かつて、昭和40年から50年代前半に大分市府内町を根城に闊歩する山やの集団があった。

 彼らは、粗野で荒削りで、お世辞にも“品行方正な若者たち”とは言えなかったが、こと山に関しては情熱的で、ために時に議論伯仲の末、口論・喧嘩になることもあった。山には真摯な態度で臨む集団であった。

 この傍目には必ずしもお行儀が良いとは言えない山やの集団は“大分登高会”と称した。

 
 大分登高会は、昭和40年(1965年)にヒンズークシ中部コー・イ・モンディ峰に遠征隊を派遣した大分ヒマラヤ遠征委員会を出身母体に、その年の秋に主として当時のメンバーにより設立された。

 設立後は主として厳冬期の北アルプスや伯耆大山における積極果敢なアルパインクライミングを始めとして、海外遠征のみならず地元大分にあっては傾山山手本谷の地域研究や二つ坊主南壁の新ルート開拓など、当時の大分の山岳界に新しい旋風を巻き起こした一時期があった。

 これらを足掛かりに会員の中にはペルーアンデスやネパールヒマラヤのビッグウォールに飛躍する者も居た。

 果敢だっただけに遭難も経験した。しかし当たり前と言えば当たり前のことかもしれないが、例えば剱岳池ノ谷の岩壁からパーティの独力で室堂まで負傷者を救出するなど、持つべき「山岳会の力」を間違いなく持っていた。

 しかし、個性の強い個々の会員の果敢な登攀スタイルは、組織としてはそう長くは続かなかった。

 昭和53年頃を機に新たな飛躍を求める者、結婚・家庭・仕事に埋没する者などにより、あたかも潮が引くように大分登高会は自然消滅していった。彼らの13年間は、まるで一陣の風のようであった。

 しかしその一方、会としては消滅しても、彼らが起こした風は今でも、時に心の奥底に、時に実戦へのこだわりを捨てきれぬ者の周りに、時に座して過去を回想することのみに喜びを見出している者の周りにも、吹き方は様々だが、そこここに吹いているのは確かなのである。

 このサイトの管理人は、こうした彼らの周りに吹く風を、少しでも感じ続け、表現したいと願っている。