思い出の山・・・由布岳    栗秋 章一郎
 三人兄弟の末っ子のKは、中学を卒業すると大分市にある高専に入学した。もちろん、学校は全寮制である。一学期が終わると待望の夏休みであろう、早々と親元に帰って来た。それも親に会える楽しみよりも、友人と会う為である。帰宅をすると直ちに、幼、小、中と机を並べたN君、A君と電話で連絡して、城島高原の猪瀬戸にキャンプに行くことになった。その結果は私に車を出して、三人を運んでくれとの事である。年甲斐もなく私も、この三人の少年とのキャンプは思ってもない出来事であり、楽しいかもしれないと多少は心が弾んだ。

          

 7月下旬の土曜日、午後1時日田を出発と決め、途中で一泊二日分の食料を買い込み、目的地へ向かった。国道210号線も、今は舗装され幅員も充分あり立派な道路であるが、その頃は未舗装の狭い曲がりくねった凸凹の激しい悪路であった。愛車はその頃流行したスバル360、亀甲型の軽自動車で、悪路とあいまって遅々として進まず、満席にキャンプ資材、食料を積み込んでの進行は、車中の少年たちの談笑に反して車のエンヂンは悲鳴をあげているようであった。出発して1時間半も過ぎた頃(豊後中村あたりだったと思うが)、路上に白い物体が落ちているのに気づいた。近づくにつれ、それは足をくくられている白色レグホン(鶏)であった。今と違って山合いの道路は交通量も少なく、人目をはばかる事もなく取得物は頂戴することにした。「ガァガァ」鳴く鶏を三人の少年は持て余し、途中で捨てようとも言いだした程で、何とかなだめすかして、現地に着いた。日田を出て2時間半もの時を経ていた。

 到着と同時にテントを張り、くだんの鶏料理を始める事にした。幸いキャンプ場の中程をキレイな小川が流れている。多分、大分川の源流だろう。鶏の解体には少年たちは見物するだけで、手も足も出ない。他のキャンパーたちも何事が始まったかと覗きに来る始末。小さな果物ナイフでの鶏料理はかなりの時間がかかった。ようやく宵がせまる頃、四人で手分けして作った料理はどれも美味しかったけれど、フライパンにサラダ油を塗って焼いて食べた鶏肉の美味さは、四半世紀以上経った今も忘れられないワイルドな思い出である。翌朝は由布岳に登り、日の出を拝むことに話は決まった。その夜、三人の少年たちはキャンプ場中央でのキャンプファイヤーに群がり、事のほか目を輝かしていたのを思い出す。

 翌朝4時、目覚めの悪い少年たちを起こし、登山口まで車を走らせる。1時間20分位して頂上に到着するも、太陽は待ってくれない。陽は既に嶺線を離れてまぶしい程に照りつけてくる。頂上で先着の久留米の月星ゴムの若い女子社員5、6名と東方へ向かって万歳を唱え、お互いに写真を撮ったりして山頂でしばしの交流を楽しんだ。20分くらいで彼女たちは先に下山した。行きずりの人達ではあったが、今頃は初老のおばさんになっていることだろう。時の流れの早さに多少の感慨と新鮮な記憶が甦ってくる。

 由布岳の麓でキャンプをした成行き上、山に登ろうということになり、私自身生まれて初めて名前のある(ちょっとは有名な)山との出会いであった。その後、末っ子のKとは彼が帰省すると山登りに誘われ、くじゅうや近くの津江山系などへ出掛けることがあったが、もう彼には付いて行けない。あの時の二人の少年たちも今はもう四十路を越して、人の子の親となっている事だろう。市内に住んでいるかもしれないが、逢うこともない。人の縁の過ぎし日々と対峙して由布岳は私にとって処女峰であり、二十数年来の忘れえぬ思い出の山である。(筆者:山のいで湯愛好会会友、栗秋和彦会員の実父、大正8年生)

訃報 会友・栗秋章一郎氏は2003年1月14日午後2時20分、永眠されました(享年83歳)。この原稿は会報「おゆぴにすと」6号(1994年7月1日発行)に寄せられたものです。氏が生前当会へ寄せられたご厚情に感謝し、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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