九重 年越し山行はMTB+登山が似合うの巻  栗秋和彦

 1年はアッと言う間に迫りくる。早いもので恒例の正月九重山行の時期が来た。前回は坊ケツルで盗難の憂き目に遭ったが、MTBによる白銀の大船林道攻めと法華院温泉山荘の正月特例の“八鹿”樽酒飲み放題(?)、そして言わずと知れた山のいで湯三昧という悦楽・享楽・湯楽の魅力の方が大きく上回り、今回もMTB+法華院温泉山荘泊のセットメニューを基本路線として隊員募集を始めた。そして過去3回連続皆勤賞の矢野君こそ寄る年波に勝てずか、中年性腰痛症で辞退を申し出てきたが、挾間、高瀬の両名は軽度の壮年性痴呆症にもめげず、「ワシら、行くけんね。八鹿の樽酒美味いでぇ、久しぶりやなぁ」と意外にも参加の意向を示したのだ。愚息・寿彦は勧誘2点セット(MTBと山のいで湯三昧)で既に折り込み済みなので、ここに総勢4名の九重・法華院温泉ライト・エクスペディションが実行の運びとなった。

 ところがである、大晦日早朝の天気予報によれば元日の午後から2日にかけては低気圧の接近で山は大荒れになるという。1〜2ケ月先の長期予報ならいざ知らず最近の予報は極めて正確なのは万人の認めるところであり、崩れるのを承知の上でMTBを担ぎ山中を彷徨するのは難儀である。まして冷気厳しくとも新春の頂から見はるかす荘厳な眺望も欲張って堪能したいとの思惑もあり、ボクはおだやかな快晴保証付の大晦日から、何とか元旦の午前中までは持ちこたえましょうと頑張る(?)予報官の観測に阿ねて、行程の一日前倒しを決断したのだ。もちろん挾間、高瀬の了解なしに勝手に決めたので彼らの憤りに対しては返す言葉もない。家庭内浮世草(?)の自分とは違い両名はそれぞれ家長としての責任と義務をわきまえており、かつ最近の家庭内に於けるパワーバランスを考慮すると、勝手なスケジュール変更に追随できる筈もなかった(と思う)。

 かくてボクは東の空に向かって(大分方面へ)深々と頭を垂れ陳謝の意を表明しつつ、唐突に親子2名のみによる九重年越し山行のシナリオを出来(しゅつたい)させたのである。そして密かに暖めていたコース、つまりは長者原を起点に硫黄山噴火沈静化の兆しを受けて、師走の25日に1年2ケ月余振りに解禁したばかりの硫黄林道からすがもり越へ取り、三俣山を往復して北千里に降り、ガレ場を法華院温泉へ下るクラシックルートを採った。もちろん、すがもり越から三俣山への往復はMTBを置くことになるが、北千里東端から法華院温泉山荘へのガレ場の下りを除けば殆どライディングのまま踏破できる筈で、翌朝・元旦は山荘から坊ケツルの平原を突っ切った後は、大船林道の豪快なダウンヒルが待っているのだ。いろんな犠牲の上にたったプランではあったが、きっと登山とMTB両方の醍醐味を満喫できる山旅になることは間違いなかろう。
 
 さていまさら天気予報の正確無比に驚いても仕方ないが、大晦日の九重はポカポカ陽気の目一杯の快晴で迎えてくれた。雪模様はと長者原界隈を眺めても、前回とはうって変わり全く見ることはできない。やっと三俣の頂稜部北面にちょっと認める程度で、冬枯れの木々のたたずまいを除けばまるで春山の誘いであろう。2.3のパーティが登山支度をしており、彼らの視線から察すると我々と同じすがもり越を目指しているように見てとれる。解禁間もないルートなので、それなりの登山者を迎えることは想像に難くない。

           
                     三俣山の山頂にて

 で、ゆるゆると林道に分け入り陽光に見守られながら、林の中を突き進む。時間はたっぷりあり急ぐ必要はないのだ。ボクは久しぶりの、そしてMTBでは初めての硫黄林道の感触を味わいつつ、路面や周りの変化、そして追い越していく登山者の微妙な表情などを伺いながら、道すがらのうつろいを楽しんだ。

 しかししかしトシヒコめは、のっけから豊富な運動量を誇示して重いギアでグイグイと先行してしまい、アッと言う間に視界から消え去る。「フフフ、バカめ、山の登り方はただガムシャラでは芸がないわい。もっと周りの風景を愛でながら淡々と登る(ペダルを漕ぐ)ことこそ肝要であるぞ・」とボクははるか後方でつぶやいたものだが、延々とつづく気の抜けない上り坂は涼しい顔をしてと言う訳にはいかず、早くも額に汗を滲ませながら呼吸荒く、と言ったあんばいで相対的な“あせり”を抱いたまま高度を稼いだ。で、すがもり越までに5〜6組の登山者を追い越したり、下山途中のおだやかな表情の若者グループに出会ったりと、この解禁ルートはそれなりの活況を呈しており、1年2ケ月余りの立ち入り禁止で、登山道は少なからず荒れているのではとの危惧と、いくばくか九重にこだわりを持っている我が身としては、以前とちっとも変わらぬたたずまいに何かしら安堵を覚えるのも無理からぬことでしょう。

 さてモクモクと噴煙の上がる硫黄山の直下まで詰めると林道はくねくねと曲がり路面も荒れていよいよ乗り続けることが困難となってきた。仕方なくMTBを押すこととなったが、担ぐような障害物(岩塊)もなく、ものの200m程で意外にも簡単にすがもり越に達した。そこは午後の明るい陽光を浴びて3.4の中高年パーティがそちこちにたむろして、物珍しげな視線で我々を見つめるが、もとより気に留めるつもりはない。ただ主人を欠いたすがもり小屋は入口を閉ざしたままひっそりと、軒下の鐘台までも何かしらうら寂しく、蒼天とは裏腹に物悲しく感じられるのだ。このあたりの妙は、よもやま話が尽きない周りのおじさん、おばさん登山者たちには分からないだろうなぁ。おっと早速、MTBを適当な斜面に放置して三俣への登路を詰めることにしょう。こののっけの登りはいつもながら急で、まるで天空を詰める作業にも似た足取りとなったが、これもしばらくの辛抱で岩場混じりの急登を果たすと、後はおだやかな稜線漫歩を楽しんだ。

 一方、トシヒコめはこの場面でも一人勝手に先行してしまい、父上が稜線に出たところで遥か前方、まさに前衛峰のピークを踏まんとしているところであった。「フフフ、ルートはこのニセピークを巻いて旧噴火口沿いにトラバースするのが近道だわい」と先回りをして、彼の挙動を見守ることにした。すると案の定「オヤジ、狡いぞ。ちゃんと道を教えてくれんちゃ」とブツブツ宣いつつの合流となったのだ。またこれも山登りの一つの便法であろうぞ。もちろん、先行せずにちゃんと待っておればきっちりと伝授せしめたのであって、もっと周りの風景を愛でながら親父と歩調を合わせて登ることこそ肝要であるぞ、と負け惜しみの表情は隠しながら思うんであります。マァなんだこんなブツクサの珍道中を経て、W峰、南峰、本峰と都合3ピーク、文字どおり三俣の頂を踏み、豊後の国の峰々はもとより豊前、筑前の山々の眺望を我が物にして、野放しMTB兄弟の待つすがもり越へ舞い戻った。先ずは順調なスケジュール展開だと言えよう。

 さて本日の道中ではもう一つ特筆すべき試みがあった。ズブズブの砂礫の原、北千里を押さずにMTBで走破できるのか、と言うささやかではあるが興味溢れる命題である。と言うのはこの砂礫の原は全くの平坦ではあるが、登山靴ならくるぶしまで沈んでしまう脆弱の地質ゆえ、当然非力なパワーでは砂に食われてしまうことが容易に想定されるからである。まずは恐る恐る本邦初公開(?)の北千里ライディングに乗り出してみたところ、フロントはインナーギアに落としてクルクルと回転を稼ぐ方法を採れば何とか乗りこなせることが分かった。決して快適ライドには成り得ないが、九重の山中真っ只中にあって、1年2ケ月余りの期間、禁断の幽谷であった標高1500mの北千里をMTBで極めることにこの山行の意義があるのだ、と勝手な論理を振りかざして、砂礫諸兄の深みへの誘いを断ちつつ、先陣を巡る親子バトルは続いた。このあたりは自己弁護の最たるものであって、静かに法華院方面を目指す一般の登山者たちにとっては、騒々しく場違いな侵入者として捉えているに相違なかろうが(彼らの視線が物語っていたね)、硫黄山噴火沈静化の恩赦とも言うべき解禁(ルート)記念に免じて許して下さい。ボクは心に念じつつ、けじめとして彼らに目礼を忘れることはなかったのです。

 とここまでは楽しみながらも謙虚さも持ち合わせての行軍であったが、北千里東端から法華院へ下るガレ場に差しかかってからは状況は一変した。ある程度覚悟していたにせよ、大きな岩の塊を越したり縫ったりとアップダウンの繰り返し、そして切れ落ちた斜面のトラバースなどMTBを担いでバランスをとりながらの下りは難儀そのものであった。これまでは元気印いっぱいのトシヒコめも、さすがにこのワイルドな下りは勝手が違うのか萎縮してしまい、歩行スピードがガクンと落ちる。ようやくベテラン登山家の出番がきたのでありまして、彼も父上のアドバイスを神妙に聞き入れながら、いっときピーンと張り詰めた真剣で不安げな表情がみものであった。

            
               北千里から法華院への下り(ガレ場を下るTOSHI)

 しかし本音のところではベテラン登山家イコール優れた(自転車の)担ぎ手とはならず、空身ならゆっくり下っても20分程度しかかからぬこのガレ場を、自らも一歩一歩慎重にならざるを得ないシーンが続き、ゆうに倍以上の時間を費やしてしまったようであった。 しかしこれも明日の大船林道の豪快なダウンヒルの楽しみがあるからできるアルバイトであって、時々見聞するただ(MTBを)担いでピークを踏み、そしてまた担いで下るような行為に自己満足を見いだすマニア諸兄とは一線を画した、それなりに理念聡明・質実剛健(?)・清貧朴訥(??)を旨とした行為であることを声を大にして言いたいのである。と言うのも難行苦行の我々を抜いていった登山者たちの視線は物珍しさの中にも、若葉マークの“おばさんドライバー”が法定制限速度も下回るようなスピードでトロトロと目の前を走り、イライラは増すばかりといった情景、そしてようやく追い越した時の心情にも似た、一種侮蔑的なサインも投げかけられものと思っており、このあたりのギャップが少なからず存在することは、いたしかたないしても、物見遊山な山旅ではないぞと強く言いたいのである。マァしかしこれもボクの研ぎ澄まされた(?)感性のなせる業でありましょうか。 

 さて這々の体で辿りついた薄暮の法華院温泉山荘は砂漠のオアシスならぬ、大勢の登山者でごったがえす喧噪のバザールの趣であった。この山荘の最繁忙日は6月の山開き前夜と御来光登山を控えた大晦日であるとは伝え聞いていたが、なるほど充分うなづけるものがある。ボクは前回・正月(’96 1/1〜2)の経験をきっちりとシュミレートしていたので(元旦から2日にかけては客もさほどではなく静かな夜を過ごした)、のんびりと湯に浸った後はおもむろに食堂に居座り、手持ちの酒の肴などをつつきつつ、心地よいほろ酔い加減に支えられて、来たる新年の計を深く推敲しようかなどと、優雅に構えるつもりでいた。しかし現実はさにあらず。湯ったり、のんびりの筈の湯小屋はイモの子を洗うがごとき、夕食は一度期には賄えず3グループに分けられ、それぞれ30分程度で交替する(させられる)仕組みとなっていたのだ。 

 要は年の瀬に鑑み、ゆっくりと去り行く年の思い出に浸りながら夕餉を囲むような雰囲気ではなかったのだ。大きくイメージは異なり、現実を直視するのに若干の時間を要したが、もちろんこれに抗うことも、そのつもりもない。喧噪の大晦日の過ごし方に適応すべく、ザコ寝スタイルの大広間の一角を確保した後は、大勢の老若男女の群れに溶け込み、雑踏の中に安らぎを得ようと気持ちを切り替えたのだ。そしてほとんどの泊まり客が食事を終えた頃合いを見計らって、いよいよ皆の垂涎の的である清酒“八鹿”薦樽(こもだる)の鏡割り儀式が始まった。この頃になると前宣伝はさほどしなくとも、臭覚するどい今宵の客は、さざ波が押し寄せる如く、みるみる膨れ上がり、定刻には食堂は立ち見客で溢れるような盛況となったのだ。この中にはこのふるまい酒が目当てで、これ以上でも以下でもない、と言う目的意識のしっかりとしたおじさんから、「ムム.ナンダなんなの?この騒ぎは・」などと唐突の有事遭遇に戸惑いつつも、すばやく反応してニンマリ顔の中高年オバサングループもいたりと、様々な人生模様を認めたが、「オヤジ、人のことが言えるのか?本人が一番楽しみにしていたくせに」との愚息の視線も気になって、本来の樽酒の香りとコクを楽しむことに没頭したのだ。そしてセオリーどおり程なく酩酊の構図と相成り、大晦日の夜は紅白を観るでもなく、その後の事態は近年稀にみる早さで呆気なく過ぎてしまったようであった。

 さてボクの記憶は元旦未明、周囲のざわめきに始まる。寝ぼけ眼でおぼろげながら時計を見遣るに、まだ4時を少し回った頃合いか。そうかそうか、ご来光登山が目的の準備たけなわの時刻であったのだ。興味はなくもないが、久しくご来光を崇めた記憶もなく、まどろみも手伝って別の世界の出来事として捉えていたのかも知れない。そして再び目が覚めたのは7時ちょっと前。この時刻になると大広間の住人の7割方は既に“発つ鳥跡を濁さず”でもぬけの殻であった。シーンと静まりかえっていて、昨夜の喧噪がウソのようだ。心理的には朝寝坊のバツの悪さか、せめて外界の様子を見てとりつくろうとベランダに踊り出て大船・平治の連なりを仰いだ。

 ところが、鳴呼(ああ)果たせるかな黒い山容がシルエットとして浮かび上がり、天空は紅からオレンジを敷き詰めたような荘厳な朝焼けが占拠して、圧倒的迫力に少なからずたじろいでしまったのだ。頂上からのご来光には及ぶべくもなかろうが、労せず山の大絵巻としてのワンシーンを見ることができた訳で、たとえそれが朝焼けであっても(下り坂の天候を予知する心の重さよ)、そして黎明の頂を目指さなくとも、山中で元旦を迎えることのヨロコビはこんなところにあるんだろうな、と思うんであります。 

            
                  元旦の大船山夜明け(法華院温泉から)

 そしてガランとした朝の湯小屋で新年最初の“おゆぴにずむ”を楽しみ、そこそこの賑わいをみせる食堂で、ささやかなお雑煮とおせちセットを戴く段になると、身体の方もジワジワと正月を実感できうる状況になってくる。しかし朝食を取った後は旅立ち以外にすべきこともなく、日中からの大荒れ予報を予感させる曇天と、だんだんと強くなってきた生暖かい風に追い立てられるように下山準備に勤しんだ結果、午前8時を待たずに出発と相成った。

 で、親子バトルの恰好の舞台となった、坊ケツル平原での先陣争い、森の中の急降下、勢いつけての鳴子沢徒渉、そして大船林道の豪快なダウンヒルと、このコースの醍醐味を存分に堪能することができたが、ありきたりの表現しか才もないので詳細は割愛したい。ただ昨年とは違って、今年は雪のひとかけらもない全くの夏道をトップスピードで下ることになり、サドル、ハンドルからの衝撃や、砂利に乗り上げて転倒の憂き目に遇う確率の高さなどから、昨年の雪道の心地良さの印象の方が懐かしさと共に強く脳裏に残っていたことも事実であろう。ともあれMTBによる下山は瞬く間に終わった、と物足りなさがもたげつつの感想であったが、下りきった吉部集落から長者原までの8kの道程は、延々と続く緩い上りに加えて強烈な向かい風に阻まれて、なかなかつらいものがあった。さっきまでとはうって変わり、物足りないなんてとてもとてもの感強しであって、下界に降りてきて緩んだ気持ちを重ね合わせると、むしろ今山行中、最大の難行であったのかもしれないと思っている。

 しかしこういう時こそ息子のトレーニングの機会確保をおもんばかって、ちゃんと前を引くように引導を渡したのは言うまでもない。いっときはブツブツと文句ともとれる言いぐさを発してペダルを漕いでいたが、もちろん親としては一時の苦労を経験させるべくの度量で言っているのであって、「親は楽チンでいいのか・」などと愚息が宣いそうな、狭い了見ではないことは強く申し述べておきたい。そしてそれはともかく、こうして10数年ぶりの年越し山行は、強風吹きすさぶ長者原に辿り着き、無事おひらきとなったが、九重の山々にだんだんと覆いかぶさってくる雪雲と烈風を身をもって感じ取れば、急遽の一日前倒し計画の立案と即実行も『やむを得なかった・』と、更に自己弁護に努めるところである。どうも新年早々弁明に始まり、今年一年の計としてはおだやかでないが、願わくば今回だけの戯れ言であって欲しい、との本音の部分も併記しておしまいとしたい。
(コースタイム)
12/31 長者原12:55⇒(MTB)⇒すがもり越14:00 05⇒三俣W峰14:38 42⇒三俣南峰14:52 15:00⇒三俣本峰15:12 14⇒すがもり越15:42⇒(MTB)⇒法華院温泉山荘16:40 法華院温泉入湯
1/1  法華院温泉山荘7:50⇒(MTB)⇒大船林道入口(ゲート)8:10 14⇒(MTB)⇒長者原8:43 筋湯(うたせ湯)入湯
                    (平成8年12月31日〜平成9年1月1日)

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