伯耆大山北壁大屏風岩港ルート登攀

期間:1974年10月10〜11日
メンバー:内田、挾間
 
   
        
オムスビ岩のハングに挑む挾間

 古い話で悪いが私が山登りをやろうと思ったのは遠い中学生?の頃と思う。その頃のpm5時30分から6時30分までは「ラジオ子供放送」というのがあった。子供ニュース、今週の歌、連続ラジオ放送、その他。その時、何かで聞いた。「大山の舞踊師」という詩を聞いた。そして、その詩の中に鏡岩が出て来たのである。鏡岩、まだ中学生の私にとっては鏡岩とは何だろう。想像の世界で毎日のように頭に浮かぶ鏡岩であった。

 その鏡岩をダンスをするように登る集団があることをラジオは言っていた。そして名前はワタベ…と放送は終わった。

 そして月日が流れて新聞やラジオで時々山のニュースが流れていた。65年の7月にワタベは渡辺恒明であり、ある種の衝撃を受けた。そして8月に墜落した。その頃の私は高校生で陸上部に籍をおいており、同じ高校の山岳部に入りたかったが先輩にしかられてやめた。そして社会人になったら山登りを始めようと思っていた。そして今、26になり大山北壁を大手をふってやっと一本登った。

 その間にいろいろあったが今回のようにめぐまれたことはなかった。まずルート図を松田さんからかりてコピーを取ったがあまりわからず、なやんでいた。ちょうど岳連の岩登り講習会があったので中津山の会の山本氏をさそってみたが行けないという。なお話していると彼がルート図はあるかと聞いたので「ない」と答え、つぎの返答が返ってきた。これで全て完了である。

10月11日 取付き10時25分。ルートはダイレクトルートは変更して港ルートにする。挾間がトップである。5〜6mも登るといとも簡単に落ちた。この墜落で気分もひきしまりファイトがわく。1Pはオムスビ岩の出口悪く、左のハングを乗っ越す。二人で1時間。次のピッチは早い。3P目は凹角の中で確保のために落石が遠慮なく落ちて来る。

4Pはいよいよ内田トップである。しかし思っていたより簡単に抜けた。しかしルート図とは明らかに違うところに出ている。5Pはルート修正のため右のカンテを乗っ越して行くがいきづまりのため引き返す。このあたりは大山の岩独特のものであろう。ルートは直上してハングした壁を乗っ越すと屏風岩の肩に出る。後は草付きを1Pで終了。なお、冬はこの草付きはかなり悪いであろう。(内田記)