−落ちこぼれアルピニストの弁明− その3 高瀬正人
 最近、岳人がめっきり減少したのではないかと思うのだが。自分が山に行く回数が少なくなったからそう思うのかもしれない。

 聞くところによると大学の山岳部は部員が少なく、ワンゲルとか○○愛好会は盛況らしい。時代と共に山登りも変る。

 「分衆の時代」とか「個性化の時代」とか、各自が好きなことをT.P.O応じてやる時代、やれる時代となったのだろう。

 ハングリーな山登り、悲壮感の漂よう山登りは遠い昔の話になったようだ。かつての「ヒマラヤの高峰、ヨーロッパの難壁」は、今やその話題性も薄れてしまった。「情報化社会」は、世界の距離感を無くしただけでなく、『知り過ぎる不幸』をもたらした。

 一方で「地方の時代」は、我々にとって新たな山登りの幕あけ、身近な山の再発見のきっかけとなった。何も穂高や剣や谷川ばかりが山じゃない!(本当はそう思っていないのだが)身近な大分にも100名山有り。それらの山々にも味わい深い山登り、人肌のぬくもりの感じられる山登りがある。これこそが、最先端ハイタッチな山なのだ。そして何よりも楽ちん、楽ちん、そして人肌とくれば当然「山のいで湯」と相成る訳だ。ここらあたりが、落ちこぼれアルピニストの面目躍如なのだ。

 「何故今山のいで湯なのか」この題の明快な回答は、実は私は持ち合わせていない。「ふるさとの再発見」「ストレスの解消」他‥・。各自に各様の回答があると思う。「やりたい時がしたい時」で良いのでは。理由はあとから付いてくる…。「落ちこぼれアルピニストの弁明」には常に決まり文句がある。あのモーリス・エルゾーグの言葉「人生には第2、第3のアンナプルナがある」…しかしながら日常にはあの「アンナプルナ」ほどのものは皆無、実にたわいもなくとりとめのない日常が、永々と続いてゆく。‥‥‥脱日常。「自己の意識を現前と認識たらしめる」現実が必要なのだ。

 脱日常、そしてあわよくば己が人生のあかしとしての見果てぬ夢、「ヒマラヤ高峰への遠征」ではなく、「ヒマラヤのいで湯行脚」を実現させるべく、ひそやかにそのチャンスをうかがっているのだ。「オユピニズムの実践の究極」はここにある。
「山のいで湯」は、これらの隠れミノであり、我々の山に没頭出来る機会でもある。

 「落ちこばれアルピニスト」は、落ちこばれで終りたくない。一流オユピニストを目指しているのだ。
                                         (おわり)

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