父と子の伯耆大山スキー行状記
「お父、オレをスキーに連れてって!」の巻                                                                       
栗秋和彦 

 

 7年4月ダイヤ改正の提案日を間直に控えて、まわりは皆んな忙しそうに立ち働いているこの時期に、大山スキーツアーに参加するなんて全く予期せぬ出来事であった。そもそも事の発端は、関連会社へ出向中の先輩、T氏の誘いに始まる。ぶっきらぼうな性格ゆえ、その述べ口上がふるっていた。「栗秋、お前まさかスキーなんぞは出来んやろうな・・・・・・(俺はうまいんぞと言いたげな口ぶりで)・・・・・」である。青春期、伯耆大山で開かれた大分県スキー選手権は大回転の部で、新日鉄室蘭から転勤してきた(新日鉄大分へ)本場のスキーヤーたちを向こうにまわし堂々3位入賞の実績を持つ“アルベルト・トンバ・栗秋”を前にして、この言葉は非常に挑発的ではあるぞ。「何を先輩、おっしゃいますな、生来のスキーフリークのこの私をつかまえて。ホーキダイセンは国際のチャンピオンやリーゼントコース、それに豪円山ジャンプ台がホームゲレンデであるぞよ」とボクはすかさず返したが、この言葉に落とし穴があろうとは気がつかなんだ。「おおそうかそうか、そんなら我が社主催のスキーツアーに行こうぞ。オレも行くしな。木曜の夜出るき、一日休みを取ればいいからの」とたたみかけてきた。

 「ムムでも金曜は会議も入ってるし、休めんばい」と、とっさの攻勢に逃げ道を探ったが、元上司の誘いは巧みで「そんなもん、誰かに代わって貰えばいいやろもん。それにこのツアーはJR協賛やしね」と握りしめていたチラシを見せる。さらにちょうど居合わせた、我が直属上司のS課長へもモーションをかけたが、もちろんこれは囮で、あくまでも本命落としのジェスチャーであることはみえみえであった。一方、課長はと言えば、自分まで火の粉が降りかかってこないのが分かると、「うんそうだな、会議は代わりを探せばいいし、協賛しとるんなら代表で栗ちゃん行くか」とノーテンキなご返事。完全に外堀は埋められてしまい、万事休すの状況となってしまったのだ。

 しかし、もともとスキー大好き人間ではあるし、自分の趣味を平日に費やす“大義名分”が出来た訳でもある。息子も連れて行けば、「お父、たまにはオレをスキーに連れてって・(ちょっと古いなぁ)」とかねてからせがまれていた約束を果たすことにもなるぞと思い直して、しぶしぶ(と表情はカモフラージュして)とその場で承諾したであった。そして帰宅後、この旨を寿彦に下命すると、さしもの子わっぱもしおらしく応答したね。「やった・....けど学校は無断で休めないし、正直に父とスキーに行くので、風邪で(?)休みますと先生に言おう」と子供なりに、善後策を考えているようであった。

 そしていよいよ出発当日、夜行スキーバスに集まったのは、全部で28人。前の方にT氏をはじめとする主催元のおじちゃんたちが控え、慣れぬ仕草で案内に務める様は見ていて気の毒であるが、今回はお客であり気にする必要はなかろう。他は年令不祥ながら、生保関連ギョーカイのお姉さんたち数人を交えて、我が社に関係ありそうな兄ちゃん、おっちゃんと多士(?)済々の構成模様であった。

 しかし普通のスキーバスと違うのは、のっけからいかにもおじちゃんたちが手掛けたツアーに味付けされていたこと。早い話しが前部座席四席を占拠し積み上げられた、段ボール箱の中身を見よ・なのだ。缶ビール、お酒、おつまみ類がびっしりと納められており、門司港スタート前から全員に振る舞われ、即宴会バスに早変わり。トイレ付きバスを指定した後にプランを練ったというあたり、得意な分野である移動宴会生中継に賭ける意気込みが感じられるのだ。もちろんボク自身もこのストーリーに異存あるはずはなく、唯一小人で参加の寿彦にも菓子やジュース類と潤沢にあてがう心配りがなされ、いつものひとくさりを忘れない寿彦をして、無言かつ満面笑みを浮かべて、すでにゲームボーイに興じるというツアー序盤の風景であった。 

 さて軽い二日酔いのまま息子に促され、そぉっと目を覚ますと未だ真っ暗であったが、そこは懐かしの雪国であった。街灯のあかりを頼りに目をこらすと、駐車場を徘徊する除雪ブルの走行音が間直に迫り、大量の雪塊を路肩に押し出す作業を、食い入るように見入る息子の表情はまさにオドロキを顔面すべてに書いたようであった。そして駐車場から宿への道すがらも、感嘆の表情を保持しつつ、妙に神妙な面持ちであったぞ。優に2mを越す積雪を生まれて初めて直に見れば、日頃口さかしい子わっぱとて圧倒されぬ筈はなく、父親としてはこの表情を盗み見ることが、楽しみのひとつでもあるのだ。そして更なる追い討ちは、宿で荷をほどいた後、おもむろに「さぁトシヒコ、夕刻までしばしさらばじゃ。一人で存分にスキーを楽しむがよい」と引導を渡すことである。

 というのも、ことスキーの腕に関してはビギナーの域を出ない、おじちゃんたちの企画としてはとても秀逸であったが(というより必要に迫られてなのかも知れぬが)、『全日本スキー連盟公認指導員による初心者無料レッスンが受けられます』という、このツアーの特典にのっかって、父と子は同一行動は取らず、息子にはたっぷりとレッスンでしごいてもらい、基礎を身につけさせたいと願う親心もにじませての発言であったが、「お父も足手まといがおらんでいいね、のびのび滑るんやろうね」と自分の立場を認めつつ、こ生意気にしっかりと返してきた。「ムム、一筋縄ではいかんわい」と思いつつも、すでに我が心は白いゲレンデにありなのだ。

 さて快晴に加え、さすがにウィークディだけあってリフトはガラ空き。迷わず一日券を買い求め、まずは中の原スキー場の中段付近をテリトリーとして滑りまくる。久し振りにスキーを操る感覚は、最初おっかなびっくり、そして少しづつ余裕が出てきて、後はフォームを気にせず(気にしてもよくなる訳ではない)ガンガンといつものパターンで攻めまくるのだ。しかも今冬は豊富な積雪量と昨夜の降雪で、上部の急斜面もコブの発達が殆どなく、回転も思うままに慎重かつ大胆に滑ることができた。

 そしてこの最上部のスタート台に立つと背後には、かって圧倒的なスケールに、血沸き肉踊りかつキョーフに苛まされつつ、挑んだ峻険な大山北壁が白い鎧をまとって控え、眼下にはボクのロングトライアスロン挑戦への原点ともいうべき、皆生トライアスロンを育んだ、米子は皆生温泉から境港に至る優美な弓ケ浜の海岸線と黒色の日本海が臨まれる。そして今自分の居る、中の原スキー場は青春の多感な時期、遠く大分から足繁く通いつめ、スキーの面白さを教えてくれた道場でもあり、このロケーションに何かしら因縁めいた感慨を覚えるのも不思議ではなかろう。(どうも齢40を越すと、回想シーンが多くなるなぁ)

 で現実に戻って、一人勝手気ままに滑っていると気になることがありました。7年振りの大山スキー場、以前と変わったのはリフト。モノシートからペア、トリプルへと輸送力増強を図り進化しているものの、利用者である若いグループ諸君はこのトリプル(ペア)シートへ、ボクのような一人者の同席を敬遠することが、まっこと多いのである。その度にボクは待たされ、あるいは彼らの方が一つ待つといった、非常に非効率な乗車スタイルとなり、おじさん(自分のことだが)の空中散歩は“一人悠然とされど寂しくもあり”が多かったのである。ウィークディでリフト待ち時分は殆どなかったにせよ、これにはどうもすっきりしないものがあるぞ。はっきり言って若者の“甘え”、あるいは“自分たちさえ楽しければ、他人のことは知らんもんね”といった精神構造がありあり、と見えてくるのだ。(事実、翌土曜日は午前中から混みはじめ、15〜20分待ちはザラであったが、この場面でもくだんのシーンが多々見られた。おじさんはとってもアングリィなのだよ)

 もちろん何も好きこのんで、バカ笑いミーハーギャル(ズ)や、オーバージェスチャー・ハデハデカップルと一緒に三人掛けしたくはない。しかし貸切でもなんでもない公共交通機関では、たとえこれがスキーリフトであろうと最低の乗車マナーであるぞと言いたいのだ。特に混雑している時は何をかいわんやである。しかし希ではあるが、単独行動の美貌(に違いない)をサングラスで隠した妙齢のご婦人と相乗りした場合には、無言のままでは相手に対して失礼であろうと気にするあまり、あることないこと(でもないか)話しかけることにしているが、こういう時はけっこうレスポンスよく、いろんな話が返ってきてこれもまた楽しからずやである。しかし「何だ、おじさんはただ単にスケベェ根性を丸出ししているだけではないか」との声が聞こえてきそうだが、批判にはあたらない。“一期一会”を大事にすることが、老若男女やシュチエーションを問わず人生の本質なんだよ。たかがスキーというなかれなのだ。(とは言っても、にじり寄るような老若男類では困るけど)

           

 一方、引導は渡したものの、「息子はどうしてるかいな」と多少は気になるのが親心というもの。一度はレッスン風景を覗いて見ようかと、昼時に豪円山スキー場の緩斜面を滑り降りて行くと、いたいた・ お姉さん、おじさんたちのグループの中に少年が一人、日頃と違い、神妙な面持ちでレッスンを受けているではないか。まだまだ危なっかしい滑りで、見ていて面映ゆいが、たかだか2〜3時間で結果を求めるのは性急過ぎるというものだろう。そして薄暗くなった午後6時前に喜色満面で帰宿したものの、父上にレッスンの成果を報告するではなし、いつもの淡々としたゲームボーイ少年に戻っていたが、まわりのおじさんたちから聞いたところでは、昼食もそこそこに一人練習に励み、午後のレッスンが終わった後も、レッスン友達のお姉さんたちと、中の原下部界隈を繰り返しボーゲンで滑り興じていたというから、スキーの面白さが多少なりとも分かってきたのではと親の欲目で考えるのだ。

 そして2日目も天気は上々、土曜日とあって時刻が下がるにつれ混雑してきそうだし、午後1時半には宿を出るスケジュールでもあり、午前中それもなるべく早い時刻が勝負であるぞとの認識に立ち、谷ひとつ離れた国際スキー場へ足を運ぶ。目指すはチャンピオンコースであるが、本日はこのツアーの世話人T氏親子や会社の若き同僚、F君T君と連れ立ってのこととて、しばらくは無理をせず中段から下部(とは言っても、一気に1k近く、標高差200mのダウンヒルスケールはなかなかのもの)で身体を暖めつつ、上部チャンピオンコースへの機を伺った。

 そして下部のリフト待ち時分が長くなってきたのを機に、「ここまで来て上へ行かずんば、男じゃねえぞ」との半ば強引な誘い文句で相棒のF君をその気にさせ、二人で乗り入れる。是非彼にも大山を代表するアグレッシブなこのコースを体験させたくとの思惑であったが、いにしえの記憶では狭隘な急斜面でのコブとの格闘ばかりが思い出される。しかし今回は中の原上部と同様、豊富な積雪に恵まれコブの発達も少なく、思いどおりスキーを操ることができたのだ。「フフフ....まだまだオレの腕も捨てたもんじゃないな」と一人ほくそ笑むおじさん。一方、F君も果敢に攻めては転倒しつつも、緊張と充実感の交ざり合ったいい顔をして滑り降りてきたぞ。いまさらフォーム云々を論じても始まらぬ、自己流の我が身としては『スキー上達への道は転倒を恐れず果敢に攻めること』と吹聴しつつ、F君を見守っていたのでした。要は攻めのスキーが大事なのであります。

 で楽しく、エキサイティングな時間はあっと言う間に過ぎ去るのが世の常であり、場面は替わって帰り支度の宿にとぶ。息子はといえば先にしっかりと昼飯を終え、半日ぶりの再会で開口一番「お父、オレも攻めのボーゲンが出来るようになったぞ。結構、スキーも面白いわい」とか「リフトの11回券なんて物足りないね、すぐ使っちゃうよ」と得意満面な様子。緩斜面のボーゲン操作ごときの腕前で、こ生意気に宣うあたり、攻めのスキーならぬ攻めの言動が先行していたが、下山時刻も迫った中で、肝心の帰り支度をすっかり忘れて浮かれている様はやっぱり小学生だなと苦笑してしまうのだ。もちろん、帰りのバスも心暖まるおじさんたちの計らいで、移動宴会場として準備されており、素直に逆らわず、攻めの宴席を務めたことは申すまでもないか......。

 後日、息子に甘い奥方はこのツアーの顛末話を聞くなり、「いくらスキースクールに身を預けたからといって、親子で参加してまったく行動を共にしないなんて、親のカントクギムホーキも甚だしいわ」と一方的にデフォルメして、ボクを責め(攻め)たてるし、思わぬ休暇をエンジョイした半面、仕事のツケは翌週にキッチリと巡ってくるわで、この方面でも攻めたてられた如月ではあったね。しかし、某ノンバンクが煽るTVのコマーシャルではないが、少々の無理は承知の上でも、“スキーはこの時期にしか出来ないのだ、行くしかないね・”と結論づけてこの話はおしまいとしたい。

(スケジュール)
2/16〜17 門司港21:30・・(JRバス・R9経由)・津和野0:00頃・・・大山寺5:40 6:30・宿(中の原スキー場・ホワイトパレス)7:00 9:00〜18:00まで父は中の原&上の原で、息子は豪円山&中の原下部でSkiing 
2/18 9:00〜12:30まで父は国際で、息子は上の原下部でSkiing 宿13:30・大山寺13:50 14:20・・(JRバス・米子道〜中国道経由)・門司港20:15 
                         (平成7年2月16〜18日)

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