私の堀田温泉  荒金通子
 堀田温泉ほ、別府市街地よりバスで20分ほど湯布院方面に登った所に位置しております。この地は、別府温泉の源として、とても大切な役目を持っています。堀田には、昔、谷の湯、奥の湯、前の湯と3つの温泉がありましたが、今では、谷の湯の利用はなく、奥の湯、前の湯と言っている2つの湯を村人は、よく利用しております。

 奥の湯や前の湯と言う呼び方は、村の人々の通称名で、本当は、前者を西温泉、後者を東温泉と言います。私の思い出の多くは、この東温泉の方にあり、村人風呼び方で前湯(まえんゆ)と言わせてもらいたいと思います。昔から堀田に住んでいた人よりも新しく引越してこられた方が多くなってしまい、今では全く考えも思いもよらない温泉の活躍が昔はありました。

 大人も子供も、温泉が生活の中で生かされていて、ただの“ふろ”という感覚ではなく、生活必需品だったと思います。洗濯、掃除、炊事、飲み水などは言うまでもなく、ある時は、情報交換の場、遊び場でもありました。私の家には五楳乃湯ができ、段々と前湯から遠ぎかってしまいました。それでも中学の頃までは、利用させていただいておりました。

 裸の思い出
 その昔、別府の町にほ、木炭バス、トレーラバスと言うものが走っていた頃のことでございます。夕方になると大人(と言っても女性、老人が多かった)は、子供達の手を引いて、前湯へ、そして入湯。すると、やがて上記のバスが町の方から仕事を終え帰宅する大人(と言っても父親に当たる人が多かった)を乗せ、ゆっくり登ってきます。そして人を降ろし、また湯布院方面へ向けて出発。そのバスの到着を入湯しながら皆、待っていました(勿論私もその一人)。子供達は、バスが来たと叫びながら、湯船からとび出し、屋外へ。

 そして降りてきた大人に向って、こう叫びました。「とうちゃ−ん、とうちゃ−ん」と。毎日、この繰り返しでした。その子供達の姿は言うまでもなく裸です。いつの日からか、この様な姿は、私の成長と共に消えてしまいました。淋しい思いが致します。叫ぶ方も叫ばれる方も恥しいと言うこともなく、親子の心温まる交流だったと思います。またある時は、同じ様に夕方、入湯している時に停電などすると、例のバスの到着を待っていて、同じ様に裸でとび出し「とうちゃ−ん、停電したけん、ローソク買って」とねだったりして、1本のローソクで何人もの人が入湯しながら、電灯のつくのを待っていました。

 さらに、もう一つの思い出は、昔も今と同じように、一応、男湯、女湯に分れていましたが、天侯や掃除、湯や水の当て万が悪いと、熱すぎたり、温すぎたりすることがよくありました。するといっしょに入湯していました。ほとんど混浴という状態だったと思います。初めは、それぞれに分れて、男性は男湯へ、女性は、女湯へ入りますが、どちらからともなく、お互いに、こう叫びあっていました。「そっちん湯かげん、どげえかえ」と、すると熱いとか温いとか、丁度良いとか言う答えが返ってきて、丁度良い湯かげんの方に、老若男女、皆、こしにタオルを巻いて、バス通路からまるみえですが、裸で移動していました。

 ふろの壁は、一体何の役目をしていたのでしょうか。この様な移動をしながらも入湯時、脱衣するのは、男性は男湯へ、女性は女湯へ一様に入っていたのも不思議です。最初から、湯かげんの良い方に入れば、移動などしなくてもよかったのにと思います。今は、のぞきはあっても、この様な会話もなければ、移動する光景など全くなくなりました。なぜ、こうなったのでしょうか、淋しい。

 学校帰りの思い出
 小学校の頃、冬、北風が吹いて、学校から帰る時、手がかじかんで、冷たくなって、前湯の前までくると、ランドセルを背負ったまま、一斉に、前湯にかけ込み、そのかじかんだ手を湯ぶねに並んでつけるんです。そして手のかじかんだのを治し、体をあたためて、また家に向っていました。これも今は、みかけない光景となってしまいました。淋しいです。

 私の温泉の思い出は、ふろと言う役目よりも、他方面の思い出の方が多く語り出したら限りがなくなりそうです。この楽しい雰囲気の中で、私は育ちました。この雰囲気をまた堀田温泉に取りもどしたいと思います。また、このような楽しい光景のある温泉探しに出かけたいと思います。

back