天瀬・顕徳坊と憩いの家の湯  栗秋和彦
 今月はスト対策に明け暮れ、生産的な仕事が出来ず、当然この時期に進めていなければならない次期輸送改善の素案づくりや、車両運用計画が積み残しになった。どうも気になって仕方ないが、ストの方も一段落し、久し振りの連休とあっては家でじっとしていられない性分としては何か行動を起こさなければなるまいと思っていた。

 そこで今月のスケジュール表を眺めてみると、なんと“いで湯”に一回も浸っていないという、おぞましい現実にさらされていた。“おゆぴにすと”のはしくれとしては未入湯の月を黙って看過する訳にはいかないのだ!という強い信念のもと(遊びになるとキッチリよ〜やるという影の声がもう既に聞こえてきている!)春は弥生、一泊二日の予定で日田へ帰省した。最近のパターンとなりつつある、何とかグズグズ言わずについて来る寿彦と一緒にである。当然、天ケ瀬温泉ということになるが、今回はいつもの天竜荘前の露天・薬師湯にどっぷりと浸って『全面的に身も心も預けるよ』という態度はとらず、ちょっと趣向を変えてみることにした。

 父子孫3人の天ケ瀬詣でを見守ってきた母も強引に誘って4人での湯行がその証のひとつである。そして場所も町営の憩いの家と決めたこともあって、今までの“げた履き湯浴み”とは若干、趣が異なり、観光地天ケ瀬温泉探訪と位置付けた。そこで、ボクはかねてから玖珠川を挟んだ温泉街のすぐ北の台地に位置する湯山集落の守護神・顕徳坊尊を訪ねたいとの思惑を実現させるべく、ここを組み入れることにした。参拝してまず心を清め、そしていで湯に身を捧げ、心身ともに暖まるという構想はどうだ!と気負ってみたが、深く考えてみると(考えることもないが)マァいたって単純でノーマルな発想ではあるわな。 

 さてまず、守護神・顕徳坊尊の由来から入らなければなるまい。顕徳坊尊は江戸時代後期、今の山形県米沢に生まれ無冠の僧として放浪の旅?の末この地、湯山村へ辿りつき病死したとされている。その時、村人に持金全部を村へ寄贈する、ついては生まれ故郷の見える場所へ葬っていただきたいとの遺言を残したとのこと。村人は其の志を憐みせめて故郷を見はるかす思いでもなればと村で一番高い長美野に葬ったという。生前の彼は名高い高僧でもなく、魔力的説法力を有する超人だったという記録もなく、これまた何の変哲もない話になってしまうが、霊験あらたかな影響力を持ち得たのは没後、村人がこの塚を、日々の苦しみ、悲しみなど諸々の願望をこめ崇めるようになってからだという。

 御加護御利益は人から人へと言い伝えられ、たくさんの信者がはるばる参詣に来る様になり、風光明媚なこの地は終日賑わいを見せていたという。そして時代を経ても、これにあやかろうと訪れる人は多いのだろう。薄曇りの肌寒い日和、しかも午後の遅い時刻ではあったが、我々の他にも何組かの参詣客を迎えていた。落葉樹の疎林の中、コギレイに整備された煉瓦風の参道をつめると、ほどなくこじんまりとした社と出会う。よく清掃のいきとどいた八畳ほどの社の内には顕徳坊の座像を中心に草花で飾られ、落ち着きのない寿彦をしていっときの神妙さを演じさせる、何らかの霊験を感じさせられた。

 さてこの社の裏手にまわると草原がつづき、頂上台地の一角に高さ15mはあろうか、きのこ形のユーモラスな展望台が設けられている。目ざとく見つけた寿彦は駆け足で登り詰め、モデルよろしくVサインを送ってくる。もうすでに霊験の呪縛?からは完全に逃れたのであろうか。草原を走りまわる姿を追いながら親としては苦笑する一幕もあったが、まわりの玖珠・日田の雄大な山並みを鳥瞰しつつ、その風景を脳裏に留どめた。「さぁそろそろ下ろうか」父上の言葉で腰をあげる。もちろんこの時、憩いの家のサラサラした湯の感触を楽しみ、休憩室にある大型TVで大相撲春場所14日目の取組みを見ろうと先を急ぐ父上の目論みを既に見抜いていたことはいうまでもなかろう。
(平成5年3月27日)

back