何故今山のいで湯なのか =落ちこぼれアルピニストの弁明=  その2  高瀬正人
 既に「アルピニスト」とは間違っても言えなくなってからかなりの年月が経ってしまった。歌を忘れたカナリヤは裏のやぶに捨てられるが、かろうじて人間のはしくれの私は、歌を唱わなくても、捨てられることはない。否、歌を唱う場がなくなったのも半分だが、ふと気がつくと、くちばしを開いた小鳥が3羽も巣の中にいるのである。ちょっと待てよ、これでいいのかな。突如持病のしゃくが頭をもたげる。「錆びたナイフ」ではないが、「錆びたピッケル」をしげしげ見つめる。されど「何を今さら…。まあ気晴らしに近くの山にでも遊びに行くとしたもんだ。」 久し振りに登る山。心地よい汗をかく頃より少しずつ山を取り戻す。登山なる行為は理屈ではない。感性の問題。山に同化できる者が山を登るに値する。高級なる登山と低級なる登山は常に存在する。それは登山行為を行う者の意識の中にある。‥‥かって、橋村一豊(成城大岳土鉄人会)の言葉を思い出す。「“山高きが故に貴からず”という諺はアルピニズムの世界には通用しない‥‥ピッケルをスポスポとついて歩いてゆけば自然に誰でも頂上に立てるような山は、いくら8,000mクラスの山でも高級な登山とはいえない。‥‥‥」こんな厳しい言葉も当然だと思っていたつい10年前の事を懐しく思いながら歩みを進める。山道に歩みを進める行為は私にとって、自分自身にぴったりフィットする行為なのだ。「天地以前に存せし、固有にして自然のもの有り、動かず、底知れず、それは独りありて変る事なく、あまねくゆき渡り、尽くる事なし。そは宇宙の母と見なさるべし。その名を我は知らず。しいて名を付さんとすれば、そは我を道と呼び、至高と名づく。至高とは進む事にして、進むとは遠くへ行く事。遠くへ行く事は、還る事なり。故に道は至高、天は至高地は至高、人もまた至高なり。宇宙に4つの至高なるものありて、人はそのひとつなり」
 なんとなくこのすべてを言い表わしているへッセの言葉を思い起しながら、いつしか頂へと到る。今西錦司先生は、日本中の一等三角点(ピーク)を踏む事を晩年のライフワークにされているようだが、私自身はそれほど頂上というものに興味が湧かない。むしろ頂上は下からながめる方がいろんな想像が出来て楽しく、特に初めての山の頂は、遠望しいろんな登山路を自分自身で想像(ルートファインディング)する行為は、それがいかに登りつくされた山にしろ、胸踊るものがある。‥‥山を降りる時には、いかに項上でゆっくりとした時を過ごしても、常に名残り惜しさ、さびしさがつきまとう。このさびしさを何とか出来ないものか‥‥。
 ここで「いで湯」の登場となる。疲れた体をいで湯に浸たす。友と山に語り、山を語る。しばし「無我」と「現実」のはざ間を往き来しつつ、己自身の中に何とも言えず拡がる充実感を感じてゆく。
 「山といで湯」これは、我々自身の登山スタイルであり、言い換えれば、ひとつの美意識でもある。これは「遊び」されど「遊び」なのだ。(つづく)

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