青少年の森から四辻峠へ   永田秀樹

運動量ゼロのゴールデンウィーク

 今年の連休は、仕事に追われ、おまけに風邪まで引いてしまい最悪の日々を送った。というのも連休明けに学会報告を控えていたからである。昔から何事につけ直前バタバタタイプだったが、年をとるにつれてさらにルーズになった。最近では、原稿を依頼されても締切の日が来て、やっと「さあ何を書こうか」といった調子である。もちろん、私は、原稿依頼をすっかり忘れてしまうような豪傑ではない。それどころか、締切の日が近づくと、早くとりかからなくてはとあせり、寝つきも悪くなるほどの小心者なのだが、「手が付かない」というのだろうか。周辺部分をうろうろするばかりで、なかなか本題にずばりと踏み込めない。逃避と言ってしまえばそれまでだが、ふだん読まない小説に手が出るのもこういうときである。電話で2度3度原稿の催促を受けて、ひどいときには半年も遅れてやっとできあがる。締切までに原稿ができあがればどんなに気持ちがいいだろうと、重々わかってはいるのだがなかなかやめられない。

 あるとき、他人が放り出した仕事が私のところへ回ってきたことがあった。『世界の憲法集』という本で、担当部分は西ドイツのボン基本法である。「遅れているので今月中に仕上げてくれ」と随分厳しい注文である。引き受けて、編集部から届いた執筆要領を見ると、締切は1年前だった。大慌てでやり遂げ原稿を送ったが、一向に本が出ない。出版されたのは、それからさらに1年後。私よりもっと遅れた執筆者がいたのである。その間ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツ憲法は、法的効力のないただの紙切れに変じていた。たまたま私の担当は西ドイツだったので反故にはならずにすんだが、なんとも格好の悪い話である。ところが出版社は、歴史的価値を有する貴重な資料が含まれているといって、東ドイツ憲法掲載をセールスポイントにしたのだから商魂たくましいというべきか。そうなったのも、元はといえば、編集部の姿勢が甘かったからである。執筆者をしっかり管理しなかったからである。定期・予告どおりに、本や雑誌が刊行される出版社には、たいてい泣く子も黙る鬼編集長がデンと座っているものである。そういえば、本誌『おゆぴにすと』の編集長も、随分心根の優しい方で………。

 始めに戻って、学会報告となると論文の締切とは違い、当日までにできていないと大恥をかく。口の悪い輩の餌食となって、のちのちまでの語り種となるおそれもある。大家の場合、当日の朝、報告の筋書きを作り、後はその場の思いつきでしゃべっても、それなりにサマになっていることがあるから(文系の場合、新知識の披露は学会報告の必要条件ではない!)不思議である。しかし、私のような若輩者がこれを真似するわけにはいかない。大やけどをしてとんだ泣きを見るのが落ちである。というわけで報告原稿を準備することは必須である。これで、私がなぜ長い長いゴールデンウィーク〔ス〕の間、猛烈なストレスと格闘しながら、運動量ゼロを通したかが分かっていただけただろう。

ストレス解消の日は来た
 5月21日、土曜日。久しぶりに全く予定のない休日ができた。ずっと以前から気になっている林道があった。それは、障子岳から御座ケ岳への道である。広い舗装路だがしばらく行くと行き止まりで、そこから先へは進めないという状態が何年も続いていたのだが、予算がついたのか急に工事が進捗したようで、野津原の「平成森林公園」までつながったというニュースを耳にした。2月に一度竹田マラソンのトレーニングのつもりでこの道を走ってみたが、行けども行けども山また山で、夕闇も迫ってきたので途中で引き返したことがあった。その後、友人の大杉さんに「いいコースがあるので、マウンテンバイクで一緒に出掛けませんか」と誘いながら、こちらの都合で約束を果たさずじまいだった。昨日まで日本を覆っていた高気圧が東に移動し、空模様に少し不安があったが、いいチャンスだとばかりに、当日の朝大杉宅に電話を入れてみた。午前中は畑中のプールに行くので午後にしようとの返事。大杉さんは、2年ほど前からトライアスロンを始め、今では栗秋なき後の私のよきライバルである。現在は、水泳が一番楽しいという。マウンテンバイクで通勤しているが、まだロードレーサーはもっていない。ロングライドを楽しむにはやや中途半端だが、やむなく午後からの出発に予定を変更する。

 大学生協で昼食をとり、12時半にスタート。大学から西寒多神社まで約3.5km。それから石川を通って青少年の森へ。地図で見ると大野町までほぼ真っすぐに走っているこの県道は、昨年の台風で道がずたずたに寸断された。現在は道をふさいでいた巨岩も片付けられて、何とか通れるが、台風直後に入ったときの感動は今でも忘れない。谷という谷が人為を加える前の姿に戻り、ごうごうという音を立てて水が流れていた。この道とは違うが「しあわせの丘」と「青少年の森」を結ぶサイクリング道路は今でも、改修されることなく放置されている。この道を小・中学生の遠足コースにすれば、雲仙まで行かなくても自然の偉大さ、恐ろしさを学ぶいい機会になるのにと思う。

分け入っても分け入っても……

 大杉さんは、学内駅伝でも区間3位と、平地のランニング能力では私を上回っているが、上りとなるとまだまだ。きつい坂道が続くと私の方が先行することになる。青少年の森(大学から約10km)で水を補給し、水鳥が遊ぶ池を下に見ながら急勾配を上り詰めると、道が二手に分かれる。のびゆく丘まで行く道と別れて、引き返すような形で障子岳の裏へ回る道をとる。案内板によると「平成森林公園」まで19kmとある。左手に本宮山や屏風のように並んだ犬飼の山々を見ながら上って行く。しばらくの間、下の方に赤仁田の集落が見えるが、それが見えなくなると後は「分け入っても分け入っても青い山」である。濃淡入り交じった木々の緑は、すばらしいの一語だが、延々と続く広く単調な坂道はやはりこたえる。道端の野いちごの白い花もいいが、途中に人家が現れて、石垣に人の手の加わった小さな花が顔をのぞかせていたりするのを見たい気持ちになる。

 高度600〜700mで、落差のある長い上り下りが続く。大杉さんが不安になってきたのか、「帰りはどうやって帰りますか」と聞く。「もちろん同じ道を引き返しますよ。」と答えれば、「じゃ、ここで引き返しましょう」と言いかねない様子なので、「野津原かどこか町を通って帰りましょう。」と答えた。「もちろん町に通じる道があればの話ですが」という言葉は声にしなかった。今日は単純に往復するつもりだったので事前に地図など調べていないのだ。

 これだけの深山になると野良犬もいないのか、犬探知機のあだ名をもつ大杉さんと一緒に走っても、平地と違い1匹の犬にも吠えられなかった。その代わり、テンという珍しい動物に遭遇した。もちろん発見したのは、視力2.0で嗅覚、触覚、味覚抜群の大杉さんである。私は道路わきの急斜面を這い上る後ろ姿しか見られなかったが、黄金色に輝くふさふさとしたしっぽが印象的だった。テンが犬のように哭くものかどうか知らないが、このときテンは大杉さんを見ても声を発しなかったように記憶する。

 青少年の森から13km走ったところで十字に交差する峠道と出会った。標識には左が師田原湖、右が野津原と書いてある。後で調べたら、ここが大峠だった。何年も前、(といっても『おゆぴにすと』の前号が刊行された時ほど昔ではないと思うが)狭間さんの案内で、栗秋と一緒に来たところである。私は、マウンテンバイクを買ったばかりで、そのときのツーリングが最初の遠乗りだった。

 野津原への下りに未練を見せている大杉さんを励まして、大峠から、山の尾根沿いに、またもアップダウンを繰り返すこと約5km、急に森が開けて広々とした草原に出た。右側が「香りの広場」、今はやりのハーブ園とかで、ラベンダーが一面に植わっている。遠景に九重の山々が見える。道路の左側は山のてっぺんまで牧場になっていて牛がのんびりと草を食んでいた。駐車場に一組のアベックが休んでいる外はだれもいない。のどかではあるが何とも寂しい風景である。高地のせいか、花の季節には少し間があるように思われた。

大分の出べそ

 小休憩の後、地図もなく位置がよく分からないので、さらに先に進むことにした。すると、まもなく前方に近代的な建物が見えてきた。それが5月12日に開館したばかりの「のつはる少年自然の家」だった。近づいてみると、巨大かつデラックスな建物で、どうしてこんな山の中にこんなものがあるのかと、キツネにつままれたような感じ。山頭火が生きていたらどう思うだろう。「分け入っても分け入ってもコンクリートの山」。後で人に聞いた話だが建設費用22億円だそうである。まだ整備されていない公園もあった。大野町からも入れるが、大分市と野津原町の小学生しか利用できないという。木下敬之助銘の立派な石碑がしっかりと立っていた。

 それはともかく、四辻峠に足を踏み入れたのは初めてだが、ここは大分県のへそと言っていいであろう。高さが700mあることからすれば「出べそ」の方がより適切な表現かもしれない。県内の主だった山が一望のもとに見渡せる最高の展望台となっている。すぐ近くの雨乞岳、烏帽子岳、鎧ケ岳はもちろんのこと、祖母・傾の山々、九重連峰、由布・鶴見、佩楯山、姫岳、鎮南山、九六位山などがすべて同じぐらいの距離のところに外輪山のように大きな輪を描いて並んでいて、それぞれ特徴のあるピークが手に取るように分かる。残念ながら玖珠から向こうの山は九重に遮られて見えないが、そして、私は競争的な山登りを趣味としていないので、詳しいことは知らないが、大分百山のうちの半分くらいがここから確認できるのではあるまいか。アルピニストやその亜流‥いや傍流‥いや正嫡の、おゆぴにすとたちが、大分百山征服の誓いを立てる場所として推奨したい。

 もうすこし余裕があれば、神角寺まで足を延ばしてみたかったのだが、あいにく相棒が帰りたそうにしていることでもあり、今日はここまでということで引き上げた。帰りは、少し道に迷ったが四辻峠から高沢を通って、国道442号線に出た。往復60kmの行程であった。 (1994.5.25) 

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