富 士 山−ファミリー登山−(1989年8月14〜15日)  
                                 挾間 渉

 高校1年の時初めて山らしい山に登って以来、いろんなかたちで山に接してきた。しかし、その接し方は年齢とともにいくらかずつ変化してきている。

 富士山は日本一高い山であるが、槍・穂高や剣岳などに注意を奪われていた20代の山登りでは、ほとんど頭になかった。しかし、いつかは登らねばならないと思いながら、登り急ぐ必要もないと考えていた。

 しかし、その機会は意外に早く訪れることになった。すなわち、姉夫婦(伊東利雄兄と小夜子姉)が浜松に住むようになったことが大きなきっかけであり、小6と小3の二人の息子のこの夏の貴重な体験になればと、家族のファミリー登山を思い立ち、妻・恵子と姉夫婦の合計6名の富士登山隊が誕生した。

 8月13日に関西汽船で別府港を発ち、大阪から新幹線を乗り継ぎ浜松へ。この日は姉宅に厄介になり、翌14日に利雄兄の運転するCHACERで出発。お盆とあって道中が混雑しており、かなりの順番待ちののち、スカイラインにやっと車を乗り入れることができ、5合目まで上がる。ここからはわずかな歩程で、利雄兄が予約しておいてくれた山小屋に到着。天気はあまり良くないが、時間が早いので宝永山の途中まで散策する。山小屋の女将が、「天気が良ければ、山頂往復だけでは物足りないよ。お鉢巡りをして、できれば御殿場口方面へ下り、途中宝永火口を経由して小屋に戻る方が楽しめるよ、道標もしっかりしてるし」と奨めてくれる。

           
                   4合目の駐車場を出発

    

                  5合目の宿にて 富士登山隊総員6名

           
                   宝永山への登山道にて

 8月15日 3時起床。4時40分出発。昨夜は雨で今朝の出発時はガス。晴れていれば、この時期のこの時刻に、既に頂上までのジクザグの登山道はヘッドランプの明かりの行列が見えるという。昨夜床に就くのが早すぎ、かえって寝付きが悪かったせいか、それとも日本一の山への登頂を前にしての神経の高ぶりのせいか、皆の足どりは重そうだ。

           
                    6合目付近を登る

 それでも6合目、7合目と高度を稼いで行くにつれ、大人達はしだいに身体が目覚めてくる。5時23分7合目小屋、6時15分元祖7合目小屋(標高3,010m)。ここら辺りでは、もともと早起きが苦手な息子二人は顔色も冴えず、特に長男の博史の方はまったく元気がなく、8合目にさしかかる頃から顔面に生気がなくなり、とてもこれ以上登れそうもないといった雰囲気。こんな時に限ってだんだん弟の壮史の方が元気を出してくるから不思議だ。幸い、ここには診療所が開設されており診てもらうと、「高度に適応力の乏しい年齢だけに無理をさせない方がいい」と下山を勧められる。

                 
                  一緒に下山を考えたが・・・

 長幼の序ではないが、親としては何とか長男に頑張ってもらい兄弟揃って山頂を踏んでもらわねばこまる。長男博史も兄貴の立場上ここでリタイアして、のちに兄弟喧嘩の際の攻撃材料にされれば禍根を残すことにもなろう。ここは一つ気分転換を図ってでも何とか頑張ってもらいたい。ということで大休止を取り、おにぎりを食べさせ元気づける。

                 
                 何とか元気を取り戻してくれて一安心

 一時はつれだって下山を考えた長男も、おにぎりが効いたのかしだいに元気を取り戻し、心配そうに見守る利雄兄を始め皆を安心させる。

 今年の冬は例年になく雪が多かったせいか8合目を過ぎる辺りから大雪渓が見られ、始めてみる真夏の残雪に先程までが嘘のように長男がはしゃぎ出す。9合目の小屋を過ぎる辺りから、今度は壮史が元気がなくなり、兄貴に荷物を持ってもらう有り様。「宗方小のエース、だらしないぞ、がんばれ」とハッパをかけるとたちどころに元気を出す。こいつは調子もんだ。


          
                     頂上まであと一息

 一方、私はといえば、山は数多く登ったが、高度としては奥穂高岳の3,190mが最高到達点であり、その高さ以上は未体験ゾーンである。軽い偏頭痛が始まるが、他の皆は、もちろん3,000mはおろか2,000mすら初めてにもかかわらず、逞しい。特に利雄兄と小夜子姉はこの日に備えてジョギングで鍛えたとかで、いたって快調の様子。それにしても9合目からおぼろげに見えた小屋は頂上かと思いきや、実は九合五勺の小屋でがっかりしていると、「でも頂上はすごく素敵ですよ」との傍らの下山中の女人の声に勇気づけられる。

 3,600mを過ぎると、先程の女人の言のとおり、ガスが晴れて急に辺りが明るくなり、測候所のドームが間近に見えてきた。テレビや写真等ではお馴染みだが、近くで見ると迫力がある。ここに来てせっかく調子が良くなったと思っていた長男が、再びバテ気味となり、だらしない足運びとなった。ここは親として甘い言葉は禁物だろう、「終わり良ければすべて良しだ。最後くらいきちんと決めろ!」との叱咤に何とか気を入れなおして歩き始めた。

          
   
                    全員無事登頂

 10時過ぎに火口壁の稜線に飛び出すと、山頂はもう目前だ。利雄兄は一足早く山頂に達し早くからビデオカメラを構えている。10時5分、「ヤッタ! 山頂だ」日本最高点を示す石碑があり、周囲にはここより高いところは皆目見当たらない。ビデオカメラに向かって皆で万歳三唱。一人の落伍者もなく、6人全員で登頂できたことが何よりも嬉しい。おまけに今日は利雄兄の48歳の誕生日だ。

 山頂の一角に陣取り、昼食を広げる。もちろん、その前に無事登頂と利雄兄の誕生日を祝して乾杯。この日のために、つい先日、北海道大学での日本植物病理学会の折買った十勝ワイン・セイオロサム、北海道→九州→富士山頂と列島を股にかけたボトルをザックにしのばせていたのは言うまでもない。ワイン、ビール、ジュースと、好みのコップを高く掲げ一気に飲み干す。

   
              奇しくもこの日は終戦記念日で利雄兄の誕生日

 昼食も終え、さて、そろそろ下山という段になっての「富士山頂ではお鉢巡りが当たり前よ!」との小夜子姉の張り切りようには抗しきれない。現金なもので、つい先程まで途中リタイアまで考えたことも忘れ、欲が出て姉の言に同調する私。「挾間の人達(一族)は皆頑張るなー」とのあきれたような妻・恵子の言葉を尻目にお鉢巡りを決行することにする。火口壁のお鉢巡りは、時折ガスに視界を遮られるものの、子供達は雪渓滑りに興じたりで富士の残雪と日本最高峰の感触を充分満喫できた。頂上での感想を山日記にメモしてもらったのが以下の文章である。

           
                    お鉢巡りに出発

          
                雪渓の上で雪遊びに興じる

 壮史「ふじさんのちょう上にのぼった。かぞくでのぼれてよかった」
 博史「戸次にTEL通じる。ペロがかわいがられてよかった」
 恵子「やった! ついに日本の最高の地に足をはこべた。一生の思い出が出来たゾ」
 利雄兄「ついに来た富士山頂! 天気に恵まれ気分最高、記念すべき48歳の誕生日となった。次の目標はエベレストだ!」
 小夜子姉「渉さん一家のおかげで私達も登る事ができた。何とか足をひっぱらずに来れて本当によかった」

 それぞれの感慨を胸にした富士山頂であったが、お鉢巡りも、後半、山梨県側の小屋を発つ頃から天気が下り坂となってきた。それでも、ほぼ火口壁を一周する直前の辺りで、「まだ、昼過ぎたばかりだし、同じ道を下るのも面白味がないから宿の奥さんが言ってた宝永山経由にしようよ!」との、またしても挾間家の頑張り屋の姉の一声に積極的に反対する者なし。

           
                  
                 
 私は、挾間家一族郎党の中では‘ベテラン登山家’ということになってはいたが、ことこの富士山に関しては「どうせ登山口から頂上まで登山者が数珠つなぎの山」とたかをくくっていたため、大して下調べもしなかった。御殿場からの頂までに、登りと下りの専用登山道があろうなどとは思いもよらなかった。このことは富士登山ではほとんど常識に近いことだったらしいのだが。

 結局、このことが先刻に引き続く楽しかるべき後半の有りようを一変させてしまった。すなわち、登り専用道を下ったため、あるべきはずの『宝永火口経由5合目小屋への道標』がいくら下っても確認できず、雨とガスがしだいに強くなる中、引き返すもままならず、御殿場口まで標高差2,300mの大下降を皆に強いてしまった。道に迷っているわけではなく、御殿場口への道を確実にトレースしているにもかかわらず、「どんどん下ればそのうちいつか着く」との確信がだんだん揺らいで来るほど、いつまでたっても雨とガスの中という状態が続いた。皆くたびれ果てた頃、どうにか暗くなる前に御殿場口に着くことが出来、タクシーで5合目小屋に無事戻り事なきを得た。

 空腹と疲労と雨に打たれたことから、頂上の残雪ではしゃいでいた姿が嘘のように黙りっこくなっていた子供達ではあったが、10時過ぎ無事浜松に帰宅し、姉の用意した焼き肉とジュースを前にして、二人の顔がほころんだのには、胸を撫で下ろした。大分に戻って数日後再び感想を求めたところ、以下のようであった。

 恵子「足が痛い、特に2日目が。あらためて、大した山に登ったものだ。まだ体力ありそう」
 博史「日本一高い山にのぼってとてもつかれた。こんどは日本一低い山にのぼって比べたい」
 壮史「またやまにのぼったらまようかもしれないから、もし山のちょう上にいったら、同じ道からかえりたい。山はもういやだ」

 それでも、次男壮史は夏休み明けの「夏休み自慢大会」では、模造紙いっぱいに富士の鳥瞰図を描き、日本一の富士山の頂に立ったことを誇らしげに発表したらしい。

 かくして家族揃っての富士登頂というビッグイベントの終了とともに、平成元年の我が家の夏が終わった。(コースタイム 5合目小屋4:40→6合目4:55→7合目5:23→元祖7合目小屋6:15→8合目7:00→9合目小屋8:15→9合5勺の小屋8:50→山頂10:05→頂上山口小屋11:45→御殿場口下降点12:40→8合目小屋13:40→以下記入もれ)          (平成元年8月14〜15日)