名山探訪 第4回  祖母山   挾間 渉

 祖母山は私にとって忘れることの出来ない山の一つである。私事で恐縮だが、先日私の父が74才で他界した。その父が生前(といっても私の子供の頃のことだが)良く話していたのが祖母山のことであった。

 決して山好きの父ではなかった。むしろ山にのめり込む私を、また私の岳友を苦々しく思い、時折我が家を訪ずれる私の岳友に対して母ともどもそれほど好意的てあったとは思えない。そんな父であったが、私の山への火付け役は、考えようによっては父であったかもしれない。

 父の話によると、かなり以前、おそらく大正末期の頃と思うが祖父の仕事の関係で宮崎県の日之影付近に在住していたことがあるらしく、その時に祖母山に登った事を小学生の私に得意気に話してくれたものだ。父の話によると深い樹林に覆われた祖母山に尋常高等小学校当時の父が、遊び仲間と無鉄砲な登山を試み、何とか山頂を極めたものの道に迷い、山麓の人々が松明をかざして捜索した話など聞かされたものだ。その時から心の中に未だ見ぬ祖母山の幻影が拡がっていったように思う。私の登山の原風景はここら辺にある。

 宮崎県側からの登路は、現在では2ケ所ある。一つは五ケ所より国観峠経由、今一つは中野内より尾平越経由である.日之影付近に在住したというそれも尋常小学校当時(約60年前)ということからして、地図で見る限り果たして父が登ったのは本当に祖母山であったのだろうかという疑問が湧くが、今となっては確認のしようもないし、それ自体どうでもよいことだ。昭和初期に刊行された「九州山岳案内」や「九州山岳」によると、当時宮崎県側からは、かのウエストンも登ったという五ケ所経由を始め既に数個所の登路が知られていたようである。父のゆかりの祖母山へ無性に登って見たい衝動にかられ、未だ喪の明けぬ2月9日未明大分を発った。忙しいなか票秋君が同行してくれた。

 大分より五ケ所までは竹田経由で約90km、時折の雪道を何とか無理をしながら一の鳥居の手前の岳という部落まで車で上がり、ここよりほとんど氷結した林道を危なっかしい足取りで約1時間の歩程。林道終点は標高1100m。峻険な岩稜と磨き上げられた深い渓谷からなる大分県側斜面と違い、宮崎県側は緩傾斜と伐採が進んだこともありいたって陽気で、両者は全く対照的な雰囲気である。ウエストンや父の頃は深い原生林に覆われ鬱蒼とした昼なお暗く時折木漏れ陽が射すような、そんな小道てあったに違いない。

 標高1300m付近よりは霧氷に覆われ積雪も次第に多くなり、なだらかな稜線の道は両側のスズタケが雪の重みで弓形にかぶさり歩きづらい。途中賑やかな中年のパーティを追い越し国観峠にさしかかる頃は陽が射し始め振り返ると根子岳の雪をまとった鋭峰が指呼の問に見られる。

        

 頂上直下は積雪が多く、昨年の犬ケ岳以来の久しぶりの冬山の趣き。3時間余りのアルバイトで山頂に着く項は天気も回復し、360度のパノラマが展開された。10年前青春の血をたぎらせた(といっても過言では無い)傾山が、阿蘇高岳が脳裏を駆けめぐり、九重の連山は何処までも屈託のない拡がりを見せている。ここよりは越敷岳や下荻岳といった名のある低山は突起として見ることが出来ない。

        

 山頂には一等三角点のみかげ石と大小2つのほこらがあり、「・‥男霜凝日子‥・従五位・・・」などの文字が読み取れる.「健男霜凝日子神社のことですよ。」と意外にも傍らの栗さん。もともとこの山の神、健男霜凝日子にちなんで豊後と日向のそれぞれが立てたもので昔の祖母山の信仰の名残りが窺えるものである。いずれのほこらも雪と永年の風化と登山者の心無いいたずらで、書かれてある文字は殆ど判読困難である.祖母山頂はこれが3度目であるが、天狗・烏帽子の岸壁や傾山の峻峰にのみ心を奪われていた前2回の山行と違い、越敷や緩木などの低いやぶ山や、山頂の三角点やほこら、そこに刻まれた文字など・・・山を取りまくいろいろな物に自然と目が行くのも年齢のなせることか。これは栗さんとて同じであろう。父が住んでいたという日之影はどの当たりであろうか?60数年の時の経過といっても自然の緩慢な移り変わりのこと、伐採などの人為的な作用を除いては眼下に望まれる深い谷、険しい岩壁、傍らの岩などどれほどの変化があったことだろう。‥・しばしの感慨にふけった後、足早に下山し三秀台を訪ねることにする。

 三秀台は五ケ所高原のほぼ中央に位置し、九重・阿蘇・祖母・・・3つの秀峰の展望に優れていることから、何時の頃よりかこの名がついたらしい。小高い丘の上に岳友会を中心として建てられたというウエストン碑がきつ立している。落ちこぽれとはいえ一度はアルピニズムを志した者にとって、黎明期の日本山岳界に少なからず影響を与えたウエストンの碑に対し感慨深さもひとしおなものがある。上高地のウエストンのそれとほぼ同形のレリーフの下に次のように刻まれている。

 「矢津田鷹太郎日記による.・・・明治23年11月6日晴天 英人ション・ブランドン君及ビ神戸在留同国人ション・エストン氏同道ニテ祖母岳登山往復共立寄ラル  河内泊ノ由也」と。

        

 ウエストンが日本滞在中まず登ったのが富士山であり、次いで当時九州第1位とされた祖母山であったという。しかし第1回滞日中の登山記である‘Mountaineering and Exploration in the Japanese AIps’や第2回および第3回滞日中の登山記である‘The Playground of the Far East’(いずれも高瀬君所蔵の復刻版)を通覧しても彼の九州における一連の登山活動にふれた部分を見ることはできなかった。

 レリーフの前に腰を下ろし今しがた登った祖母山を見やる。祖母をはさんで左に顕著なピークの筒ケ岳、右に親父岳、どのような言われでこの名がついたものか、いつもは何気なく眺めていたこの山も今日はその山の名故に格別の感慨で眺めることになる。山にはうるさい父であったが、ともかく今日は来て良かったという思いとともに同行してくれた栗さんに感謝の意味の握手を求めた。



 父が山仲間に対する認識を変えたのは剣岳での私の事故以後であり、仲間の適切な処置に感心しきったものである。実家の居間の壁には、硫黄尾根から槍ヶ岳の雪の急斜面を登高する大分登高会パーティ勇姿の写真が飾られている。父自身がかけたもので、我が家を訪れる父の友人達にパネルを指差し解説しながら「山登りをする連中は無作法な礼儀知らずとばかり思っていたら、なかなかどうして立派な社会人の集まりだ・・・」という意味のことを話していたのを思い出す。今後も祖母山を眺めるたびに父を思い出すことだろう。

 長大な祖母・傾の連峰・・・多くの先人が情熱を注いだ山、この山々には我々山のいで湯愛好会の興味の対象たるいで湯はどこにもない。これはある意味では幸いなことである。山屋を引き付ける魅力はあっても観光客を引き付ける要素に乏しいこと・・・太古より育まれた自然を失わないためにも、いつまでも不便な山であって欲しいと願わずにはいられない。(昭和61年2月9日の山日記)
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