初秋の清栄山に柴田芳夫さんを偲ぶの巻 
〜阿蘇・南外輪早駆け走を付録として〜        栗秋 和彦
 
 福岡山の会の重鎮でかつ我が山のいで湯愛好会会友の柴田芳夫さんが阿蘇外輪・清栄山の頂で急逝されて早一年が経とうとしている。突然の訃報に触れたものの、世俗事にかまけて時間だけが過ぎていき、心の奥底に幾度となく氏の残像が残った。

 生前、氏の国内はもとより、諸外国を巡る遠大なる足跡は幾通にも及ぶ山の書簡や、折にふれご恵贈いただいた福岡山の会々報『せふり』、山と渓谷社刊『諸国名山案内』、山の風景をモチーフとしたポートカレンダー等々により、あまねく我々の知るところであったが寡黙にして温厚な人柄から受ける第一印象はごく普通の登山家に写り、とてもそのエネルギッシュな全貌を伺い知ることはできないだろう。しかし氏の作品(写真)に見る、山の四季の自然や野の花の温もりに接して、意外にも氏の山の原点は九州の低山とそれを形作る野の花草にあるのだという強い確信を抱くに至った。そしてその意味でススキが群れる初秋の阿蘇外輪の頂が終焉の地となったことは、何かしら必然の妙が伺えるのである。そんな折、挾間から追悼登山をやろうというタイムリーな提案がなされたのだ。中秋の名月のこの時期、鍋平の草原で月見としゃれこみ、自分にとっては未踏の清栄山の頂で、ありし日の氏へ思いを馳せることにしよう。

 しかし加藤、挾間、高瀬の賑やかしい人種が相手とあって、月見が大宴会になったり、頂で放歌喧噪にわたらぬように、厳に謹まなくてはと心配の火種は尽きないが、先ずは根子岳南麓の鍋平キャンプ場に午後9時過ぎに到着した。満月に根子の鋸状の山塊が鈍く照らされて、覆いかぶさってくるような錯覚に陥り、あたりは静寂が包む。もちろん誰一人として先客はいず、この広大な草原の一角を占有できるのは贅沢このうえなし。それにしても世の岳人(ここはぐっとへりくだってキャンパーも含めて)たちは、中秋の名月を愛でるには恰好のこの週末、このロケーションに身を置かずして、何を探し求めているのだろうかと、憂い半分、寂しさ半分の面持ちで語るは首謀者、挾間。一方、加藤はおぼろ月夜もそこそこに「腹が減っては月見もできぬぞ」と張り終えたばかりのテントに陣取り焼き肉、その他アラカルトメニューの準備、調理の采配をふるった。

 そして清栄山方面に向かっての“乾杯”から夜会は進行。追悼登山を控えて慎ましくあるべきところを、加藤の替え歌500選や挾間の山岳走こだわり自己満足説展開論に、口角泡を飛ばし周りの静寂を破ることのないように注意深く見守ったが、宴の序盤こそひとしきり甲高いはしゃぎ声に支配されたものの、この山行の目的を充分理解してか、はたまた寄る年波に勝てずか、日付が替わると急に静かになり南阿蘇のゆったりとした時の流れに身をまかせた。

          

 翌18日、長老の加藤が一番の早起きである。暗いうちから周囲の草原を探索していた模様で、もうろうとしたよどみの中で挾間、高瀬もゴソゴソと起き出し、朝焼けの東の空に向かって何やらわめきつつ歓声を上げている。まことに高血圧症候群のおじさん3人の朝は人の迷惑も顧みず早いのだ。というのも、今日は早立ちをするような山行ではないので、もう少し山で一番の楽しみである、目覚めのまどろみを少しは味わってもいいのではないかと思うのだが、3対1では形成はいたって不利である。いさぎよく諦めてテントから出ると、至近距離に大きな赤牛が数頭我々のナベ、カマをひっくり返して嘗めまくっているではないか。ここはキャンプ場=牧場であって昨夜の牛の遠吠え(?)の記憶はあったが、まさか目の前まで仁義抜きで侵略するとはもってのほかである。それにしても大きな茶色目でギロリとこちらを睨む風采には、そのずうたいと相まって威圧感があるのだ。3人は早起きしたものの、テントに寄り付かない理由がやっと分かったような気がしたが、もっかの仕事は彼らを追っ払うことであり、ボクは三脚を振り回しへっぴり腰で恐る恐る我々のテリトリーから排斥を試みた。そしてどうにか未練がましくも重い腰を上げてくれたが、よく考えてみると牧場の中をキャンプ場としているので、逆に先住民(牛)である彼らのテリトリーを我々が侵していたんだなぁ、これが。大袈裟に言えば、赤牛との共存なくしてこの鍋平には泊まれないという真実を目の当たりにした訳だが、彼らとは次回じっくり仁義をきることとして、高曇りの中慌ただしい出発となった。

 で、話を本題に戻して清栄山である。高森町村山集落から九州自然歩道に沿って牧道(コンクリートのたたき道)を黒岩峠へ目指すことになるが、麓から見るこの山は中央部分に櫛状の岩壁が連なりちょっとした眺めである。くねくねした牧道を上りつめて登山口の黒岩峠(850m)へ。ここに車を置き、いよいよ登山開始。とはいっても距離にしてわずか600m弱、標高差150m余の山登りではあっという間の出来事であるが、文字にすると、『広い斜面の急登から尾根道がしだいに狭り、背丈以上もあるカヤトとシーズンオフというのにしぶとく生きながらえた野アザミの攻勢に遭い、若干たじろきつつ強引に突き進むと、更に痩せほそった尾根となりフッと視界が開け、ススキの穂が揺れる初秋の風爽やかな清栄山の頂に出た』となる。ちょうど1年前、柴田さんが根子岳へカメラを構えシャッターチャンスをうかがい横になった.....との記述を思い起こさせるように山頂からの展望は阿蘇五岳はもちろん、九重、祖母傾山群、脊梁の山々と飽きることがない。

 早速、三等三角点の傍らに置かれたベンチを利用して、ロウソクと線香に火を灯し、阿蘇の地酒・神乃杉をご神酒と見立て、地元アサヒ博多蔵出しBeerと何故か『もみじ饅頭』も供えて、にわか作りの祭壇をしつらえる。今にでも柴田さんが『やぁ、皆さんこんなところで奇遇ですねぇ・』と元気な姿で現れそうな錯覚を覚えつつ、あくまでもたおやかな雰囲気の山頂にたたずみ、しめやかに“おゆぴにすと”流の式典に移った。まずは福岡方面を見据えて、挾間式典執行委員長の発声で全員1分間の黙祷を捧げ、おもむろにお備えのお神酒をいただき、柴田夫妻と同行した大分100山完登の山となった天神原山とその前夜祭に話題が集まった。日ごろ賑やかしい彼等をもってしても、この雰囲気はひとときの厳粛かつ緊張した面持ちを演出させたようであった。何はともあれ、氏のご冥福をこの頂で祈れたことに感謝、そして再びの合掌でお開きとした。   

          

 さて次は、うるさく挾間が宣う南外輪山早駆け走への試みである。本来、『妥協を許さないひたむきさと高峻な山岳において自らの体力だけをたよりに山に挑む』(注1)というレトリックを駆使した単独早駆け走を標榜する挾間にとっては人の手も借りず、自己の限界に挑戦することこそ貴い筈であろうが、今回のような気心の知れた者同士のグループ登山になると、彼のまな娘(愛犬)“ペロ”にも似た『さみしがりや症候群』の性癖が表れ、なかなかしつこくパートナーを求める。結局、くだんの式典執行委員長の威を借りて伴走にボクを指名して「本当は高森駅からこの峠を経て南外輪を忠実に辿り、俵山を踏み長陽駅まで累積標高差2200m、換算距離45.6kを一気に駆け抜けるんだが(注2)、今日のところは出し抜けの発案でもあるので、心の準備等々を考慮して10k先の長谷峠あたりまでとしたい。よろしいか・」と鋭く吠える。ボクは地理不案内のまま「しょうがない、付き合うか」と観念していったん黒岩峠まで戻った。

 そして加藤、高瀬はサポートカー付きとして、先ずは3.3k先の高森峠を目指しスタート。気の進まぬ体に、のっけからの急登で息も絶え絶え。車が見えなくなるとすぐ速足歩行に切り替え(切り替えざるをえない)、牧草地を一望出来る900m余のピークに出る。ここからはのんびりと草を食む赤牛を眼下に眺めながら、ランニングで連続する小ピークのアップダウンを繰り返し、道標に従い林の中の荒れた地道をゆるやかに下ると、突然舗装路に出てビックリ。ここには中高年男女の登山グループがたむろしていて、数人のオバチャンの奇異な(ランニングで息せききって駆けてくる青年?二人を認めて)視線に応えようと、この年代のオバチャンが好みの挾間は休憩を目配せで要求してきたが、当然無視しつつ先を急ぐ。

 そして30分余でバイパス国道265号がトンネルとなる新道の高森峠に到着。旧道の峠はこのトンネル上の稜線にあるのだろうが、「まさか、あの安全運転の見本みたいな高瀬が操るサポートカー組はまだ来ていまい・」とタカをくくっていると、トランシーバーの声は頭上から降りかかってきて、丸っこい加藤の姿をはるか上部の稜線に認めたのだ。どうもこっちの方がルートを外れてしまったようで、とにかく草つきの直登を余儀なくされ、思いがけないアルバイトに、ほうほうの体で“ほんまもんの峠”に辿りつき出迎えを受けたのだった。それにしても累積標高差2200m、換算距離45.6kの十分の一にも満たないスケールの走りで、このていたらくでは先が思いやられるわいとつぶやきつつ、とりあえず1.9k先の中坂峠での再会を約して再び走り始める。「単調な草尾根のアップダウンの繰り返しが結構堪えるんだよねぇ、挾間さん・」と声をかけるも、意固地一徹のワタル兄は額に汗を浮かばせながらも、「ムフフフ....」と苦み走った笑みを返しただけで、言い出しっぺの早駆け走に陶酔しきっているのだ。「こりゃあ、だめだ・態度が完全に下嶋 渓(注3)してるぜ」とボクは悟り、次の中坂峠からは彼を気持ち良く送り出し、サポートに励もうと目論んだ。

 ところが、峠に我々より一歩早く着いた加藤、高瀬に迎えられ、ギャラリーを得た彼は「さぁ、長谷峠へ・・」と鼻息荒く宣っていたが、一人になるのが分かると急にトーンダウンして「マァ、今回は急遽のことだから、このあたりでいいか」「でも、ちょっと距離が足りないなぁ」「しかし、この後のいで湯行脚を考えると、早駆け走ばかりに時間をとっても皆に悪いし....」「よし、決めた・オンセンだ。地獄温泉の混浴だ・ ウヒヒ」と一人舞台を演じた後、車上の人となった。 

 結局、いろいろ能書きを並べたてても人恋しさを隠すことのできない心やさしき(軟弱とも言うが)ワタル兄であった、と持ち上げてこの南外輪早駆け走の顛末話はおしまい。追悼登山も後半は随分と賑やかしいものになってしまったが、柴田さんも草場の陰で苦笑いしているだろうなぁ。

(コースタイム)
9/17 大分(松ケ丘)18:50・・(野津原、久住、産山経由)・鍋平キャンプ場21:20 
9/18 鍋平7:50・・・黒岩峠8:13 18・清栄山8:36 9:03・黒岩峠9:16 27・高森峠9:56 10:20・中坂峠10:40・・・   阿蘇・下田温泉入湯(南阿蘇鉄道.阿蘇・下田駅舎)・・・県道俵山峠・俵山ふもとの鎮守の森(昼食大宴会)12:40 13:50・・・地獄温泉入湯(雀 の湯、露天の湯)14:30 15:25・・・長湯温泉入湯(長寿館別館の露天風呂)17:40 18:15・・・大分(大分駅)19:15
(注1)おゆぴにすと第6号(平成6年7月1日発行)P59 特集3『おゆぴにすと山岳走に挑戦・・』参照
(注2)同上 P61 由布・鶴見の連山走破の項、参照
(注3)中年にして山岳走の第一人者、東工大教授。著書の『ランニング登山』(山と渓谷社刊)をバイブルにしている中毒ランナーは多いという
                            (平成6年9月17〜18日)

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