伯耆大山北壁屏風岩鏡ルート
                                         栗秋和彦

期間:1975年10月31日〜11月3日
メンバー:栗秋、小田、佐藤

   屏風岩、大山北壁の中にあって黒々と雄々しく聳え立ち、脆く錐状の風采は屏風と呼ぶには似つかわしくないぞと思いつつ今、ボクは対峙している。冬のこの壁を目指す我々には、どうしても無雪期に一度はクリアしていなければならない。

 

 11/1 早朝、米子に到着。連休とあって登山者の姿が多いが、大半は夏道経由の大山山頂(弥山 1713m)か、頂稜の縦走を目指す人たちだ。大山寺で登山届けを出し、今回のベースの元谷小屋へ向かう。大神神社までは石段と落ち葉を踏みしめる、静かな晩秋の風情を味わいながら黙々と歩を進める。屏風がどんな“顔”で迎えてくれるか、期待と不安の交錯するひとときであるが、稜線にはガスがかかり、遠望する屏風岩の上部もその下限にあたり、視界には捕らえられなかった。まずは小屋に荷物を置き、昼食だけをザックに詰めて偵察に出かけよう。

 風は冷たく、どんよりと曇った空は、ただそれだけで重苦しいが、ガレた元谷を詰めて取付きに立つと、緊張とも戦慄ともつかぬ、一種形容しがたい内面の葛藤がこれに加わった。とりあえず、港ルートと鏡ルートを交互に見据え、首が痛くなるほど仰ぎ見て、本能的に弱点を探しだそうと気をもむのは自分だけか。小田と佐藤は時折、ビューンとという落石の挨拶も聞き流しながら、成算ありの面持ちをしている。まずは頼もしき岳友たちであるが、この空模様にはなじみにくく、早々と寒さに追われるように小屋まで駆け下る。

 

 11/2 5時起床。朝食と登攀用具の準備を終え、明るくなるのを待って6時過ぎに小屋を出る。冷気が身を包み、晩秋の大山の山懐に居ることを改めて実感させる。そしてこの寒さに抗して、ウォーミングアップにはいささか性急過ぎるスピードで取付きまでとばした。目指すは港ルートである。

 7時、小田トップで1P目のフェースに取付いたが、水に濡れて滑りやすい外傾したスタンスにふんぎりがつかず、あっさりと降りてくる。続いて佐藤が試みたが、これもダメ。もちろんボクが取付いたとしても、同じ結果になることは容易に想像できるので、しばらくは皆黙ってしまう。落石が「ザマーミロ」といわんばかりに落ちてくる。重苦しい雰囲気の中、小田の「この状態じゃ、誰も登れんぞ。鏡ルートにしようや!」の一言に救われた気になる。

 多少悔しいが、もちろん異論を唱える者がいる筈はなく、あっさりと鏡ルートに転進することになった。1時間ほど無為な時を刻んだことになったが、今度は佐藤トップで遭難プレート横のフェースを登り、西ルンゼに入る。以降、セカンド栗秋、ラスト小田のオーダーで尺取り虫を繰り返すことになったが、比較的スムーズに攀じたのは1Pだけで、2Pからは脆く、いつ壊れるやも知れぬ、スタンス、ホールド、そしてあまいビレーポイントの連続で、ひとときも気を抜くことはできない。

 数々の遭難を出した、名にし負う大山北壁屏風岩の“真顔”がそこにはあった。中でも4P目の小ハングの突破は、外傾した手掛かりに加えてボルトの効きはあまく、高度感に溢れ、ハング出口のホールドが乏しく、更にその上部の泥壁を騙し騙し、神経を擦り減らす登攀を強いられトップの苦労が偲ばれた。そして最終ピッチの5Pも、まったく気は抜けない。凹角の入口は手掛かりが信用ならず、出口のかぶり気味の乗っ越しに、トップの佐藤は吊り上げで何とか突破した模様であった。そしてかなりの時間を要して三人終了点に立つ。

 

 ガッチリと握手してお互いの健闘を称え安堵感に浸ったが、この頃よりまわりはガスに包まれ、これに追われるように長い屏風尾根をふぅふぅ言いながら登り、主稜線には午後4時着。更にサポート役の角南の待つユートピア小屋経由で下山の途についた。10時間近く、昼食らしきものは殆ど口にしなかったツケがまわってきて、ほうほうの体であったが、今宵のねぐらである元谷小屋まで、もうひと頑張りである。天気は快方へ向かい、夕闇迫る宝珠尾根から遠く大山寺の明かりが、まるで砂漠のオアシスに見え印象的であった。

<コースタイム>

11/2 元谷小屋6:05−屏風岩港ルート取付7:00(断念) 鏡ルート取付8:00・終了15:15−主稜線16:00−ユートピア小屋17:00−元谷小屋18:20                    <パートナー>小田、佐藤  

(昭和50年11月2日)