晩秋と初冬が交錯する山並み  
       
−常 念 山 脈主稜縦走−   挾間 渉

 10月9日 心配された台風は列島をそれ、この週末はどうやら予想どおりの晴天が期待出来そうだ。かつて青春の血をたぎらせた槍・穂高連峰を心ゆくまで眺めたいとの思いから、今回は秋の常念山脈を縦走することとした。金曜日の新宿発の夜行便がどれほどの人手なのか知る由もない私は、さんざん時間を持て余したあげく、少し早めにと2時間前に駅に着いてみると、ホームは既に長蛇の列で足の置き場もないほど。結局、車内では超満員のため、席を確保どころの話ではなかった。

 10月10日 晴れ 一晩中立ちどおしで身動きできぬまま早朝の穂高駅に到着。中高年の登山者3人と相乗りで登山口の中房温泉へ。本当はここは出発点ではなく、終着点としたかっただけに、早朝のいで湯に浸るのも悪くないが、これからの道中を考え、温泉旅館を横目に見ながら、足早に通り抜ける。第2ベンチ辺りから陽が射し始め、見上げる稜線は数日前の雪を冠しながらも紅葉が映え、初冬と晩秋が交錯する。



 歩き始めて2時間半ほどで合戦小屋。昨夜から今朝までの列車内が、まったく一睡もできなかったため体調は最悪で、中高年パーティにさえ抜かれる始末で、癪だから抜き返そうとすると例によって吐き気が始まる。燕山荘では期待した朝食は取れず、新宿駅構内で買ったまずいちくわを朝食代わりにかじり、燕岳(2,763m)山頂をピストンする。往復の道中、北鎌尾根、硫黄尾根、裏銀座、立山・・・と360度のパノラマが展開する。

  

            

 燕山荘を発って眼下に高瀬川源流、遠望すれば剣岳三の窓と小窓の王南壁などはっきり確認できる。為右衛門吊岩、切通岩でそれぞれ小休止を取りながら、新雪の大天井岳(2,922m)を登る頃には早くも疲労がピークに達する。町営大天荘でやっとビールとうどんにありつける。ビールのアルコールが効いたのか、荒れ狂いかけた胃袋も治まり、東大天井岳、横通岳へは起伏の少ない歩きやすい尾根となりピッチを上げる。大天井岳までは大勢の登山者と行き交ったが、大天荘を過ぎてからは急に人気がなくなり、独りぼっちになってしまい、静寂さが周囲を包み込み始めた。今日は常念乗越までと思うと、天気も上々、陽もまだ高いし、午後の陽にきらめく梓川の、その向こうに展開する槍・穂高連峰、おそらくこれ以上の圧巻は比類無いと思われる一大パノラマを前に、過去の回想に耽るのも悪くない。

 横通岳山腹の日溜まりに腰を下ろし、北の北鎌尾根から南の西穂高までゆっくりと視線を移動させながら記憶回路を辿っていく。高瀬川を遡り、北穂滝谷での岩登りに繋いだ積雪期の北鎌尾根を想うと、先ず高瀬、桂、それに少し記憶から遠のきかけた角南の顔が浮かぶ。槍の穂先に眼をやると、南岳西尾根から極地法(?)を試み、吉賀、内田さんらの北鎌尾根隊と合流した冬山合宿のこと、そして松田さん、北穂高から横尾谷にすっぱりと切れ落ちた斜面には若くして逝った分大の南野君や古中、それに自分自身の滑落を食い止めてくれた佐伯の木許さんのことがなどがよぎる。北穂高を透視すると、滝谷のドームでカラビナが届かずボルトの上で墜落覚悟のジャンプをした佐藤和彦さん、北穂のコルでは取って置きのフランクフルトソーセージをリーダー会に差し出しを余儀なくされたことを今だにこだわる栗秋、沈殿の日の雨上がりに雪上相撲の勝ち抜き戦をやった涸沢定着合宿、前穂北尾根三峰涸沢フェースでは「トップは俺にまかせろ」と意気込んだ割にはあまりに遅い登攀スピードの高並さん、それに業を煮やした小田、結局ベースには夜10時前の生還となり追悼号まで考えたと冗談を言いながらライト照らして出迎えた西さん、姫野さん、嘉島、それに佐藤清一らが。さらに南には、暗闇の登高となり一杯の熱いスープをどれほどにか望んだ天狗のコル、あれは加藤さん率いる槍平隊をはじめとする幾つかパーティに分かれた槍ヶ岳集中春山合宿の時だっただろうか。さらに、登高会の活動が停滞していた一時期、冬の北アルプスを知らない者主体で企画した西穂高冬合宿で奮闘した杉崎・・・etc, etc。

 それぞれを想うとそれぞれのその時の刹那の顔、顔、顔が、槍・穂高の稜線上に浮かんでくる。しだいに胸が熱くなる。「穂高は僕の青春そのもの、これほどの強烈な印象を与えてくれた穂高よありがとう」との気持ちをこめて、僕は、槍・穂高に向かって、また、その稜線に蜃気楼のように浮かんでくる一人一人、一時期価値観を共有した彼らに向かって呼びかける。もう戻らないかつての青春群像に向かっての叫びが梓川に次々とこだまする。

 ふと気がつくとつるべ落としの秋の日が既に傾きかけ、現実に引き戻される。横通岳の山腹から最初のしばらくはなだらかな歩きやすい稜線を下って行き、最後の長い急下降を終え、低潅木帯に入っていくと、常念乗越の幕営地はもう間近のはずだ。雲を仰ぎながら偃松の香に眠っているという骸骨があった1)のはどの辺りであろうか?今となっては知る由もない。16時過ぎに常念小屋に入り、取りあえずビールとカップラーメンを求める。食糧は正味2日分を用意したものの、自分でつくるのが億劫だ。そのくせ小屋代をけちって天幕を張ることにする。

 天幕の中で一息着くと、週明けにかかえている仕事のことが気になり小屋から我が家に電話をしてみると、案の定上司から日曜日も出てこいとの催促の電話が入ったとのこと。急に現実に引き戻されてしまい興ざめであるが、聞かなかったことにして無視する訳にもいくまい。予定では明日は常念岳から蝶ヶ岳を越え、徳本峠と、ハードな行程を組んでいたが、寝袋にもぐり込みながら、最短コースでの帰分を検討する。夜間、気温は氷点下まで下がり、羽毛200gの夏用寝袋のため寒さがこたえる。(コースタイム 中房温泉5:40→第2ベンチ6:35→富士見ベンチ7:30→合戦小屋7:57→燕山荘9:05→燕岳9:37→燕山荘10:05→大天山荘13:00〜13:30→常念乗越幕営地16:05)

 10月10日 晴れ 今日中に大分に帰り着くことと常念岳の頂だけには足跡を残しておくことが昨夜考えた結論。そこで、早朝5時に早発ちし、ヘッドライトを頼りに山頂を目指すと、登るほどに東の空が白んでくる。約1時間で山頂。山頂からは後立山連峰、焼山、火打、妙高、戸隠、苗場、岩菅、男体、赤城と展望がパノラマ板を頼りに確認できる。朝の陽射しが槍・穂高連峰を照らし、そこにはっきりと常念岳の山影がかたちを成し、これをしっかり我が眼に焼き付けたのち、慌ただしく幕営地に戻る。

 上高地側に下ることしか頭になかったが、ここから穂高駅までの最短距離は一の沢であることを小屋で知る。表銀座とは良く言ったもので、小屋からタクシー予約も簡単にでき、それがここでは当たり前なのだ。右手の眼下に、下るほどに水量を増す沢を眺めながら、ポカポカ陽気のなか、紅葉を名残惜しみながら足早に一の沢を下ると乗越から2時間あまりで林道に達した。

 予約したタクシーが来るまでの間を利用して沢で水浴びに興じる。時間に余裕があれば山のいで湯にでも浸りたいのだが、南アルプスの両俣小屋での沐浴が忘れられず、冷たい沢も悪くない。人気のない沢に足をいれると、どうだろう、突如足もとから尺イワナが現れ下の淵にダイビングして消えていった。一瞬の出来事だった。

 行水し、着替えをし、岩の上でトカゲとなった30分。昨日から先程までを反芻していく。横通岳付近で柄にもなく、感傷的になった昨日のことが少しばかり気恥ずかしい。小屋から電話さえしなければ、あのまま感傷に浸れ続けたものを、また、今日は黎明期のアルピニストの多くが越えた徳本峠に立ち、また別な感傷に浸れたかも知れないのに。回想の世界から現実に引き戻されたこと、蝶ヶ岳、徳本峠をやり残したことに不満は残るが、またの機会としよう。

 11時きっかりにあがってきた約束のタクシーにて穂高駅へ、さらに松本駅を経由して、名古屋駅からは初めてJR『のぞみ』を体験し、早朝3,000mの稜線にありながら、夜には我が家という、いつもながらの余裕のなさを恨めしく感じた山行となった。(コースタイム 幕営地5:00→常念岳山頂6:10→幕営地7:00〜8:15→林道10:20)

  注1)スイス日記で有名な辻村伊助の『神河地と常念山脈』(1921年)の中に、「・・・また下りとなって常念の乗越と呼ばれて居る凹所へ出る、横尾通りの二ノ股に対する斜面の偃松の間には凍死者の骸骨がある、ついでに訪れて、雲を仰ぎながら偃松の香に眠っているその身を羨んでいるいくのもよかろう。・・・後略」とある。

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