかなりかせいだと思われるがなにしろ視界がきかない。この先がどんなだったか過去の記憶をたどるもちょっぴり不安な気持ちがよぎる。3人のうちこの谷を経験しているのはトップを行くリーダーだけであとの2人はなにしろ初めての谷である。まして1人は初心者であり、もう1人も岩の経験はあると聞いていたが、その動きがもう一つにぶい。かなりのブランクを感じさせる動きである。

 第3の滝はザイルを付けないで登ることにする。というのもザイルを付けること自体に時間はくうし手もかじかんできた。3人が並んで攀じていく。雨はいよいよ本格的になってしまった。もう、山頂まで登ってその先のピークを確認しょうなんて当初の目的をかなえようなんて誰も思ってない。いかにして早くこの谷を脱出しょうかと考えるだけである。なんとか第3の滝も登りきりやっと谷も最後に近くなったと思える。みなもう黙々として体力の限界を感じる程である。やっと登りつめたところでなんとか雨が避けられるような木の根と岩の下にやっと3人が体を寄せ合うかっこうで休憩をとる。持参の間食を腹につめこんで冷たい水を飲む。やっと生きた心地がする。皆のはく息も白い。全身がずぶ濡れになってきた。手もかじかんでいる。小休止の後そこより最後の谷を抜けるところが、ノリウツギの潅木地帯をよじりながら草付へと出る。

 もう天気は風まじりの雨とかわってきた。谷を抜けたために風がでできたのだ。すぐに直登する道へとコケモモの群落をトラバースする。道はすぐにみつかったが、もう頂上はそこから10分位の登りであるのに誰も登ろうとは言わない。とにかく寒い。急いで下るのみである。雨で濡れてきたので黒土の露出した道はよくすべりやすい。それに体がかじかんで動きが緩慢となりスムースな下りができない。とにかく急いで下るんだ、そしてあの温泉へまっ先にとびこみたい。衝動にかられる。悪戦苦闘なんべんとなくすべり、しりもちをつき、靴は泥まみれとなり、ズボンは雨に濡れゴワゴワとなりながらもなんとか下りついた。

 その下りついた草原のあせびに囲まれた一隅に小さな山小屋がありそこに小さな露天風呂があるのを知っていた。誰もいないこの時期にもその露天風呂には少しぬるめの湯がああった。ここから1km上の温泉から引いている湯だ。もう着ている服もろともその温泉に飛び込みたい気持ちだ。濡れた靴下をはぎとり、着ているものを脱ぐのももどかしく3人は冷たくなった体をそのまま露天に飛び込んだ。最初は温かいと感じたその露天もほんとはややぬるめの温度である。とにかく何でもいい。少し温かい程度の露天ではあるが冷たい雨に打たれた体を暖めるには最高の温泉である。これなら何時間でも入っていられる。いや上がるタイミングがないくらいだ。だって着替えは何ももってなく又あの濡れた下着から着ていかねばならないことを思うと。 あれほど降った雨ももう終わりに近付いたのだろうか、露天風呂からみえる向こう側の山の霧もだんだんあがってきて山の輪郭も見えてきだした。今日一日のきつい思いを胸に3人はただ露天に首だけを出したまま何時間とつかったままであった。

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